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9月, 2009の投稿を表示しています

スターは老いてもオーラを放つ

NHKスペシャルで2週にわたり「 ONの時代 」を放送した。 戦後最大のヒーローといわれる長嶋茂雄氏と王貞治氏にスポットを当てた番組だ。 長時間のインタビューをベースに当時の映像や、二人を見つめ続けた人たちの証言で綴っていた。 第一回「 スーパーヒーロー 50年目の告白 」は現役時代の二人。 天才長嶋と努力の王といわれた二人の現役時代の栄光と、その影に隠れた並々ならぬ努力が語られていた。 第二回目「 スーパーヒーロー 終わりなき闘い 」は現役引退後監督となった二人の苦悩を見つめた。 二人共通するのは、日本中の人々の「期待」に応えようと、懸命に努力してきた姿だ。 当時の人々にとって、長嶋氏の天真爛漫な明るさに夢と希望の象徴だった。 そして王氏の真摯なまでに打撃に向き合う努力に生き方を学んだ。 対照的な二人だが、人々の期待は高まってゆく。 長嶋氏は一般の人にはボロボロになる程の練習を見せることはなかった。 しかし、人々の高まる「期待」に常に応えるべく、血みどろの努力を怠らなかったという。 それは二人が金字塔を築き上げた現役時を過ぎ、監督となってからも形を変えて彼らに圧し掛かっていた。 私たちには想像もできない重圧と苦悩がそこにあったことが語られていた。 そして互いに病に倒れる。 そんな状況にあっても彼らは人々の「期待」を担い、それが自分たちの存在価値であるかのように受け入れていた。 「期待」に応える。 そのことの重さを知っているのはきっと歴史上でもこの二人だけだったろうとさえ思う。 私は真にON時代に成長した。 王氏のような努力タイプではなく、長嶋氏の天才的なプレーと、明るさに憧れた。 自分も同じようにできるものだと、いつしか勘違いをしていた。 だが、光のあたらない部分で、長嶋氏だって辛い練習に耐えていた。 ただ、彼はそれを人々に見せてはいけないと自らを律し続けた。 脳梗塞による後遺症でしゃべることにさえ苦労する長嶋氏。 だが、その目は、過去の栄光を語る時、低迷するチームの監督として苦悩したことを語る時、彼の気持ちを雄弁に語っていた。 50年前に二人が共に泥にまみれた多摩川グラウンドに立ったときの目には、あの時に近い輝きが蘇っていた。 そして、長嶋氏がサードの定位置に立ったとき。 そして、二人揃ってバッターボックスに立った姿。 それは単に回顧というレベルではなく、様々な

絶叫がぶち壊す作品の空気

TBSの2時間スペシャルドラマ「 母の贈物 」を視た。 向田邦子さんの生誕80年を記念して企画された番組だという。 原作は故向田邦子さん、プロデューサーは石井ふく子さん、演出は鴨下信一さん。 いずれもテレビドラマの世界で大きな金字塔を築き上げた人達だ。 向田邦子さんは独特の人間模様を描き出す脚本家として高い評価を得ている。 しかし、私にとっては、若い頃楽しんでいた「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の脚本を書いた人。 強い印象があるのは、NHKで「阿修羅のごとく」という作品くらいで、今のような評価を受けるほどの人だとは思わなかった。 鴨下氏は、「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」を演出したことで知られるが、いずれもそれ程好きなドラマではなかった。 石井ふく子さんはいわゆるホームドラマというスタイルを作り上げた人。 数々のヒット作を世に出したのと同時に、多くの脚本家を育て上げた。 確かに実績のある先輩達ではあるが、個人的にはさほど影響を受けたというわけではない。 「母の贈物」は「阿修羅…」に近いタイプのドラマで、向田邦子独特の人間模様が繰り広げられていた。 家族とは…、親子とは…と問い直してくるのも末期の向田作品に通じるテーマだ。 スペシャルというには、華のある出演者が出ているわけではない。 それよりも難しい背景を持った人物像を演じきれる人を選んだのはさすが石井プロデュース。 若い2人はともかく、竹下景子さん、石坂浩二さん、萬田久子さんもしっかりした役作りでそれに応えていた。 演出も、いまのドラマの作りとは一線を画すものだった。 たとえば、主な舞台を引越しが終わった娘のアパートと、結婚相手の家にしていた。 多分、番組の70%以上はこの2箇所だったのではないだろうか。 こうした変化のない場面設定でも閉塞感を感じさせないところ。 それに、突拍子もないことが起こったにもかかわらず、淡々と、しかしメリハリの利いたストーリーを展開ていたところに、この作品の質の高さを感じさせた。 これは演出と脚本の綿密に編上げたプランの勝利だといえると思う。 ただ、終盤に入り、母から長い間恋人がいたことを知った息子が絶叫するシーンでそれまでの空気をぶち壊した。 「ワ~ァッ!!!」という絶叫はテレビというメディアに相応しい表現だとは思えない。 それが舞台や、映画と違うメディアとしての特性のひと

熱演が作り出す疎外感

秋のスペシャル番組が編成される時期が来た。 どれをとってもあまり面白いとはいえない番組が編成されている。 もうこんなスペシャル枠の編成期間はなくしてもよいのではないか、と思ってしまうほど興味をそそる番組が少ない。 そんな中、ちょっと気になるドラマがあった。 テレビ朝日の「 だましゑ歌麿 」だ。 このドラマの原作は高橋克彦氏の同名小説。 歌麿は謎のベールに包まれた絵師で、その分作り手の側がいくらでも創作することができる。 どんな風に歌麿を創るのかと興味を惹かれた。 ストーリーは、愛妻を殺された歌麿が、その犯人を突き止め復讐を遂げるまでを描くサスペンス。 敵を討ち取るまで、歌麿が準備した用意周到な計画を『だましゑ』だとしている。 主人公の喜多川歌麿を水谷豊さんが演じた。 結論は、残念ながら食い足りない作品だった。 サスペンスというにはあまりに薄いつくりだったし、歌麿という人物像が描ききれていたとも思えない。 彼を取り巻く人々の描きこみも希薄だ。 松平定信が推し進めた寛政の改革が巨悪のような設定だが、そうした時代背景の描き方も不明瞭だった。 唯一、捜査にあたる同心(中村橋之助)の母(市原悦子=さすがの存在感)の台詞の端々にちりばめられているに過ぎない。 映像についても、特に歌麿にアップが多用されていたが、それも理解に苦しむ。 叫び声をあげる歌麿のアップは、ホラーと勘違いしそうなサイズで、ハッキリいって気持ちがいいものではなかった。 全体的に詰まったサイズの映像は作品の価値を下げる以外に効果はなかった。 何より水谷豊の時代劇というのが、まだ体に馴染んでいない。 立ち姿や、所作に美学がないし、殺陣にしても格好良くない。 役作りに対しても疑問が湧く。 「相棒」で作り上げた沈着冷静な杉下右京と一線を画したかったのだろう。 この歌麿は悲嘆にくれる感情を露にする。 水谷の熱演といえばそうなのだろう。 だが、私にはこれがどうにも邪魔で、過剰な演技にしか見えなかった。 役者さんは、演ずる際に細かくその人物に対するイメージを作り上げる。 撮影現場でも、監督に役作りについて提案してくることも珍しいことではない。 台詞や脚本についても注文がつくことがよくあるという。 この作品でも、水谷豊の演技プランが色濃く反映していたのではないか。 だが、ある意味役者エゴが、または主役に対する制作や演出の心遣