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テレビの映画放送での暴挙

BS朝日が年末特番として29日と30日に黒澤明作品を放送した。 「まあだだよ」と「乱」。 黒澤明がメガホンを取った最後の作品と、自ら集大成と位置づけた大作だ。 テレビで映画の放送を視ていて、ずっと思っていたことがある。 それは途中で入るCM。 あれはどうしても止められないのだろうか。 民放で放送するのだからCMは不可欠。 それは十二分に承知している。 でも、サッカー中継ではハーフタイムに集中して流すなど工夫しているではないか。 映画の放送に関しても、番組の構成を再考する余地はあるはずだ。 まして、BSでの放送。 地上波に比べれば、いくらでも融通は利くと思うのだが…。 そうした工夫をすることがBSの存在価値を主張し、視聴者獲得にも通じると思う。 もう1点。 今回の放送を視ていて気がついたこと。 それは、CMに入る際の映像処理について。 実はこれはとても大きな問題だ。 今回の放送では(いつもそうしているのかもしれないが…) CMに入る前に黒にフェードアウトしていた。 オリジナルではそうした演出がされていないところでこんな処理がされている。 これは著作権侵害だ。 CMを入れることだって、間違いなく著作権を侵害している。 まあ、これは民放の宿命として百歩譲るとしよう。 きっと監督協会からの了解も取り付けているのだろう。 けれど、黒にフェードアウトするのは作品の価値に著しく影響を与えることにななる。 黒澤監督が生きていらしたらこうした暴挙を認めたかどうか。 制作担当者は単に本編とCMの区切り程度にし考えていないのだろう。 しかし、映像表現ではその処理が大きな意味を持つということを知るべきだ。 今回の例では黒澤作品独特のカットのテンポを損なわせていた。 私が現役時代、秋元近史という私の師から一つの命題を与えられたことがある。 それはステージ演出に関してのことだが、 「暗転は場面転換のためだけにあるのではない」 というものだった。 私にとってこのことは、今でも解き明かせない宿題として今も心に強く残っている。 同様に映像において黒へのフェードアウトはシーンチェンジさせるためだけの手段ではないはずだ。 ある意味、演出の根幹を成し、作品の優劣を左右することを、安易に第三者が行ってよいはずはない。

制作陣がダメにした秀作

番組づくりで、ほんの小さなこだわりの欠如が全体に悪影響を与えるということは良くあることだ。 私もそうした苦い経験が何度もある。 あるときはOAまで気がつかなかったり、またあるときは分かっていながら妥協してしまったことだったり。 そんな時は立ち直れないほど自分に失望した。 他のスタッフ、出演者、視聴者に申し訳ないと思ったものだ。 もちろん100%満足、というようなものが作れたという思いはない。 しかし、小さな綻びが番組全体をダメにするということはまた別のレベルのことだった。 最近、そうした番組に出会い、憤りを感じることが多い。 12月17日フジテレビの「目線」はそうした番組の一つだった。 この仲間由紀恵主演のサスペンスドラマは、演出チームの稚拙さ、こだわりのなさが全てをぶち壊しにしてしまっていた。 仲間由紀恵が演じる主人公は、子供の時のケガが原因で車椅子を使用している。 それはこのドラマで大きな意味を持っている。 反面、ストーリーづくりではそのことが大きな制約になる。 ところが、脚本はそうした制約などお構いなしにストーリーを作り、演出は無神経に映像にしていた。 「そんなバカな~」と声をあげたくなるようなシーン、カットが繰り返されるお粗末。 まったく工夫のないシーン設定は、本来描くべき登場人物たちの関係や葛藤を見せる時間を切り捨てさせた。 なにより、仲間由紀恵の内面まで描き出した好演も、最後の謎解きの見事さも、全て台無しにした。 それだけではない。 そうしたところが気に障ると、いらぬところまでも気になる。 必要以上のアップでは女優のメイクの粗を浮き立たせ、中途半端な引き絵ではセレブの家とは思えない安っぽさが見えてしまう。 そうして駄作への道をまっしぐらに走ることになった。 きっとこの原作は秀作といえるレベルのものだったのだろう。 結末がそれを物語っている。 この制作者たちは何度でもこの作品を視て、猛省するべきだ。

「龍馬伝」がようやく終わった

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が11月28日に終わった。 プログレッシブカメラを使用した斬新な演出を掲げていたが、まったく期待外れの作品だった。 終わって、正直ホッとしている。 歴史ブームの中で最も人気のある坂本龍馬が主人公。 それを演じるのが福山雅治。 事前や放送中のPRもクドイほどやった割に、視聴率は上がらなかった。 その原因はテレビ的でない作品だったからといわざるを得ない。 第一は、チーフ演出の大友啓史お気に入り(?)のプログレッシブカメラの使用がその効果を出しているとは思えない。 例えば、屋外シーンでの埃っぽさが必要以上に際立ってしまっていた。 埃っぽさは、特に第一部の土佐時代に関してはネライだったはずだ。 それがプログレッシブカメラの映像は必要以上に砂埃を際立たせ、視ていて煩わしくなってくる。 それ以外のシーン、カットでもプログレッシブらしい映像の美しさを感じさせるものは皆無だった。 第二は、ハンディーによるクローズアップの多用。 従来のアングルにはない、それこそ斬新なアングルからのアップは緊張感を主張しすぎて押し付けがましい。 時にイマジナリーラインを越えそうにさえなる。 だから二人の空間的、精神的位置関係は見えなくなる。 以前にも指摘したが、最近のドラマではハンディーカメラでのアップが多用される。 微妙に手ブレする画面は配役の気持ちの揺れを表現する場合もあるが、その多くはできの悪い心理描写に陥る。 それを多用すれば、まったく意味も伝わらず、息苦しいだけの映像となる。 今まで私が感動したハンディーのアップは『篤姫』の初夜のシーンのワンカットだ。 そのワンカットを際出させたのは、そこまでのしっかりした絵づくりがあったからというのを忘れてはならない。 第三は、大声で怒鳴るばかりで騒がしい演出。 特に亀山社中結成以後は、番組中ほとんどずっと全員が怒鳴りあっている感じ。 若者たちが新しい時代に漕ぎ出す熱意を表したかったのだろう。 だが、いくらなんでも何かというと大声で怒鳴り続けているというのはどうなのだろう。 演出的にもっと描き方のバリエーションはなかったのだろうか。 放送を重ねるにつれ出演者の演技は過剰になり、逆に緊迫感を失ってしまう。 例えば、後藤象二郎を引き込むシーンや紀州藩に賠償金を請

犬のお父さんのしたたかさ

♬ 噂話も 全てタダ ♪ 別れ話も 全てタダ タダタダタダ友 なみだ雨 このところ停滞感があった ソフトバンクの「犬のお父さん」シリーズ。 浜崎あゆみを起用した10月のバージョンに注目しています。 特に歌詞にクリエイターの企みの深さを感じずにいられません。 演歌独特のメロディーはあるものの、 歌詞自体は告知目的のメッセージです。 それがなぜ演歌の楽曲として成立しているのか? それは「なみだ雨」に集約されるのです。 これは日本では井上陽水、 その根源にはアメリカのフォークの神様 ボブ・ディランにも共通する歌詞のつくり方です。 途中の歌詞はタイトルとまったく関係のない情景を歌い、 最後に決めの言葉を唐突にぶつける。 「傘がない」や「夢の中へ」、「氷の世界」に顕著です。 陽水はこの歌詞が作りだす世界(叙景と叙情のぶつかり合い)で 独特の世界を作り上げました。 それと同じような発想でつくられていると思うのです。 これが意図したものであるのは明らかです。 並みのクリエイターやスポンサーなら、 ここは会社名なり商品名を入れて訴求を狙う部分です。 ところが、なみだ雨~と歌い上げることで演歌の世界を形成する。 それによって「浜崎あゆみ」が「演歌を歌う」CMという 強い個性と、パナソニックとの差別化を主張している。 それこそがより強い訴求力として、 視聴者=消費者に届くことを狙っているに違いないのです。 まさにクリエイターの才能の高さと 表現者としてのしたたかさを感じずにはいられない秀作です。 このCMのシリーズには、 随所にクリエイターの細部へのこだわりが強く感じられます。 だからこそ、 あの突拍子もない設定でも受け入れられる世界を作れるのです。 今回の作品でも 浜崎あゆみが何気なくヴィブラスラップを持っていること。 私は見逃してはいませんよ

良い作品だから欲も出る

早いものでBSデジタルが開局して10周年になるそうだ。 BS日テレの開局セレモニーの演出をしてからもうそんなになるかと感慨を受ける。 これから各局でスペシャル番組が編成されることだろう。 その一つでBS朝日の「 刑事定年 」を視た。 柴田恭兵が退職した元敏腕刑事を演じるホームドラマだ。 けっして退職した刑事が事件を解決するという刑事ドラマではない。 再就職はせず、妻との平穏な生活を目指す主人公。 しかし、妻(浅田美代子)は夫ぬきの自分なりの生活を楽しんでいる。 在職中は現場一筋で家庭を顧みなかった夫との生活の中で、自分なりの楽しみを見出していたのだ。 結局ひとりで留守番をする羽目になった主人公の家にはいろいろな来客がある。 元同僚の現役刑事や、昔面倒を見たヤクザの親分…。 第一回はかたせ梨乃扮する「夫を殺したと自白する女」がやってくる。 急に居間が「取調室」となってしまう。 脚本の鎌田敏夫はほのぼのと主人公の周りに起こる諸々を描き出す。 いろいろとクセのある人々も見事に捌いてみせる。 夫なしの生活を当然のこととして自分の生活を築いていた妻だが、実はしっかりと夫の本質をつかんでいるのを見せるあたりはさすがだ。 好調なスタートを切ったといえるだろう。 ただ、大げさに開局10周年!と謳うような大型番組ではないだけに、もう一つこだわりがあっても良いような気がした。 第一回に関する限り、舞台は主人公の家だ。 さして大きい家ではない。 それを説明するためもあってか、この家のあちらこちらが見せられる。 これがこの番組のチープさ(制作費の少なさ)を露呈しているようにしか思えない。 いっそのこと、玄関から居間までの空間だけのワンシーンドラマにしたらどうだったか。 昔あった「ルーシーショー」や「奥様は魔女」のような設定。 その辺までの思い切りがあっても良かったように思える。 軽快なストーリー展開に、芸達者なキャストが出演するだけにそんな思いが強い。 欲をいえば、第一回は生放送で…というような思いも広がる。 それほど、心ほのぼのとさせる小品ながらもキラリと光るドラマだった。

そろそろ再開しようかな

しばらく休んでいることは自覚していたけれど、8ヶ月も経ってしまっていた。 休むことにしたのは自分なりに理由があった。 その1.コメントしようと思うほどの番組がなかった。 その2.ブログを書くために番組を見るようになった。そのため視点が制作者ではなく批評家のそれになりつつあることに気がついた。 今テレビ界が直面している閉塞的状況は歯止めがかからない。 制作費の削減が最優先され、3ヶ月ごとに新番組のPR目的のスペシャル番組が編成されるのは当たり前のようになっている。 出演者の顔ぶれも変わりなく、そこに演出が介在しているとは思えないタレントたちのキャラクター頼りの番組ばかり。 これではレビューの書きようがなかった。 そうした中で何とかこのブログ維持のために何か書こうと思うと、どうしても批評者の視点に立たなければならなくなった。 それは私が書き記すべきものではないと感じていた。 再開しようと思ったとはいうものの、残念ながら番組のクォリティーが上がってきたというわけではない。 ただ、本来の自分の視点から番組を視ることができるようになってきた。 そんな淡い自覚があるからに他ならない。 どれほどの人が私の文章に目を通してくれているか分からない。 しかし、テレビを愛し、テレビの世界に生きてきた男には、 今も自分の崩壊点に向けて突き進んでいるテレビの「今」を見つめる義務があると思うのだ。

ちょっとガッカリ紅蓮次郎

ANBの土曜ワイド劇場で「 火炎調査官・紅蓮次郎スペシャル 」が放送された。 サスペンスの帝王船越英一郎が主演するシリーズの第10弾だ。 火災調査官が火事に隠された殺人事件を、その焼け跡に残された痕跡から解決する。 「科捜研の女」と同様、科学的な分析と検証から導き出される殺しのトリック。 それを見破る実験が、予想を裏切る犯人を導き出す。 ストーリーとはあまり関係のない紅蓮次郎の生活環境の描き方も、元夢の遊民社の山下容莉枝さんが達者な演技で手を抜いていない。 というわけで、船越英一郎さんの演技の臭さに目をつぶって楽しみにしていた。 ところが、2月13日の回はそうした私の思いを見事に裏切ってくれた。 この回は消火の最前線に立つ筒先が志望の西島桜という女性が出てくる。 もちろん、彼女のそうした思い入れの背景には理由がある。 だが、まったく火災調査にやる気を見せないこの女性像の描き方が、なんとも稚拙。 目指す筒先をになるために焦る姿も目を覆いたくなるほど。 中でも桜が元の部署の上司から「女を捨てろ」といわれたのを思い出し、男の隊員が入っているシャワーに入ってゆくなんて…トホホ。 視ていて恥ずかしくなるほどどうしようもない台詞と演技だった。 これがメインの殺人事件とは直接関係のないサイドストーリーだから、邪魔以外の何者でもない。 こんなものがあるため、ストーリーに集中できなかった。 それ以外の部分はいつもの通りのできばえだっただけに、もったいないとしか思えなかった。 シリーズを重ねると、どうしても作り手の側がマンネリ感を持ってしまう。 そこでテーマを引き立たせるためにいろいろと試みることはある。 今回の場合、「灰の中に真実がある」という火災調査官の仕事を際立たせるための選択だったのだろう。 それが上手く描き出せなかったという結果に終わったということだ。 このドラマのファンとしては、もっと作品のおもしろさの原点である科学的立証というところに力を注いで欲しかった。 前回の作品は、そうした面から見て良いできだった。 中澤裕子さんはもっと上手い役者だという感じがしたが、床嶋佳子さん、渡辺典子さんは見ごたえのある演技を見せてくれた。 それだけに余計残念な思いが強くなる。 次回はマニアも納得させる内容で楽しませてくれることを祈り

オリンピックが始まった!

2月13日バンクーバー冬季オリンピックが始まった。 開催前からスノーボードの国母選手の身だしなみが問題になった。 一般の人が問題視し、それにマスコミが乗って火に油を注いだということのようだ。 開会式前にして記者会見で謝罪会見。 スキー連盟は出場辞退まで橋本聖子団長に具申したという。 団長の裁決で出場を決めたというのを知りほっとした。 ただ、開会式には参加していなかったのか、画面を注目したが姿を確認できなかった。 競技に集中したい時にバカな雑音に翻弄された国母選手がかわいそうだと思う。 メダルも期待される逸材の成績に影響がでないことを祈りたい。 だらしがないとクレームをつけた人の行為には呆れる。 人の個性を中傷する愚かな行為だと思う。 だが、彼のファッションをだらしないと見るか、個性と見るかは個人の勝手だ。 それを主張する権利は全ての人が持っている。 それよりも、そんな声に乗っかるマスコミに危機感を感じている。 それは、有能な若いアスリートの活躍の場を奪いかねない状況を作ったというだけではすまない。 マスコミが「大衆の声を代弁する」という看板を掲げた時、もっと大きな問題を生み出す可能性を孕む。 それは社会や国家を動かす力として機能してゆく。 私たちは過去にそうした歴史を見てきている。 もし、そこに一つの作為があったとしたら…。 そんなことも考えず、大問題のように取り上げるマスコミに警報を鳴らさずにはいられない。 それはさておき、私が気になっているのはスポーツマンたちの発する言葉だ。 例えば、野球のお立ち台で、「これからも応援よろしくお願いします」なんていう発言がある。 正しくは「これからも応援してください。よろしくお願いします。」だろう。 今回のオリンピックの出場選手たちの発言で目立つ言葉遣いがある。 「頑張りたいなーと思います」。 この「なー」が妙に引っかかる。 妙に軽く感じてしまうのは私だけだろうか。 今は、アナウンサーまでこの語法を使う。 「なー」は私たちオヤジの用法としては、例えば独り言のときに使う言葉だ。 「もう会社辞めたいなー」のように使う。 「頑張りたいと思います」の方がストレートに語る人の意思が伝わると思うし「頑張ります!」といってくれた方が、より強く意志が感じられる。 まあ、

時代劇の魅力を再確認

2月6日CXで「 剣客商売スペシャル~道場破り~ 」が放送された。 「剣客商売」はこれまで1時間わくだったが、今回はその2時間スペシャル。 池波正太郎の原作に金子成人が脚本を担当。 池波作品の持ち味である江戸の町の情緒や人情を見事に描きこんでいた。 切なくも心温まる親子愛がストーリーの柱で、金子脚本は登場人物の心の襞までしっかり描きこんでいた。 とても見ごたえのある作品だった。 番組サイトでは『痛快娯楽時代劇シリーズ待望の新作登場!』と謳っている。 しかし今回の作品には『痛快娯楽』という表現は当たらない。 もちろん立ち回りもあるし、勧善懲悪の物語なのだが、だからといって普通のチャンバラと一緒には括れない。 今回は中村梅雀がゲストで、剣一筋に生きた男、鷲巣見平助を演じていた。 平助は、愛する家族を捨てて剣客として全国を行脚した挙句江戸に戻ってくる。 しかし、愛妻は既にこの世にはなく、残された娘は病に冒された大工と貧しい生活に追われている。 そこに悪徳医者や薬問屋などがからんでくる。 『水戸黄門』なら風車の弥七が窮状を助けて助さん格さんの出番となり、 『必殺シリーズ』ならこの夫婦は殺されて、恨みを晴らすことを仕置き人に託す、 となるのだが、この作品ではあっさり町方の役人が踏み込んで悪人を御用にしてしまう。 悲劇はもっと別のところに用意されていたのだ。 中村梅雀さんはその容姿から滲み出すあたたかさをベースに、子を思う優しさと、剣に一途な無邪気ささえも見事に表現していた。 道場破りの立ち回りでは剣豪としての厳しい表情も見せていた。 主演の藤田まことさんはさすがに御年のせいか、立ち回りは最後のシーンだけだったが、老域に入った剣の達人の風格を見事に醸し出していた。 鷲巣見平助の身の上話を聞くシーンでは画面全体から緊張感さえも漂ってきた。 地味なシーンだが見ごたえがあった。 藤田まことさんの息子を演じる山口馬木也さんも剣客としての立ち居振る舞いが板についていた。 それ以上に、息子の妻を演じた寺島しのぶさんの演技が出色だった。 鷲巣見平助との立会いに臨む夫を送り出すシーンでは、背中越しのカットに短いせりふなのだが、剣客を支える妻の気丈振りがその背中からにじみ出ていた。 今こうした賢妻を演じさせたら右に出る人はいないのでは

時代遅れの刑事ドラマ

今は昔。 TBSに「ザ・ガードマン」というドラマがあった。 一般社会で警備会社がスタートした頃のことだ。 警察官と見まごうアクションで、毎週次々と犯人を捕まえていた。 そのボス役が宇津井健さんだ。 陣頭に立って指揮に当たり、凶悪犯人に立ち向かっていた。 まだ幼い頃の番組だったので細かいストーリーまでは覚えていない。 けれど、登場人物がスタイリッシュで(1名を除く)、痛快アクションが売りの娯楽番組だったという記憶がある。 人情味はあるけれど、それが売り物ではない。 もちろん、犯人や被害者の裏にある人間ドラマや、密室殺人の謎解きといった楽しみとは別のジャンルのものだった。 ただ、警備会社という新しい業種と、そこで働く警察官とは違ったスマートなガードマンによって「時代」を切り取っていた。 そしてこの後、「キーハンター」や「Gメン75」へと進化してゆく。 そんな大昔の番組を思い出させる番組がある。 TBSの「 ハンチョウ~神南署安積班~シリーズ2 」だ。 主人公の安積班長(佐々木蔵之介)はまさに宇津井健さんのリーダーと同様、陣頭指揮を執りながら事件を解決する。 ただ、内容はとても褒められた出来ではない。 いまどき使い古された設定。 ステレオタイプ化され、見飽きた登場人物。 そのキャラクターに新鮮味はない。 神南署ということで渋谷を管轄する所轄の警察署が舞台だ。 だが、若者の街という側面も、大都会という舞台で勃発した事件というような関連性はない。 舞台が渋谷である意味はまったく感じられない。 クサイ台詞と、まるでご都合主義のように次々と事実が割り出され、犯人像が明るみになってゆくストーリー展開。 出演者たちの演技も低レベルだ。 番組サイトでは『感動できるヒューマンドラマ』や『より刑事ドラマらしさ』、『幅広い層が楽しめるドラマ』といった言葉が並ぶ。 だが、そうしたねらいが生かされているとは思えない。 どこをとってもなぜこんな番組がゴールデンタイムに放送されるか理解できない。 これがシリーズ2作目ということだから恐れ入る。 すべてがどうしようもなくパターン化するのなら、せめて主人公たちだけでももっとスタイリッシュで格好良く描いて欲しい。 そこで思い出したのが「ザ・ガードマン」の宇津井健さんだったわけだ。 月曜夜8時のパナソニック ドラマシアターということで「水戸黄門」の交替枠だか

武内陶子さんが降板した!

NHK「 スタジオパークからこんにちは 」のキャスター、武内陶子アナウンサーが12月で産休に入った。 サイトでは降板となっている。 現在この番組は岩槻里子・山本志保・住吉美紀の3名のアナウンサーが交代で司会を務めている。 「スタジオパーク…」は月曜日から金曜日まで毎回NHKの番組の宣伝を兼ねたゲストとのトーク番組だ。 タイに住んでいたころはこの番組しか視るものがなく、ほとんど毎日視ていた。 どこかピントが外れた質問が飛び出した渡邊(黒田)あゆみアナウンサー。 端々から「ワタシ、本当はこんな番組やりたくないんだから」という匂いがプンプンしていた有働由美子アナウンサー。 彼女達の司会ぶりに一人文句を言いながら視ていたものだ。 それが、2007年夏に武内陶子さんに代わって、喝采を持って迎えた。 私は武内アナを、テレビマンとしても視聴者としても好きだ。 女性版徳光和夫だとさえ思っている。 アナウンサーとしての技術~声の表情や表現力、滑舌のよさに加えて、ゲストを和ませる話術。 ゲストについての勉強もしっかりされていることが随所に感じられた。 そして、NHKのアナウンサーらしくない当意即妙の言葉選びで、画面を暖かな雰囲気にするのも好感を持って視ていた。 あるとき、男性ゲストが奥さんに寛容なことを話したとき、「今奥様たちのポイントがアップしましたよ」といってゲストと会場の笑いを誘った。 見事なリアクションだと思った。 普通のNHKのアナウンサーから出る言葉ではなかったろう。 民放も含めた歴史上の女性アナウンサーの中で、文句なくBEST1の称号を送りたいと思っている。 さて、そのピンチヒッターとして登場してきた3名のキャスターたちである。 いずれ劣らぬ才媛で、経験豊富なアナウンサーたちだが、これがどうもいただけない。 NHKの悪いところを全部背負って立っているかのような不出来ぶりだ。 ゲストに対して事前準備や勉強をしていないことが見え見えの薄っぺらさが気になる。 それでいて、台本通りの進行に固執するからトークが弾まない。 何よりゲストに対して興味を持っている=面白がっているとは思えない。 質問にも「いかがでしたか?」が連発されるのも気になる。 この言葉からは短い言葉しか期待できない。 だからトークが膨らまないし、ゲストの人となりが出てこない。 日本テレビの多昌アナウンサーは、野球の

コードブルーが始まった

1月11日CXの月9で「 コードブルー Season2 」がスタートした。 2008年夏に放送された、救命救急センターを舞台にした若きフライトドクター候補生たちの成長と葛藤を描いた青春ドラマ。 その続編がなんとあの月9での放送だ。 今回のシリーズも、研修終了を目前に控えた医師としての将来性と、秒単位の緊迫した現場の狭間で葛藤する若者たちの姿がストレートに描き出されている。 以前にも取り上げたことがあったが、私はこのドラマを高く評価している。 フジテレビには「 救命病棟24時 」というドラマがある。 江口洋介、松嶋菜々子主演で高い視聴率を記録した作品だ。 CXはこれらの救急医療ものの作りが本当にうまいと思う。 いずれも、救命救急センターの緊迫感をテンポのよい台詞とカット割りで見せてくれる。 登場人物のキャラクター付けも明確だ。 担ぎこまれる患者や家族の設定がまたよい。 そして、林宏司脚本は巧妙に、周到に視聴者の琴線をくすぐる言葉を用意している。 笑いと涙と緊迫感のバランスが気持ちよく、そこから生み出される感動が我々をひきつける。 もちろん、全てに完璧なドラマというわけではない。 例えば主役となっている5人の出演者。 はっきりいって演技はお世辞にもうまいとはいえない。 もっとうまい若手の俳優たちはいることだろう。 ただ、私は違う視点からこれを見ている。 出演者たちの年齢は配役のそれより多分若い。 フェロードクターというポジションは、きっとインターンを経ているのだろうから、若くても25~6歳という設定と考えるのが妥当だろう。 今回のシリーズではフェロー3年目という設定だから本当ならば30歳近いはずだ。 それが、新垣結衣や戸田恵梨香は現在21歳。 Season1のときは19歳だ。 山下智久にしても現在24歳。 こうした点から見て、彼らの演技的未熟さは、研修医という立場の登場人物の投影だ。 そこには成長してゆく一人ひとりの人間のドキュメンタリーがある。 厳しい現場で研鑽を積み成長してゆく過程を俳優自身が体現しているのだという見方もできる。 それだから視聴者は演技を超えたところで彼らに共感するできる。 大の大人が爽やかな感動の涙を流せる秀作となっているのだ。 新しいスタイルの青春ドラマとして多いに期待しながら、彼らの成長を気持ちよい涙と共に見守ってゆきたい。

力みの抜けたバカ殿様

1月7日CXで「 志村けんのバカ殿様 」が放送された。  本当に久しぶりにこの番組を見た。 強いていえば欽ちゃん派だった私は、志村さんの笑いは好きなほうではなかった。 以前の志村さんの作る笑いはどこかピーキーな感じがして、志村さんの「俺がやらねば!」風の空気が感じられた。 力みが感じられた笑い。 強いていえばそんなところだろうか。 昭和を代表するコメディアンが主役として作り出すお笑い番組だ。 それでも文句の付け所がないほど面白かった。 だが、私はもうひとつ好きになれなかった。 それよりは欽ちゃんの投稿者であったり、周りの出演者をうまく使って作り出す笑いに共感を覚えたのだ。 久々に「バカ殿様」を見て純粋に笑えた。 昔の力みのようなものは消え、ダチョウ倶楽部をはじめ周囲の出演者を上手に使いながら軽快な笑いを作り出していたのだ。 特に、優香姫とのカラミは他のお笑いタレントたちのネタなどよりずっと面白い。 「 志村屋です 」でお団子屋さんの夫婦として毎週競演しているせいだろう。 意気もピッタリ。 もう使い古されたネタでも、「間」と「表情」で笑わせてくれる。 個人的なことだが、このところ優香がとても気に入っている。 何より優香のアラサーとは思えない、純真な幼顔がとても好きだ。 セレブのお嬢さんではないが、品の良い印象はなかなかいるキャラクターではない。 「 グータンヌーボ 」で見せる飾らない素顔(なわけはないが)も、とても好感がもてる。 演技でもトーク番組でも「間」が良くなっている。 着実に次のステップに進んでいるということがわかる。 それもこれも、志村さんと競演しているせいだろうと思っている。 近い将来、本格的なドラマに進出してはどうだろうか。 以前にも書いたけれど、容姿が上品な女優は絶対にコメディーやコミカルな役に挑戦するべきだと思っている。 どんなにキツイキャラクターの役であっても、品を落とすことがない。 その中で「間」を学び、表情を身につければ鬼に金棒。 豊かな演技力と共に、高いレベルの女優にステップアップできると信じている。 例えば、沢口靖子さんだったり、羽田美智子さん、麻生祐未さん、深津絵里さんがその好例だ。 大きなお世話なことを承知の上で、これからそうした冒険にチャレンジして欲しい人に、吉瀬美智子さんや内山理名さんの名前を挙げておく。 タレントにはどんなレベルの

辟易しているのは私だけ?

新年のスペシャル番組シーズンも終盤に入り、新番組のラインアップも見えてきた。 そうなるとゴールデン枠の番組PRが喧しくなる。 毎回の改編期の恒例とはいえ、テレビマンの見識が疑われる時期がやってきている。 以前トーク番組(コーナー)の出演者は番組や映画のPRのためにやってくるということを書いた。 それが昨今はこのPRが一層エスカレートしていて、ニュースでもPRのために時間を割いたりしている。 いつもはない「注目の人」なんていうコーナーを作り、内容は番宣だ。 こうした傾向はNHKで特に顕著で、ドギツサさえ感じる。 年末からは大河ドラマ「 龍馬伝 」だらけの印象だ。 1月2日の「 プロフェッショナル 」で坂本龍馬をとりあげていたのには呆れた。 福山正治まで登場するのでは、その魂胆は番宣以外にない。 以前、NHKで「ドライビング・ミス・デイジー」という芝居に出演する仲代達也さんの日常を見つめた番組があった。 それは年齢と共に台詞覚えが悪くなった老俳優が役作りに取り組む生の姿があった。 年老いた名俳優の苦闘と葛藤が描き出された秀作だった。 それと、この回の「プロフェッショナル」を同列にして評価するわけにはいかない。 また、1月7日には「 あなたが主役 50ボイス 」という番組では「『龍馬伝』のスタッフがこだわっていること」というテーマで番組を作っていた。 いつもは2つの質問で構成されているのに、この日は1テーマ。 30分まるまる龍馬伝のPRに徹した。 なりふり構わぬこの姿勢、厚顔無恥の謗りを受けても仕方がないだろう。 こうした番組が、電波の無駄遣いだという意識はないのだろうか。 「公共放送としての使命」。 何かというとNHKから発せられるこのお題目はどこにいってしまったのだろう。 私が「11PM」のADだった頃。 30年以上も前のことだが、その頃他の番組担当者や広報部が何とかPRさせてくれといってきたことがあった。 「1分でも30秒でもいいからお願いします」というのが彼らの口から出る言葉だった。 担当者は「生だから保証はできないよ」という条件付でシブシブOKしたものだった。 当然この言葉どおり、番組が押してくればカット候補の1番手となる。 番組の出演者を出すから、ということでPRを依頼してくるケースも稀にあった。 そんなときでも、せめて1分か2分というのが通常だった。 もちろ