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10月, 2009の投稿を表示しています

新感覚を謳うレプリカ番組

テレビ各局とも秋の編成がスタートした。 ただ、今のところ新番組でこれは!と注目するようなものは見当たらない。 そんな中で、ちょっと気になる動きが違う局で編成されている。 一つはNHKの「 ママさんバレーでつかまえて 」。 もう一つはCXの「 東京DOGS 」だ。 前者はワンシーンの公開コメディー。 後者は小栗旬と水嶋ヒロのイケメン俳優が主演している刑事ドラマだ。 この二つの番組に共通するのは、表題にも掲げたレプリカ番組ということだ。 「ママさん~」は『さまざまなトラブルがコミカルに展開していくライトでポップな舞台仕立ての新感覚コメディー』(番組サイトより)と謳っている。 だが、こうした観覧客を前にノンストップで収録するスタイルは、もうテレビ発生の頃に既に視た経験がある。 例えば、「ルーシーショー」や「奥様は魔女」などがそれで、子供の頃とても楽しみにしていたアメリカのテレビ番組だ。 だから私にとって、ワンシーンのコメディードラマという設定に新鮮味はない。 「東京DOGS」もイケメンコンビのコミカルなやり取りは舘ひろしと柴田恭兵の「あぶない刑事」を髣髴とさせる。 二人の刑事の活躍するドラマとしては1979年~1981年に放送された「噂の刑事トミーとマツ」にその基を辿ることができるだろう。 そしてこうした番組は、アメリカの刑事ドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』や『特捜刑事マイアミバイス』に大きな影響を受けているということを忘れることはできない。 二番煎じ、三番煎じだから悪いといっているわけではない。 前作以上のクォリティーで見せてくれれば文句はない。 だが、残念ながらいずれもそのレベルには達していない。 「ママさん~」では出演者全員に細かいキャラクター設定がされているようだ。 しかし、今までのところそれらが生かされているとは思えない。 舞台感覚のライブということで出演者のドタバタコメディーの面ばかりが前に出る。 演技にしても、台詞回しにしてもテンポが一定なのだ。 「ルーシーショー」のビビアンのような存在感を持った出演者は今のところいない。 黒木瞳は今までにないコメディーということで熱演しているが、全員が同じテンションで熱演するからただ喧しいだけのコメディーになっている。 もう少し台詞回しなどにメリハリがあってもよいのではないか。 「東京DOGS」は『人間くさい刑事2

告知なしでは成立しない対談番組

ようやく期末期首のスペシャル期間が終わった。 新番組もほぼスタートしたようだ。 少し前、朝日新聞に萩本欽一さんが告知番組の氾濫に苦言を呈していたという記事があった。 確かに、昼の時間帯の番組表を見ると、その局の新番組のPR番組だらけだ。 新シリーズとなる同じ番組の再放送であったり、同じ俳優の出演番組だったり。 加えて、本編を放送する前にメイキング番組を制作してまでPRに努めるという節操のなさだ。 本編の前にメイキングを見せるというということが、どれほど本編の興味を削ぐことなのか理解しているのだろうか。 NHKまでもが、民放に負けじと、どぎつく同様の番組を作るのだから悲観的な状況だ。 そうした局の姿勢を、醜いととさえ感じている。 8月に亡くなった山城新伍さんは、以前「作品のNG集は見せるものではない」と主張していた。 役者も制作陣も、できあがった作品で勝負するもので、いくらPRのためとはいえそうしたものを見せるのは恥だというのだ。 私が30そこそこの頃のことだったが、その意見には賛成だった。 テレビ局が搾り出す制作費削減策と、視聴率獲得へのアイデアには恐れ入る。 だが、残念ながらその努力は正の方向に向かっているとは思いにくい。 実際、そうしたPR番組がどれ程の効果を挙げているのかは疑問だ。 冒頭の欽ちゃんの記事では、売れた番組ほどPRはしなかったという。 テレビのPRに躍起となっている姿勢が見て取れるのはそればかりではない。 いわゆる対談番組に出演するタレントはほとんどがPRが目的だ。 それは私が総合演出をしていた昼前の番組にも同じことが起こっていた。 タレントの対談コーナーの出演者探しが難航していたのだ。 タレントの側としては、対談番組に出演して自分の素顔まで晒すのは御免だという思いがある。 そこで、番組側としては何か出演してもらえるメリットを作らなければならない。 そこで、新番組や彼らの仕事のPRをさせるからというのが交換条件となった。 今はそうした裏事情はどこへやら。 もっと直接的にプロモーションが展開される。 最近ではニュースの企画コーナーとして公然と映画や新番組のPRをする。 ジャーナリズムとして取り上げなければならない現実は山ほどあるというのに…。 こうして自らメディアとしてのテレビの首を絞めている。 そうした番組を視るたびに、それがテレビの発する断末魔の

自ら閉ざす可能性

「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」 桂歌丸師匠がNHKのスタジオパークで日本テレビの長寿番組「笑点」について語っていた。 数年前、局側から1時間番組するか、30分番組にするかと打診されたという。 出演者たちの一致した選択は30分だった。 そして冒頭の言葉につながる。 「笑点」の出演者たちは高齢化し、人気芸人の出演も少ない。 内容もマンネリといわれてもおかしくない。 そんな「笑点」だが、長寿なだけでなく今も高視聴率を保っている。 ある意味お化け番組だ。 その理由の一端を、芸の世界に生き、客の空気を読みきった落語家たちはしっかりとつかんでいたということだろう。 それに反するのが今のスペシャル期間の長時間番組化の傾向だ。 3時間ドラマなんていうのは当たり前。 ところが、大作という謳い文句のわりに薄っぺらな内容にガッカリさせられるのが常だ。 そもそも今のテレビマンたちは、3時間を超えるドラマがテレビというメディアに適合していると思っているのだろうか。 映画でさえ3時間なんていう作品はほとんどないというのに…。 コレデモカとばかりにCMが入るのに、実質2時間以上の番組に視る側のテンションが保たれるはずもない。 一方バラエティーもまったく新鮮味がない。 4時間以上も若い人気タレントたちのワンパターンのバカ騒ぎを見せられる。 そうした、視聴者がもう辟易している演出手法をNHKを含む各局で繰り返している。 それはある意味タレントの浪費でしかない。 そうしてどこにでも顔を出すタレントたちは、歌丸師匠が言った「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」の対極にある。 テレビは自らの可能性を放棄し、タレントを浪費してまでしてなぜスペシャルにこだわるのか。 あくまで邪推だが、昨今の春夏秋冬の期末期首スペシャル枠の長時間化の狙いは制作費の削減だろう。 そうした経営戦略によって、つまらない番組を編成するテレビ局。 それを平然と受け入れるテレビマンたちに疑問を感じるのは私だけだろうか。 今のテレビが視聴者の求めるところと相反した番組を平然と作っていることに危惧をいただいている。 テレビというメディアがそのメディアの特性を放棄しているように思えてならない。 以前私が現役だった頃、ある経営者が言った言葉がある。 「現行番組の制作費の削減はしない。でも、新番組