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真の日本女性は物悲しさが似合う

ワイドショーのコメンテイターとして評価を下げていた市川森一氏が、やはり脚本家としては巨匠だと納得させる作品を書いた。 NHKの土曜ドラマスペシャル「 蝶々さん~最後の武士の娘~ 」がそれだ。 オペラ「蝶々夫人」を題材にした自らの原作を、しっとりとしたドラマに仕上げた。 日本女性の真の美しさを、明治という時代の長崎を舞台に、物悲しく、ロマンティックに描き出した。 この作品のキーワードは『葉隠』という、日本伝統の武士道の根幹となった哲学だ。 宮﨑あおいが演ずる主人公の伊東蝶(蝶々さん)は、祖母から教え込まれたこの精神をよりどころとして生きている。 フランクリンを愛するようになったのも、最後に自害したことも『葉隠』に従ったとして必然性を持たせている。 そして何より、『葉隠』に従いながら、アメリカに憧れる蝶に、古い伝統と国際化という波が鬩ぎ合う明治20年代半ばの時代を象徴させている。 さすがだ。 宮﨑あおいは、しっかりと安定した表現でこの難しい役を演じきっていた。 若いが、演技派として高い評価を得ているだけの充実感があった。 特に、ふと垣間見せる艶やかな表情は、「篤姫」からの成長を感じさせるものだった。 この作品が「篤姫」から続く宮﨑あおいの続編、あるいは一つの集大成の作品という見方もあるかもしれない。 時代に翻弄される女性を演じるという点では「篤姫」と共通する。 しかし、それはNHKの広報戦略に乗せられている様で少し悔しい。 また、田渕久美子の大河ドラマ「 江 」と同列に扱われるのはもっと口惜しい。 田渕脚本は、あからさまな二番煎じのドラマで私たちを幻滅させた。 演出陣は上野樹里という稀有な才能を引き出すどころか、見殺しにした。 そうした駄作とこの作品は決定的に異なる、質的に対極にある秀作だ。 演出も激しい感情表現を避け、しっかりと蝶の心象を描くことに専心していた。 アップの多用は多少気になったものの、煩わしいものではなかった。 セットやCGとの合成など物理的な制約と、作品のテーマを考えれば納得できる範囲。 バックに流れる音楽にも好感が持てた。 作品全体に『葉隠』の精神が流れていることが伝わってきた。 この作品を視て、早坂暁脚本、深町幸男演出、吉永小百合主演の『夢千代日記』がオーバーラップした。 作品の底辺に

ドーショモナイ周年記念ドラマ

横浜ベイスターズの身売りが一段落したようだ。 落ち目のプロ野球の、弱小球団の買収劇は、相変わらずファンを無視したまま最終章に向かうらしい。 それにつけても、ベイスターズのオーナーだったTBSの無策ぶりはひどいものだった。 試合を放送するのことさえせず、見殺し状態で引き取り先を探すことに専念していた。 そう感じた人も少なくないだろう。 親会社のいい加減さは本業のテレビの番組にも影響しているのだろうか。 TBSの開局60周年を記念した「 南極大陸 」は見ているほうが恥ずかしくなる程のレベルの低さだ。 こんな前時代的で、陳腐なドラマで民放の大河ドラマと謳っている神経が疑われる。 木村拓哉を主演に、名だたる俳優陣が名を連ねていることだけで大作と考えているのだろうか。 朝日新聞の視聴室では「既視感」という言葉を使っていた。 次々と押し寄せるトラブル。 それらを人々の結束で奇跡的に乗り越えてゆく。 だが、その描き方は「サインはV」や「アテンションプリーズ」並みのものだ。 番組の公式サイトでは 日本復活の扉を開くため、そして愛する人の想いを胸に南極大陸に命がけで挑んだ一人の若き学者と、 彼と運命を共にした仲間と樺太犬との愛と絆のドラマ 「 南極大陸 」。 私達の誇る “日本” を作り、生き抜いた男たち、そして女たちの生き様を、是非見届けてほしい。 と主張する。 そのコンセプトはスタートから一度も胸に迫ってこない。 これまで各局が世に送り出した周年記念番組の中で、最もガッカリさせられた番組として記憶に残りそうだ。

ハイビジョンが強制する映像表現

明らかに新聞紙をまるめて詰めこんだボストンバッグ。 名匠黒澤明は助監督が用意したこのバッグを見て激怒したという。 彼は、脚本に書かれた旅の支度をバッグに収めていないことに憤った。 宿泊日数分の荷物がつめこまれたバッグには、当然その重さがある。 それがもたらす役者の演技の可能性の芽を、制作者が摘むことを戒めたのだ。 「雲を動かせ」ということに比べればけっして無理難題ではない。 今のドラマでは当たり前のように女性が軽々とスーツケースを運ぶ。 女優が引くスーツケースのキャスターの音が、中が空であることを宣言する。 名匠はそうした演技になることを嫌った。 リアリティー表現の原点として私がずっと心に留めていたエピソードだ。 NHKプレミアムで「 BS時代劇塚原卜伝" 」が始まった。 戦国時代を生きた日本を代表する剣豪の若き日の武者修行を描く。 NHKは過去に「柳生十兵衛」や「陽炎の辻」など時代劇に新しい波を作った。 劇画的な表現でチャンバラを描いたのだ。 中間的なサイズを排除して、アップとロングの切り替えしで見せた。 殺陣も従来のスタイルを捨て、力強さや、剣を振るうというそのことを際立たせて迫力を出していた。 今回の塚原卜伝の立会いもその流れの作品といってよいだろう。 堺雅人演ずる卜伝が、相手と対峙しているときの構えの緊迫感。 剣を振るうスピード感。 いずれも及第点だ。 牛若丸か忍者かと思わせるような、宙を飛んで相手を斬るという殺陣も、劇画的表現というスタンスに立てば、お笑いという域にはなっていない。 しかし、どうしても気になって仕方がない部分がある。 それは刀だ。 時代劇で使われる刀は当然本物ではなく、ジュラルミン製だ。 デジタルハイビジョンではそれを明確に映し出してしまう。 日本刀にあるはずの波形の刃紋はないのも、切先の鋭さもないことを暴露してしまう。 だから全く斬れそうではない。 そうした弱点を持ちながら、頻繁にアップが切り返され、そのたびにジュラルミンの鈍い光が画面で無用の存在感を主張する。 ましてウルトラ・ハイスピードカメラまで使用してアップを撮るという暴挙。 鼻先を通過する白刃が、葱さえ切れそうではないことを明確に自白する。 水戸黄門に代表されるようなチャンバラとは一線を画す時代劇とし

心地よい緊迫感の俊足ドラマ

CXの「 絶対零度~特殊犯罪潜入捜査~ 」が面白い。 昨年の「 絶対零度~未解決事件特命捜査~ 」のSeason2だ。 前シリーズは若くてドジな刑事桜木泉(上戸彩)の成長日記のようなストーリーだった。 ある意味上戸彩の魅力がメインになった、ありきたりなドラマだった。 ところが、リニューアルされ、任務も変わって番組自体の空気も一変した。 今シリーズは一言でいえばスパイ映画。 変装、潜入、嘘、盗聴などあらゆる手段で容疑者に接近し、情報を集め、事件解決につなげる。 そんな中で、主人公泉の葛藤が横軸に流れる。 番組全体を緊迫感が包み、駆け足で進むようなテンポはあるとき視聴者を置き去りにしてゆくようだ。 何より、尾行シーンの演出が秀逸だ。 昔、「太陽に吠えろ」では捜査員たちがチームワークで次々とリレーしながら犯人を尾行した。 それと匹敵するような緊張した尾行を随所に見せてくれる。 「24 -TWENTY FOUR-」以来流行している映像処理も上手く取り入れ、緊張感を作り出している。 ただ欲をいえば、スタッフが乗り込む偽装トラックの装備がちょっとチャチ。 「エネミー・オブ・アメリカ」程ではなくとも、ハイテク感は出して欲しい。 それと他の刑事ドラマにあるような説明的な部分がまったくないために、ちょっと目を離すと展開が見えなくなる。 ここに何か工夫があっても良いと感じた。 出演者の顔ぶれを見れば、テレビ朝日の「 ジウ~警視庁特殊犯捜査係~ 」にも期待したい。 黒木メイサと多部未華子という、これからのドラマ界で重要な意味を持つであろう二人の競演には興味を惹かれる。 初回を見る限り、期待を裏切られることはなさそうだ。 来週以降を楽しみにしたい。 しかし、「特殊犯罪捜査対策室」といい、「特殊犯捜査係(SIT)」といい、特殊な世界で活躍する刑事ドラマが主流になってきた。 それを否定する気はないが、できることなら王道の捜査一課が活躍するストーリーというのも見たい。 秋の編成に期待しよう。

オヤジが泣けるドラマ

6月26日、TBSの「 Jin―仁― 」が終わった。 最終回は26%の視聴率を記録したという。 最近のドラマでは驚異的な数字だ。 この視聴率の原動力となったのは、オヤジ層の支持だろう。 実際私が視るようになったきっかけは、知らぬ間に涙があふれたからだ。 涙を誘うといっても悲劇が繰り返されるわけではない。 村上もとかのマンガを原作にしたこのドラマは、現代の脳外科医・南方仁が幕末にタイムスリップして直面する出来事を描いた。 過去の人々の運命を変え、歴史を書き換える可能性に葛藤しながらも、近代医療を応用して人々を救う。 その過程で勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛など歴史上の人物と深くかかわって行く。 そのストーリーの荒唐無稽さと、随所に鏤められた、昔の大映テレビ室のドラマのような臭い台詞がオヤジの涙を誘った。 また、ドラマの中で繰り返される「神は乗り越えられる試練しか与えない」という台詞に、現実をオーバーラップさせたのかもしれない。 番組が狙った、「生きる」という意味の本質、懸命に生きる事の大切さ、人が人を想う気持ちの美しさ、そして人の笑顔の輝きが、素直に視聴者に伝わった証しといえるだろう。 ところで、私がこのドラマにひきつけられたのはもう一つ理由がある。 それは橘咲を演じた綾瀬はるかの魅力だ。 日本の美人女優を語る上で「お姫様女優」というくくりがあった。 東映の時代劇が全盛期だった頃のことだ。 佐久間良子、三田佳子などを輩出した。 ただ美しいというだけでなく、町娘にはない気品と芯の強さを漂わせていることが必須条件だった。 時代劇が衰退し、最後のお姫様女優といわれた藤純子(富司純子)が緋牡丹お竜となって、この譜系は途絶えていた。 その後大奥物などの映画もあったが、「お姫様女優」といえるほど存在感を示した人はいなかった。 「Jin―仁―」の中で、綾瀬はるかはその復活を感じさせてくれた。 「天然」ともいわれる本人のキャラクターもあるのだろうが、おっとりした面としっかり者の面を併せ持った武家の娘を見事に演じていた。 その魅力は中谷美紀や、麻生祐未など卓越した演技力を持った女優たちの中でも煌いていた。 今は時代劇が制作されることは難しいが、もっと彼女のお姫様姿を見たいと感じた。 とはいえ、このドラマも完結。 これからも、オヤジが家族に

FNS音楽特別番組を視て浮かんだ疑問

3月27日フジテレビの「FNS音楽特別番組~うたでひとつになろう日本~」を視た。 日本を代表するアーティストたちが、被災した人たちを音楽で励まそうという心あたたまる番組。 こうした番組はもっと早く放送されて良かったと思う。 ただ、2点ほど、どうしても気になった点があった。 重箱の隅を突くようで少々心苦しいが… 疑問1 一青窈の「ハナミズキ」という曲はここで歌うのに適しているのだろうか???  歌詞スーパーを見て、いくつかの曲で刺激的な言葉があるのにちょっとドッキリ。 その中でも一青窈の「ハナミズキ」には悪い意味で目を見張った。 水際まで来てほしい きっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい おさきにゆきなさい あまりにも被災した人たちの心を逆なでする言葉に思えた。 もちろん普段聴くにはとても良い曲だ。 ただ、地震や津波で被災した人に捧げる曲としてはどうなのだろう。 楽曲の趣旨はともあれ、もっと別の曲の方がよかったように思た。 僕の我慢がいつか実を結び 果てない波がちゃんと止まりますように この歌詞に被災した人たちを励ます気持ちを籠めたのだろう。 しかし、私には前の歌詞の刺激が強すぎて、素直には受け止められなかった。 まして、被災し、肉親を失い、避難所で肩を寄せ合って寒さに耐えている人たちにはどう響いただろうか。 疑問2 応援コメントで「頑張って」という人の声ほど空しく聞こえるのはなぜだろう??? きっと今日本で一番頑張っている人たちに、これ以上ガンバルことを押し付るのか。 コメントの締めくくりとしてはあまりにも軽々しい。 被災した人たちを励ます言葉になっていないのではないか。 過去、震災被害にあった人たちが訴えたのは「頑張ってくださいはいらない」。 NHKのニュースによれば、それは今回も同様のようだ。 「頑張れよりは、自分たちのことを忘れないでほしい」という声が多いという。 それに応えるという意味でも、布施明さんがいった「私たちは見捨てませんから」という言葉に胸を打たれた。 私たちに何ができるか。 多くの人々がこの思いを胸に宿したことだろう。 失われた多くの命や被災した人たち、 復興のために尽力する人たち、 そして、被災していない地域なのに「東北」というくくりの中で二次・三次の被害に見舞われ

時の流れを描いた秀作

前職を退職してバンコクに生活の拠点を移した時に、一つの番組を企画した。 それは、東南アジア諸国の由緒あるホテルを詩情豊かに紹介するというもの。 タレントがガヤガヤ押しかけるというのではなく、ロマンチックで優雅な旅へと誘うというのが趣旨だった。 実際、オリエンタルやプラザ・アテネ、レイルロードホテル(ホアヒン)、ヨットクラブ(プーケット)などから取材OKの内諾もとっていた。 しかし、残念ながらこの企画は簡単に却下され、私の記憶のライブラリーに収まった。 最近、それと同じ趣旨の番組があるのを見つけた。 BS日テレが水曜日の夜に放送している「 クラシックホテル憧憬 」だ。 先週はバンコクのオリエンタルホテル、今週はホアヒンのレイルウェイホテルを紹介していた。 これはけっして著作権云々といったことを主張しようというのではない。 それどころか、私が企画書に盛り込めなかった「時間」という側面を描き出している点に脱帽したのだ。 番組で紹介するのは、現在のホテルのサービスの充実振りや部屋の佇まい、レストランの料理やバーでのナイトライフなど。 そこに、創立以来のホテルの歴史やそれを彩るエピソードが加わる。 長い年月を経て培われたホテルの存在価値が語られるわけだ。 近くの町の様子なども軽く付け加えられる。 レポーターは介在せず、カメラの主観移動で見せてゆく。 映像表現は的確で美しく、ワンカットを長くしっかりと見せてくれるのも好感が持てる。 このように書くと、できの良い観光番組なのだが、そうではない。 この番組の企画者はそこに「貿易商だったおじいちゃんの足跡」という味付けを加えた。 これによってそれぞれのホテルが刻み込んできた歴史の重さやノスタルジーを自然な形で私たちに刷り込んでゆく。 往時のような、ゆったりとした時の流れを体感できる空間としてのホテルを描き出すことに成功している。 同時に、旅という時間の流れを切り取る行動の意味にまでイメージを広げさせてくれる。 私が脱帽したのはこの点だ。 ただ、不満を言うとすればナレーターの渡辺大と杏(放送回により交代)。 番組の企画としては二重丸のキャスティングだが、残念ながらまだ表現力に欠ける。 もう少し声で演技できる人だったら…と思わずにはいられない。 地デジ化の声の高まりと共に、中

スタッフの地団駄が聞こえるようだ

映画「アマルフィ 女神の報酬」の続編、「 外交官 黒田康作 」が終わった。 全体的にとても高いレベルにあった作品だと思う。 終わってから整理してみると、さほど斬新なストーリーというわけではない。 しかし、数々の事件の勃発。 秘密めいて絡み合う登場人物。 巧みに緩急をつけた脚本。 緊迫感を描き出していた映像。 そして解き明かされてゆく問題の核心。 これらがうまく構成されて謎解きのおもしろさと、ストーリーの奥深さを作り出していた。 何より、CXにありがちなカット割ではなく、安定した画作りだったのが質の高いドラマに仕立てるのに効果的だった。 出演者たちも概ね好演。 ある意味、日本のジェームスボンドとして織田裕二はその演技力に磨きをかけ、新たな境地を創出していた。 「踊る大捜査線」の熱血漢とは異なり、実年齢43歳という年輪を重ねた男の魅力を発散していた。 ひょっとすると大減量したのではないか。 そう思わせるほど深い陰影を刻んだ表情。 そこからは、この役にかける彼の意気込みが伝わってきた。 黒田とコンビを組む大垣利香子を演じた柴咲コウも好感が持てた。 キツい感じの顔をカバーするダサ目のめがね。 いつも腕にかけている、とても活動的とは思えない大きなバッグ。 ドジで、相手に翻弄される刑事役は「ガリレオ」の内海薫に通じる。 個人的には、萩原聖人が陰のある誠実さを表現していたことを高く評価したい。 ところが、この作品にもアキレス腱があった。 外務副大臣を演じた草刈民代だ。 素人顔負けの平板な台詞まわしや浮ついた視線は、とても日本アカデミー賞を受賞したとは思えない。 代議士なら当然持っているであろう思惑や、野心、策謀といったものが、かけらほども伝わってこない。 例えば、先週「 相棒 Season9 」の最終回で、暗躍する女性代議士片山雛子を木村佳乃が演じていた。 彼女はその美貌を武器に、策謀をめぐらす「したたかさ」を醸し出していた。 その何分の一かでも、草刈に出して欲しかった。 最終回の演説のシーンではもう目を覆うばかりの表現力の拙さだった。 プロデューサーも監督も彼女の演技に唖然としたに違いない。 重要で、そして難しい役なだけに、もっと安心して任せられる女優を選ぶべきだったと後悔したかもしれない。 大山も

テレビが伝えるべきこと

まだまだ予断を許さない状況とはいえ、地震と津波は未曾有の爪痕を残して少しづつ平静に向かっているようだ。 テレビは「生」の強みを生かして押し寄せる津波の破壊力を私たちに伝えた。 その映像は自然の力と驚異を私たちの胸に焼付けた。 それに加えて原子力発電所のトラブルという副産物。 刻々と推移する原子炉の状況。 それに対抗するために講じられる対応策。 最近では稀な緊張感を持ってテレビは「今」を伝えている。 これこそが、テレビというメディアの存在感だと久々に感じた。 ところが、収束の動きが見え始めると途端にダメなテレビの顔に戻ってしまった。 一般の人が撮影した、津波が町を破壊する映像。 それを体験した被災者のコメント。 救済活動の際の悲喜こもごものドラマ。 避難場所に集められた被災者の悲惨な姿。 被災前と後との比較で浮き彫りにする津波の爪痕。 まるでコピペのよう専門家の説明。 これらを「モーいいよ!」といいたくなるほど繰り返す。 こうして被害の甚大さを何度も上塗りすることに躍起になっている。 本当にこれでよいのだろうか そんな涙を誘発しても何も生み出さない。 テレビは過去の出来事を増幅するメディアではないはずだ。 少なくとも私はそうした情報になんらの興味も湧かない。 いくら人の視線に近い映像だとしても、津波の猛威は生で伝えられたほどの力は持っていない。 それはちょうど結果が分かっているスポーツ番組を見るのに等しい。 今回の地震の発生のメカニズムを解説していることすら無意味に感じる。 だから、私たちは何をどうすべきなのか… そうした方向性は一切見えてこない。 テレビは未来に向けての「今」を伝えるべきではないのか。 被災者の前に横たわる問題は山積している。 被災者やその関係者のために役立つ情報。 ケガ人の治療の現状。 孤立している人たちの救助。 人の命にかける多くの人々の奮闘、苦闘。 小さくなってきているが、油断してはいけない今の津波。 それらは被災するという現実を、見る人に強く訴えるはずだ。 津波がなぎ倒したビニールハウス、破壊した田園風景。 塩水に浸された土壌はどのように復活させるのか。 米や野菜などはまた作れるようになるのだろうか。 分断された物流システムはいつになったら元に戻るの

もう一度視たい「遺恨あり」

ノンフィクション作家の沢木耕太郎に「テロルの決算」という本がある。 1960年日比谷公会堂で演説中に刺殺された浅沼稲次郎と、犯人である右翼少年山口ニ矢を描いた。 ルポライターの眼で、二人の人生をギリギリまでドキュメントした秀作だ。 2月26日のテレビ朝日「 遺恨あり 」を視た。 日本で記録に残る最後の仇討ちを果たした臼井六郎の実話を基に描いたドラマだ。 この作品を視ながら「テロルの決算」と通じるものを感じた。 それは刺殺やテロという題材にではない。 ストイックに仇討ちに突き進む臼井六郎の描き方。 明治維新と安保闘争いう、価値観が激動した時代に押し流される一人の人間。 そして、対象と正面から向かい合い、事実を伝えながらその信条まで描き出したクリエイターの眼。 源孝志演出はドラマというジャンルでありながら、それをドキュメンタリーのように坦々と映像化していた。 「テロルの決算」も「遺恨あり」も従来のジャンル分けを意味のないものにする力を持っていたのだ。 主演の藤原竜也は仇討ちを決意した青年を好演。 抑揚を押し殺した中にもギラギラと光る眼光の鋭さを湛えた演技は、六郎の信念を見事に表現していた。 やっぱり秀逸な演技者だと納得させられた。 判事を演じた吉岡秀隆も、仇討をいかに裁くべきかと葛藤する姿を的確に伝える演技だった。 ここ数年、彼の持ち味に反する演技でスランプを感じさせたが、今回の作品は期待を裏切らなかった。 この作品の対極にあるのがNHKのBShiの「プレミアム8」の『トライ・エイジ~三世代の挑戦~』だ。 「三代続けて業績を挙げ、日本近代史に足跡を残した家族の人生をたどるドキュメンタリードラマ」だと謳う。 その第一回「島家三代の物語」を視たが、ドキュメンタリーとドラマが分離して主張すべきところを殺しあっていた。 なんとも中途半端で、一人の役者が3代を演じるというのも、企画倒れ。 緒形直人の演技も作品になってみると、そのことの意味が伝わってこなかった。 「遺恨あり」は、改めてドラマだドキュメンタリーだというジャンル分けに意味がないことだと実証している。 従来のジャンルにこだわらないという主張の中で生まれた≪ドキュメンタリードラマ≫。 だが、こだわらないと主張するほど、実はこだわっているのだということを忘れている。

今年も最悪の東京マラソン番組

市民ランナーの祭典東京マラソンが快晴の中で開催された。 日本にこれほど多くのマラソン愛好家がいるのかというほどの盛り上がり。 海外のシティーマラソンに負けずパフォーマンス命!の人々の姿も見え、都知事の目論見が当たったといえるのだろう。 それと同様に今年もCXの番組はボロボロ。 芸能人におもねるのは仕方がないが、ただ騒がしいだけで祭典の様子がまったく伝わってこない。 出走するタレント達の中には、やらされている感がプンプン匂ってくるのもいて興醒め。 お前!何様?といいたくなるシーンが随所に見られこのイベントの価値を貶めていた。 スタジオもまったく冷静さを欠き、ひたすら声のボリュームが上がる。 MCの宮根誠司は番組を取り仕切るだけの技量が感じられない舞い上がりぶり。 フロマネのカンペを見ているのだろう、視線が宙を待って落ち着きがない。 タレント達に投げかけられる「頑張っています」「頑張りました」の連呼は、彼ら以外のランナー達の汗の価値を下げるだけということが分かっていない。 市民マラソンの祭典なのだからそれなりのドラマをもった出走者も多いはず。 そうした点には目もくれられていない。 きっとそうしたネタ探しさえもされていないのだろう。 このイベントを支えているのはCXでもタレントでもなく、市民ランナーだということを忘れて、この番組の存在価値はないはずだが…。 各中継ポイントとの連絡はどうなっているのかというほどの不手際だらけ。 指揮系統がまったく機能しておらず、ほとんど放送事故といってよいほど。 とてもプロが制作しているとは思えない内容だった。 今は携帯電話やGPSが発達しているのだから、もっとしっかりした連絡回路が作れそうなものだ。 映像も相変わらずの走るタレントのアップばかりで状況が見えない。 走ることに関しては素人がどのように42.195kmに立ち向かっているのかが伝わってこない。 CXのスイッチャー、カメラマンたちは映像制作の基本をまったく理解していないのではないか。 私たちが視たいのは足が痛いたいと苦しむランナーの表情ではない。 痛む足を引きずりながらゴールを目指す強い意志に感動するし、どれほど厳しい状況なのかを推察して応援したいのだ。 事実を矮小化して、番組の浅薄化に拍車をかけてしまっていた。 こん

革命が描き出した時の流れ

チュニジアで燃え上がった革命の火はエジプトの政権を打倒。 今、リビアで火勢を強め、紅海を超えてアラビア半島のバーレーンへも飛び火した。 これらの激動はFacebookなどインターネットが火をつけたという。 独裁政権が君臨している国々の指導者たちは戦々恐々としているに違いない。 現在50歳位の年齢層以上の人たちはこれと似た世界的な変動を経験している。 東欧諸国の共産党政権を崩壊させた「1989年革命」だ。 6月にポーランドで始まった民主化は、ベルリンの壁を崩壊させ、12月のルーマニア革命へと続いた。 わずか6ヶ月で東欧諸国の民衆の蜂起は共産主義を打倒した。 そして、民主化の動きは1992年ソビエト連邦の崩壊へと続いた。 この20世紀を締めくくる社会変動のときは、テレビが大きな影響を与えた。 当時スタートしていた衛星中継は、民衆蜂起の情報をリアルタイムで世界に伝えた。 その迫真の映像が共産党国家が連鎖的に崩壊する原動力となった。 特に、ルーマニア革命では救国戦線評議会がいち早く放送局を掌握。 「国営ルーマニア放送」は「自由ルーマニア放送」となり、戦況を世界へ発信し続けた。 それ故、放送局周辺はブカレストの市街戦で最大の激戦地となった。 テレビが持つ力を顕著に表す歴史的な社会変動だった。 今回の革命で象徴的なのは、インターネットがテレビを押しのけて大きな連帯を生み出したことだ。 それは衰退の道を歩むテレビの今を象徴するようだ。 1989年革命のとき、テレビは同時性で新聞を凌駕した。 今回は、インターネットが行動を促す連鎖の原動力となってテレビのジャーナリズムに引導を渡した。 客観的事実を報道するというメディアの、ある意味、限界を露呈させた。 私は1992年ルーマニアのブカレストに取材で訪れた。 革命から3年近く経つというのに、放送局周辺にはまだ無数の弾痕が残っていた。 それは闘いの激しさと共に、革命後の復興の道の険しさを表していた。 町にあるれるストリートチルドレン。 ホームレスが住み着いた「国民の館」。 物資の不足。 テレビは「革命後」を伝える努力を怠った。 これと同じ政治的混乱が革命後の国々にも起こる可能性がある。 そこで警戒しなければいけないのはイスラム過激派や原理主義の勢力の台頭だ。 タリバ

番組をだいなしにするクローズアップ

BSフジに「 『ゲティスバーグ』〜或は、362秒で心に刻まれる最高のスピーチ〜 」という番組がある。 斬新な企画の番組を集めた「TV☆Lab」シリーズの一つだ。 毎回ユニークなキャリアの持ち主が362秒(本当にその時間かどうか分からないけど)のスピーチをする。 言ってしまえばそれだけの番組なのだが、番組サイトで語られている通り「スリリングで心を震わせる」スピーチはチャンネルを移動させない魅力がある。 リンカーンの「ゲティスバーグ・アドレス」から採ったというタイトルはいかにも構成の小山薫堂らしい。 スピーチを披露するというだけなのに、演説者のキャリアが創造した言葉は視る者の心の琴線を刺激する。 そうした独創的な企画に彼らしさが感じられる。 ただ、この番組の画作りには大いに疑問を感じる。 「表現には正誤はない。しかし巧拙はある。」と私は考えている。 そうした面から見てこの番組の表現は稚拙だ。 演説の最中、演説者のクローズアップに終始するのだ。 全ての演説者に対してそうしているので、これは演出意図なのだろう。 演説者が自分のスピーチに合わせた「物」を持ってきても、車椅子のアスリートでも全て顔のクローズアップではその人の意味がない。 この番組ではスピーチはドラマのように台詞が決まったものではないようだ。 だからカット割が成立しない世界だ。 そんな状態では「アップの和田勉」だって、映像として成立させることはできない。 カメラマンの技術も未熟だし、アップを撮るだけの美術や照明、被写界深度などの計算すらされていない。 引き画だと話が遠くなると危惧するなら、それこそ自らの技量を反省するべきだ。 アップばかりだから本当にアップで視たいところが生きない。 演出の一丁目一番地をもっと真摯に受け止めるべきだろう。 フジテレビはアップが多すぎる。 バラエティーなどでは特にそれがおもしろさを伝えられない弊害となっている。 CXのスイッチャーは画作りを知らない、と今までは思っていたが、あながちそうではないようだ。 萩本欽一さんの「笑いは二人の間にある」という言葉と共に、自分の撮った映像を再検証することを願う。 それほどこの番組はおもしろいはずだからだ。

2匹目の泥鰌がいた!

NHKの大河ドラマ「 江~姫たちの戦国~ 」が順調なスタートを切ったようだ。 あの「篤姫」を作った田渕久美子の脚本、音楽は吉俣良、チーフプロデューサーに屋敷陽太郎という布陣だからNHKの目論見どおりということなのだろう。 それにつけてもこれほどまで「篤姫」と同じというのもどうなのだろう??? 主人公は宮﨑あおいと上野樹里という若い将来性豊かな女優。 オープニング・テーマ曲もそっくり。 今聞いたらどちらのテーマ曲か分からないのは私だけではないだろう。 タイトルの映像も似たようなコンセプトに感じられる。 本来なら物心ついたかどうかの少女が天下国家に疑問を持つというストーリーも同じ。 それを主演女優がもう演じているというのも同じだ。 これから展開するであろう流れもなんとなく推察される。 演出面で気になって仕方がないことがある。 第3回で江は築山殿事件で信長と直接対峙する。 でも、歴史に則ればこのとき江はまだ6歳。 茶々、初の姉達も10歳と9歳だ。 江が信長に手紙を出す件では、その文字のきれいだったこと! とても6歳の子供が書く文字ではなかった!! それ以上に大人が幼少の子供を演じるということは、本来あるべき意味を曲げる。 作り手は本当にそれでよいと判断したのだろうか。 早く上野樹里をはじめとした三姉妹(宮沢りえ、水川あさみ)の顔をそろえたいという思惑は理解できる。 でも、いくらなんでも無茶ではないか。 それが田渕流というもので、それに則った演出だとすればちょっとガッカリだ。 せっかく芦田愛菜ちゃんだって出演していたのだ。 茶々の幼少の頃の役だったけど…。 「天地人」では加藤清史郎くんを大スターにした実績もあるではないか。 愛菜ちゃんに江の幼い頃を演じて欲しかったと思う人も少なくはないと思う。 とはいえ、出演陣には大いに期待したいメンバーが揃っている。 豊川悦司の信長はその奇才ぶりと孤独感を見事に浮き彫にして、新しい信長像を作り上げている。 北大路欣也の家康、岸谷五朗の秀吉、大竹しのぶの北政所など、今後実年齢に近くなってきた時を考えると期待が膨らむ。 この先、二匹目の泥鰌ではなく、二番出汁のような味わいを出してくれることを祈りつつ、もう少し付き合って視てみようと思う。