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FNS音楽特別番組を視て浮かんだ疑問

3月27日フジテレビの「FNS音楽特別番組~うたでひとつになろう日本~」を視た。 日本を代表するアーティストたちが、被災した人たちを音楽で励まそうという心あたたまる番組。 こうした番組はもっと早く放送されて良かったと思う。 ただ、2点ほど、どうしても気になった点があった。 重箱の隅を突くようで少々心苦しいが… 疑問1 一青窈の「ハナミズキ」という曲はここで歌うのに適しているのだろうか???  歌詞スーパーを見て、いくつかの曲で刺激的な言葉があるのにちょっとドッキリ。 その中でも一青窈の「ハナミズキ」には悪い意味で目を見張った。 水際まで来てほしい きっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい おさきにゆきなさい あまりにも被災した人たちの心を逆なでする言葉に思えた。 もちろん普段聴くにはとても良い曲だ。 ただ、地震や津波で被災した人に捧げる曲としてはどうなのだろう。 楽曲の趣旨はともあれ、もっと別の曲の方がよかったように思た。 僕の我慢がいつか実を結び 果てない波がちゃんと止まりますように この歌詞に被災した人たちを励ます気持ちを籠めたのだろう。 しかし、私には前の歌詞の刺激が強すぎて、素直には受け止められなかった。 まして、被災し、肉親を失い、避難所で肩を寄せ合って寒さに耐えている人たちにはどう響いただろうか。 疑問2 応援コメントで「頑張って」という人の声ほど空しく聞こえるのはなぜだろう??? きっと今日本で一番頑張っている人たちに、これ以上ガンバルことを押し付るのか。 コメントの締めくくりとしてはあまりにも軽々しい。 被災した人たちを励ます言葉になっていないのではないか。 過去、震災被害にあった人たちが訴えたのは「頑張ってくださいはいらない」。 NHKのニュースによれば、それは今回も同様のようだ。 「頑張れよりは、自分たちのことを忘れないでほしい」という声が多いという。 それに応えるという意味でも、布施明さんがいった「私たちは見捨てませんから」という言葉に胸を打たれた。 私たちに何ができるか。 多くの人々がこの思いを胸に宿したことだろう。 失われた多くの命や被災した人たち、 復興のために尽力する人たち、 そして、被災していない地域なのに「東北」というくくりの中で二次・三次の被害に見舞われ

時の流れを描いた秀作

前職を退職してバンコクに生活の拠点を移した時に、一つの番組を企画した。 それは、東南アジア諸国の由緒あるホテルを詩情豊かに紹介するというもの。 タレントがガヤガヤ押しかけるというのではなく、ロマンチックで優雅な旅へと誘うというのが趣旨だった。 実際、オリエンタルやプラザ・アテネ、レイルロードホテル(ホアヒン)、ヨットクラブ(プーケット)などから取材OKの内諾もとっていた。 しかし、残念ながらこの企画は簡単に却下され、私の記憶のライブラリーに収まった。 最近、それと同じ趣旨の番組があるのを見つけた。 BS日テレが水曜日の夜に放送している「 クラシックホテル憧憬 」だ。 先週はバンコクのオリエンタルホテル、今週はホアヒンのレイルウェイホテルを紹介していた。 これはけっして著作権云々といったことを主張しようというのではない。 それどころか、私が企画書に盛り込めなかった「時間」という側面を描き出している点に脱帽したのだ。 番組で紹介するのは、現在のホテルのサービスの充実振りや部屋の佇まい、レストランの料理やバーでのナイトライフなど。 そこに、創立以来のホテルの歴史やそれを彩るエピソードが加わる。 長い年月を経て培われたホテルの存在価値が語られるわけだ。 近くの町の様子なども軽く付け加えられる。 レポーターは介在せず、カメラの主観移動で見せてゆく。 映像表現は的確で美しく、ワンカットを長くしっかりと見せてくれるのも好感が持てる。 このように書くと、できの良い観光番組なのだが、そうではない。 この番組の企画者はそこに「貿易商だったおじいちゃんの足跡」という味付けを加えた。 これによってそれぞれのホテルが刻み込んできた歴史の重さやノスタルジーを自然な形で私たちに刷り込んでゆく。 往時のような、ゆったりとした時の流れを体感できる空間としてのホテルを描き出すことに成功している。 同時に、旅という時間の流れを切り取る行動の意味にまでイメージを広げさせてくれる。 私が脱帽したのはこの点だ。 ただ、不満を言うとすればナレーターの渡辺大と杏(放送回により交代)。 番組の企画としては二重丸のキャスティングだが、残念ながらまだ表現力に欠ける。 もう少し声で演技できる人だったら…と思わずにはいられない。 地デジ化の声の高まりと共に、中

スタッフの地団駄が聞こえるようだ

映画「アマルフィ 女神の報酬」の続編、「 外交官 黒田康作 」が終わった。 全体的にとても高いレベルにあった作品だと思う。 終わってから整理してみると、さほど斬新なストーリーというわけではない。 しかし、数々の事件の勃発。 秘密めいて絡み合う登場人物。 巧みに緩急をつけた脚本。 緊迫感を描き出していた映像。 そして解き明かされてゆく問題の核心。 これらがうまく構成されて謎解きのおもしろさと、ストーリーの奥深さを作り出していた。 何より、CXにありがちなカット割ではなく、安定した画作りだったのが質の高いドラマに仕立てるのに効果的だった。 出演者たちも概ね好演。 ある意味、日本のジェームスボンドとして織田裕二はその演技力に磨きをかけ、新たな境地を創出していた。 「踊る大捜査線」の熱血漢とは異なり、実年齢43歳という年輪を重ねた男の魅力を発散していた。 ひょっとすると大減量したのではないか。 そう思わせるほど深い陰影を刻んだ表情。 そこからは、この役にかける彼の意気込みが伝わってきた。 黒田とコンビを組む大垣利香子を演じた柴咲コウも好感が持てた。 キツい感じの顔をカバーするダサ目のめがね。 いつも腕にかけている、とても活動的とは思えない大きなバッグ。 ドジで、相手に翻弄される刑事役は「ガリレオ」の内海薫に通じる。 個人的には、萩原聖人が陰のある誠実さを表現していたことを高く評価したい。 ところが、この作品にもアキレス腱があった。 外務副大臣を演じた草刈民代だ。 素人顔負けの平板な台詞まわしや浮ついた視線は、とても日本アカデミー賞を受賞したとは思えない。 代議士なら当然持っているであろう思惑や、野心、策謀といったものが、かけらほども伝わってこない。 例えば、先週「 相棒 Season9 」の最終回で、暗躍する女性代議士片山雛子を木村佳乃が演じていた。 彼女はその美貌を武器に、策謀をめぐらす「したたかさ」を醸し出していた。 その何分の一かでも、草刈に出して欲しかった。 最終回の演説のシーンではもう目を覆うばかりの表現力の拙さだった。 プロデューサーも監督も彼女の演技に唖然としたに違いない。 重要で、そして難しい役なだけに、もっと安心して任せられる女優を選ぶべきだったと後悔したかもしれない。 大山も

テレビが伝えるべきこと

まだまだ予断を許さない状況とはいえ、地震と津波は未曾有の爪痕を残して少しづつ平静に向かっているようだ。 テレビは「生」の強みを生かして押し寄せる津波の破壊力を私たちに伝えた。 その映像は自然の力と驚異を私たちの胸に焼付けた。 それに加えて原子力発電所のトラブルという副産物。 刻々と推移する原子炉の状況。 それに対抗するために講じられる対応策。 最近では稀な緊張感を持ってテレビは「今」を伝えている。 これこそが、テレビというメディアの存在感だと久々に感じた。 ところが、収束の動きが見え始めると途端にダメなテレビの顔に戻ってしまった。 一般の人が撮影した、津波が町を破壊する映像。 それを体験した被災者のコメント。 救済活動の際の悲喜こもごものドラマ。 避難場所に集められた被災者の悲惨な姿。 被災前と後との比較で浮き彫りにする津波の爪痕。 まるでコピペのよう専門家の説明。 これらを「モーいいよ!」といいたくなるほど繰り返す。 こうして被害の甚大さを何度も上塗りすることに躍起になっている。 本当にこれでよいのだろうか そんな涙を誘発しても何も生み出さない。 テレビは過去の出来事を増幅するメディアではないはずだ。 少なくとも私はそうした情報になんらの興味も湧かない。 いくら人の視線に近い映像だとしても、津波の猛威は生で伝えられたほどの力は持っていない。 それはちょうど結果が分かっているスポーツ番組を見るのに等しい。 今回の地震の発生のメカニズムを解説していることすら無意味に感じる。 だから、私たちは何をどうすべきなのか… そうした方向性は一切見えてこない。 テレビは未来に向けての「今」を伝えるべきではないのか。 被災者の前に横たわる問題は山積している。 被災者やその関係者のために役立つ情報。 ケガ人の治療の現状。 孤立している人たちの救助。 人の命にかける多くの人々の奮闘、苦闘。 小さくなってきているが、油断してはいけない今の津波。 それらは被災するという現実を、見る人に強く訴えるはずだ。 津波がなぎ倒したビニールハウス、破壊した田園風景。 塩水に浸された土壌はどのように復活させるのか。 米や野菜などはまた作れるようになるのだろうか。 分断された物流システムはいつになったら元に戻るの

もう一度視たい「遺恨あり」

ノンフィクション作家の沢木耕太郎に「テロルの決算」という本がある。 1960年日比谷公会堂で演説中に刺殺された浅沼稲次郎と、犯人である右翼少年山口ニ矢を描いた。 ルポライターの眼で、二人の人生をギリギリまでドキュメントした秀作だ。 2月26日のテレビ朝日「 遺恨あり 」を視た。 日本で記録に残る最後の仇討ちを果たした臼井六郎の実話を基に描いたドラマだ。 この作品を視ながら「テロルの決算」と通じるものを感じた。 それは刺殺やテロという題材にではない。 ストイックに仇討ちに突き進む臼井六郎の描き方。 明治維新と安保闘争いう、価値観が激動した時代に押し流される一人の人間。 そして、対象と正面から向かい合い、事実を伝えながらその信条まで描き出したクリエイターの眼。 源孝志演出はドラマというジャンルでありながら、それをドキュメンタリーのように坦々と映像化していた。 「テロルの決算」も「遺恨あり」も従来のジャンル分けを意味のないものにする力を持っていたのだ。 主演の藤原竜也は仇討ちを決意した青年を好演。 抑揚を押し殺した中にもギラギラと光る眼光の鋭さを湛えた演技は、六郎の信念を見事に表現していた。 やっぱり秀逸な演技者だと納得させられた。 判事を演じた吉岡秀隆も、仇討をいかに裁くべきかと葛藤する姿を的確に伝える演技だった。 ここ数年、彼の持ち味に反する演技でスランプを感じさせたが、今回の作品は期待を裏切らなかった。 この作品の対極にあるのがNHKのBShiの「プレミアム8」の『トライ・エイジ~三世代の挑戦~』だ。 「三代続けて業績を挙げ、日本近代史に足跡を残した家族の人生をたどるドキュメンタリードラマ」だと謳う。 その第一回「島家三代の物語」を視たが、ドキュメンタリーとドラマが分離して主張すべきところを殺しあっていた。 なんとも中途半端で、一人の役者が3代を演じるというのも、企画倒れ。 緒形直人の演技も作品になってみると、そのことの意味が伝わってこなかった。 「遺恨あり」は、改めてドラマだドキュメンタリーだというジャンル分けに意味がないことだと実証している。 従来のジャンルにこだわらないという主張の中で生まれた≪ドキュメンタリードラマ≫。 だが、こだわらないと主張するほど、実はこだわっているのだということを忘れている。