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2月, 2009の投稿を表示しています

伊藤さんの遺産が残したもの

2月23日のNHKスペシャル「 菜の花畑の笑顔と銃弾 」を視た。 昨年8月にアフガニスタンで殺害された伊藤和也さんの活動を描いた番組だ。 伊藤さんの遺した写真とメール、現地で共に働いた人たちのコメントで彼の足跡を辿っていた。 彼は写真という道具と手段によって現地に溶け込んでいった。 子供たちを写した写真はその過程を物語る。 最初に作った水路に水が通った時、同僚と喜ぶ伊藤さんの笑顔に日本人とアフガン人の差はなくなっていた。 サツマイモを作るための試行錯誤、不作の報告はアフガン人以上に切迫した状況と焦り伝えていた。 それは、ひとりの青年の活動の軌跡だけでなく、アフガンの過酷な自然と戦争が生み出す悲惨な現実を描き出していた。 番組の終盤。 伊藤さんの墓を掘るアフガンの人々。 一面の菜の花畑を背景にした子供達の笑顔。 そんな一つひとつのカットに伊藤さんと現地の人々との心の交流が感じられた。 そして新たな農場で現場監督となった、伊藤さんと働いたアフガン人を紹介するときの言葉。 「彼はイトーと一緒に働いていた人だ」 その一言が現場で作業するアフガン人たちの信頼を得る最も簡単で、確実なものだったことになぜか安堵した。 最後にそのアフガン人が語った言葉。 「イトーはいろいろなことを教えてくれた。学んだことはみんなに広めてゆく」。 力強く語った彼の表情に伊藤さんの生きた証しを見た。 アフガニスタンに対して本当にしなければならないことは何か。 軍事的な圧力によるゲリラやテロの根絶という方法は本当に正しいのだろうか。 伊藤さんと働いたアフガン人たちが語ったいくつかの言葉が印象に残る。 「作物ができればこの国のほとんどの問題は解決する」 「日本軍が来れば、日本人が狙われる」 これは伊藤さんが現地の厳しい自然に立ち向かい、苦闘した成果と、銃弾による非業の死の無念さを自問したものに感じられた。 そして、伊藤さんが築き上げつつあったアフガン人たちとの信頼関係と乖離した国際政治に対するメッセージとして私の心に響いた。 日本は、日本人は何をすべきか…

続・最近のテレビは面白くないという声に

以前に触れた「最近のテレビは面白くない」というブログについて、もう1点、最も大切なことを書くのを控えていた。 それは、テレビがつまらなくなっている原因は視聴者にもあるということだ。 テレビの歴史で、主婦連などの団体からの圧力に怯えながら番組を作っているという面を無視することはできない。 テレビが表現の自由を楯にそうした圧力に抗っても、スポンサーがその圧力に屈する。 昭和40年代から50年代にかけて「低俗番組」というレッテルを貼られて消えていった番組がいくつあったことか。 それが、次第に斬新な企画は採用されないようになり、「常識」の枠を外れた演出は今や処分の対象にさえなるようになっている。 そうしたテレビ局の姿勢は『視聴者サービス』という部署のポジションの変転が明確に語っている。 私がテレビの世界に入った頃、視聴者からの問合せや、苦情・クレームの電話は番組のデスクにかかってきた。 その後、視聴者サービスという名のクレームや問合せを受付ける部署ができた。 そこは定年を目前にした人たちの最後の働き場所だった。 視聴者から寄せられた電話を受け付けて、その内容を担当部署にまわすのが主な仕事だった。 今は担当部署を経ることなく、即役員会にかけられるようになっている局もある。 厳しい苦情やクレームがついた番組のスタッフは担当番組を変えられたり、配置転換など処分を課せられることも少なくない。 視聴者の声にビクビクしながら番組を作っているのがテレビの現状だ。 その証しに今はもう「低俗番組」なんていう言葉が新聞などで躍ることはない。 そしてそれと引換えに、テレビをベースにした大衆文化は盛り上がりを失い、とても常識的なお笑いタレントばかりが登場してくるようになったといえなくもない。 消費者団体はもとより、日本人はいろいろなものをジャンル分けしてレッテルをつけるのが好きだ。 「低俗番組」というのもその一つだ。 そのジャンルに括られた作品がどんなに優れた表現をしていても、そこに出演する役者がどれほど素晴らしい演技をしても、正当には評価されない。 先日、映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞した。 この作品の監督、滝田洋二郎氏はピンク映画出身だ。 滝田監督は蛍雪次郎さんと組んで「痴漢電車シリーズ」をはじめ、コミカルでユーモラスなピンク映画を数々世に出していた。 軽妙で洒脱なタッチの演

マラソン・駅伝中継に危機感

今日、日本テレビで「横浜国際女子駅伝」を視た。 駅伝ブームを作り上げてきたこの大会も今年で最終回だという。 このイベントのスタート当時、私は開会式などイベントの方の制作に携わっていた。 今回出場した選手のコメントに「私が生まれる前から行われている大会」というのがあり、時の流れを実感させられた。 日本テレビでは正月の看板番組「箱根駅伝」などがあり、マラソンや駅伝の中継は常に高いレベルの番組を作ってきた。 毎年、準備段階から電波障害の起こる場所を詳細に確認し、万が一のトラブルも回避できる態勢を作り上げた。 筋書きのないドラマを余すことなく見せるという姿勢は、制作技術陣も含めどの局よりも高い完成度を保っていた。 ところが、久々に視た今回の番組はどうしたことだろう。 実況をしているアナウンサーたちがこの番組を台無しにしてしまっていた。 センターに対して、第一中継車、第二中継車、バイクレポート、中継地点間の連絡がボロボロで、何度もコメントがぶつかった。 その責任は制作陣にもある。 センターでの交通整理ができていなかったし、アナウンサーとセンターの間に入るフロマネも素人並の仕事だった。 その連携の悪さは往時の日本テレビでは考えられないひどいできだった。 オンエアーモニターをつけていれば避けられたことだと思うのだが、どうしたことだろう。 そんなボロボロの中継に加えて、実況されるコメントが全くどうしようもない。 現場の臨場感を伝えるなんていうことはそっちのけで、事前に準備した原稿を読むのに必死。 これではナレーションだ。 第一中継車に乗っていたランナーズの金さんの解説などほとんど入る余地がなく、何のために乗っていたかとさえ思ってしまう。 女子駅伝ということから女子アナウンサーを起用したのはもう数年前のことだ。 女性だから理解度が低いとはいいたくないが、勉強不足ということは随所で自ら暴露してしまっていた。 中継地点でも、駅伝独特の緊迫感や期待感は全く伝わってこなかった。 私が視ることができなくなっていた間、ずっとこんな放送をしていたのかと悔しささえ感じさせられた。 何のための実況生中継なのか原点から見つめ直した方がよい。 マラソンや駅伝は高視聴率を期待できるため、毎年各局で放送される。 元々マラソンや駅伝をテレビ観戦するのが大好きな私は、そのほぼ全てを視ている。 ただ、どの局の放送か

お父さんの復権に引きずられるCM界

少し前に上田義彦氏のCMに疑問を投げかけた。 そこでCMを意識的に視ていると、いろいろと細かいところが気になってくる。 その一つの傾向が大人気のSoft BankのCMだ。 好評の要因は父親役の犬にあることは間違いない。 なんといっても、北大路欣也さんの吹き替えが素晴らしい。 バンバン更新されるどの作品においても、短い言葉の中に父の威厳を表現し、ありえない設定を見る人たちに感じさせない力をもっている。 大俳優を起用しただけの効果が十分に発揮されているということだろう。 こうした効果的な作品が好評だと同じようなものが次々制作されるのはCMの常だ。 これは前回にも書いた。 案の定、最近有名俳優がナレーションをしているCMが目立ってきた。 北大路欣也さんの吹き替えが作り出した一つの流れといえるだろう。 柳葉敏郎さんなど、普通なら画面に出てきても十分訴求力をもった、ビッグネームといわれるレベルの俳優さんたちだ。 それぞれが一般的なCMよりも深みを作り出していて、作品として高い完成度を感じさせてくれる。 映像も商品一点張りというより詩情あふれるものが多く、落ち着いたナレーションと調和して私たちの心に残る作品となっているものが多い。 ただ、CMとして考えた時それでよいのだろうかという思いが頭をもたげる。 「CMは後の世に名作だと評価されても意味がない。今、そのCMで物が売れるかどうかが大切だ。」 Soft BankのCMを作った電通のクリエーターが朝日新聞に語った言葉だ。 この点にSoft BankのCMとその後の秀作CMとの差があるように思えてならない。 単に商品名を連呼したり、押し付けがましいイメージばかりのCMはごめんだ。 一日に何度も見せられるCMだから、少しでも良い作品を視たいと思うのは私だけではないだろう。 でも、CMのクリエーターたちはそんなところでは勝負していない。 私はCMのディレクション経験はそれ程多くはないが、テレビの番組の演出に比べてCMのクリエーターという仕事の厳しさを実感させられた。 まあそうはいっても、どうせなら質の高いCMというのは視ていて気持ちが良い。 誰だって、Greeの歌より、サントリーの石川さゆりさんが歌うブルースの方が心地よいはずだ。 質も、実績もというのは厳しい要求かもしれないが、全体のレベルアップを期待してしまうのは私だけではないと

最近のテレビは面白くないという声に

「最近のテレビは面白くない」というブログに多くの注目が集まっているようだ。 私も、偶然そのサイトを訪れた。 残念ながら、批判の内容も具体性は乏しく、評価する目もしっかりした規準があるようには思えなかった。 それと、2チャンネルで展開されているような記事とコメントのやり取りなのもちょっとガッカリした。 テレビを見なくてもYou Tubeで視ればよいという意見にはガッカリを通り越した失望を感じた。 テレビとYou Tubeとは全く別物だと思うのだが…。 もう少し内容が充実していたら…というのが率直な感想。 批判するだけでなく、「テレビを面白くするにはどうしたらよいか」という見る側からの建設的な意見交換の場であって欲しいと思ってしまった。 そんな中で視聴者からテレビ局を突き動かすようなアイデアが出てくる可能性だってあるのだから。 そして、そうした中でテレビが良い形に変革していったらそれにこしたことはない。 ところで、テレビが面白くないのは今だけだろうか。 テレビの世界に憧れ、そこで30年に亘って生きた立場からいうと、それは今だけのことではない。 過去の名作やテレビの世界のエポックメーキングとなった番組でさえ、本当に面白かったのかどうか疑問だ。 仮にそれが面白かったとしても、それは毎日24時間ひっきりなしに流れる番組のほんの一つか二つでしかないはずだ。 年間に5本も面白い番組に出会えれば儲けものかもしれない。 テレビというのはそんなもののように思うのだがいかがだろうか。 はっきりいって、昔の番組は面白かったと思うのは単なる郷愁ではないか。 さもなければ、その頃は見る目が無いほど幼かったということではないだろうか。 試しに、そうした番組を今もう一度見直して見ると良い。 きっとその頃視て感じたほど面白くは感じないはずだ。 ただ、今の技術の発展がテレビのクォリティーに必ずしも寄与していないというのは実感できる。 以前、日本テレビで「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 」を作っていた菅賢治さん(現在制作局次長らしい)がいっていた言葉を思い出す。 彼はテレビのデジタル化が決まった頃、私に「ハイビジョンでバラエティーなんか撮る気になりません」といっていた。 16:9という画角の中でのバラエティーはそれまでの作りでは笑えない。 それと、笑いは広い画面の中では成立しにくいという現実も

いつまで続く「篤姫」の遺産

NHKの大河ドラマ「 天地人 」の視聴率が好調のようだ。 妻夫木聡さんの爽やかな演技が好感を持って受け入れられているのだろう。 いくら歴史ブームとはいえ、樋口(直江)兼続という一般的な知名度がない人を描いているのにしては予想外の好成績といえるのではないか。 ただこの高視聴率、どうしてもあの「篤姫」の影響のように思えてならない。 というのも、冒頭に書いたように妻夫木聡さんの爽やかさ以外に、好評の要因が見当たらないからだ。 例えば出演者たちの顔ぶれをみても、例年のように演技派といわれるような名脇役が名を連ねているわけではない。 だからシーンごとに閉まった感じがしない。 台詞もなく、ただいるだけの俳優がどれだけいることか。 そうした場面でも良い役者はしっかりと空気を作ってくれるのだが…。 唯一、これまで目を惹かれたのは玉山鉄二さんと長澤まさみさんくらいか。 相武紗季さんの美しさはオヤジとしては嬉しいところではある。 ついでにいえば、常盤貴子さんが18~19歳を演じているのは視る側に苦痛で、作品では主人公の年齢を不明確にしている以外にない。 脚本も、随所に時代性を取り違えたような部分が気になる。 また、言葉使いも取って付けたようで聞きづらい。 頻繁に使われる「義」という言葉を定義づけるような説明臭さは特に気になる。 もっと女性脚本家らしさが前面に出てもよいのではないか。 それと、兼続がでしゃばるシーンも鼻につく。 もう少し工夫があっても良いのではないか。 そして、なんといっても演出だ。 CGを多用している映像は、その処理が主張しすぎていて違和感を覚える。 加えて、最近随所に舞台演出的な手法をとっているが、これがまったく効果的でない。 美術セットを廃して、サス照明だけで見せるのだが、これが幻想シーンなのか現実なのか不明瞭。 カット割にしても、イマジネーションラインを分かりにくくする映像が多いし、アップの多用も閉塞感しか伝わってこない。 だから位置関係が分からなくなることもしばしばだ。 ロケーションでは美しい映像を見せてくれているのだから、もっと引き画を見せてくれても良いと思う。 スタートしてから2ヶ月足らず。 まだ、主人公は16歳だ。 今月中には上杉謙信が死んで、新たな展開となるはず。 そうなってからに期待したいところだ。 ただ作品として良くなるのかどうか、そしてそこまで視聴

消化不良の「沸騰都市TOKYOモンスター」

相当高い期待感を持ってNHKの「 沸騰都市 TOKYOモンスター 」を視た。 NHKスペシャルの枠で8回シリーズの最終回。 しかし残念ながら、有終を飾るというにはなんとも物足りない内容でちょっとガッカリしたというのが本音だ。 それまでのシリーズ各回では、高いレベルでグローバル化する都市の現状と将来を見つめていた。 しかし、本拠地である東京ではそうしたところまでの掘り下げはされていなかったというのがその理由だ。 日本経済の中心地として発展を続ける東京の今と将来像があまりにも中途半端。 どこに焦点を当てるのかが不明確で分散された感が強い。 人口の流入によって新たに開校した江東区の小学校と、そこに通う子供たちが超高層マンションに住むという現実。 そこから空に向かって広がってゆこうとしている東京の超高層ビル都市化を紹介。 丸の内の再開発を主導する三菱地所と六本木の超高層化を目指す森ビルの計画にも言及する。 丸の内では外国資本の集中も取り上げられていた。 そして、次に東京が拡大するのは地下だという。 山手トンネルのルートまでCGを駆使して見せていた。 オマケに、未来の東京を描いたアニメまで登場する。 はっきりいって、この演出には大きな疑問を感じた。 このアニメのできがよいというのならまだ許せるのだが、なんとも消化不良で東京の未来像というには説得力がなさ過ぎた。 何より、都市としての具体的な未来「像」が描かれていない。 はっきりいって時間の無駄遣いだったように私には感じられた。 余談だが、刑事二人が語り合うシーンが大衆食堂で、二人の背景には定食580円、お酒100円…などとメニューがかかっていた。 これってどうなのでしょう。 単に作り手の遊び心ということなのでしょうか??? それに、取り上げた内容についても、もっと問題点なり課題なりといったところが描かれても良かった。 民間のデベロッパーが主導する再開発にある問題。 こうした大手デベロッパーが手をつけた後に虎視眈々と次の展開を目論む準大手の暗躍はあるのか、ないのか。 拡大する都市機能についても、もっと掘り下げるべきところがあったのではないか。 例えば、先日ニューヨークであったような、1羽の鳥のおかげでジェット機が奇跡の不時着をさせられるようなことは考えられないのか。 など、今動き出している開発についてだけでもいくつもの疑問が湧き

どうなんだろうと思うCM

自分でもCMのディレクションをしているからあまり大きなことは言えないのだが、最近どうなんだろうと考えさせられるCMが目立つ。 最近CM業界では上田義彦さんというカメラマンが引っ張り凧だそうだ。 サントリーの烏龍茶や伊右衛門、資生堂など大企業の中でも、CMの質にこだわる会社のCMやポスターを手がけているという。 その映像の最大の特徴は光の柔らかさにある。 照明であれ、太陽光であれ、直接光を受けて撮影されたものは、発色が綺麗で強い印象を与える。 しかし度が過ぎると、刺々しいイメージになる場合が多い。 上田氏の作品は、たとえ外光を使っている場合も、極力直接光を使っていないように思われる。 それもレフ板などという強い反射光ではなく、壁などに反射した光をうまく捉えている。 だからその映像は柔らかくなる。 また、想定されているキャラクターの設定に、モデルの気持ちがギリギリまで昂まるまでカメラを回さないということも聞いた。 その結果、伊右衛門の本木雅弘と宮沢りえの2ショットに、良いお茶つくりにこだわる夫と、それを見守る妻。 二人の間にある、若い二人の愛とは違う、空気のように当たり前になっている夫婦愛さえも、たった15秒間で描き出している。 こうした徹底したイメージ化が彼のCMの真骨頂だ。 ところが、最近これに似た作品ばかりが目に付くようになった。 AFLACのCMは宮﨑あおいさんの魅力を引き出した上田作品だが、彼女の梅酒や東京メトロのCMでも同じような映像がつくられている。 多分上田氏の手によるものだろう。 宮﨑あおいさんのCMは上田カメラという不文律ができあがっているのではないかとさえ思えてくる。 さもなければ、最近注目のクリエイターがキャラクターは宮﨑、カメラは上田と指名しているのか…。 どれほど上田氏が企業や代理店の信望を得ているかの証左だが、CMの存在価値としては疑問を感じないわけにはいかない。 CMは何より企業や商品のイメージを浸透させる手段だ。 それだけにオリジナリティーが何より要求されるはずで、それによって他社との差別化をはかっているはずだ。 ところがこれほど上田作品が巷にバンバン流れるようになると、それがどれほど高品質のものだとしても、そのオリジナリティーが失われるわけだ。 AFLACのCMなのか、梅酒のCMなのか。 映像の質を見る限りその差は限りなく少ない。 そ

金こそが全てという日本社会の病理

2月9日NHKのドキュメンタリー「 職業“詐欺”~増殖する若者犯罪グループ~ 」を視た。 依然として減少の気配すら見せない『振り込め詐欺』の実態を追った番組だ。 なによりこの制作チームの取材に脱帽した。 多分街に出て地道な聞き込みから、詐欺グループのトップにまで辿り着いた。 警察の捜査陣は何をしているのだろうと思わざるをえない。 番組の中で、一人の詐欺師が「携帯電話に警察から電話が入った」とさえいっていたのだから、ザル捜査といわれても仕方がない。 捜査の方法を根本的に見直したほうがよいとさえ思える。 それはさておき、その内容だ。 番組では振り込め詐欺グループの組織と手口を解明している。 実行犯は20代の若者がほとんどで、有名大学や一流企業の出身者さえいる。 詐欺を「仕事」、実行犯を「従業員」と呼ぶなど組織化している。 決まった時間に出勤し、遅刻には厳しいという。 売上ノルマも設定されていて、その金額は200万円というから、並みの企業より余程厳しい。 彼らの業務は毎日バンバン電話をかけ続けること。 犯行に使われた携帯電話はすぐに捨てるという。 こういった事実を、実際に詐欺を働いている「犯人」たちから聞き出している。 その内容には驚きと同時に、警察への不信感を募らせざるをえない。 番組では、詐欺師たちの生活にも立ち入っている。 彼らは高級マンションに住み、外車を乗り回し、キャバクラで豪遊するという毎日を送っている。 彼らの口からは「金が全て」という言葉が頻繁に吐き出される。 そこに日本の社会の歪みの一側面を見た。 20代の若者たちの快楽を追い求める短絡的な志向に、呆れるより恐怖さえ覚えた。 それにも増してこの犯罪の根の深さを痛感させられたのは、社会とのつながりだ。 逮捕される可能性が高い金の引き出し役(出し子)は街で金に困った若者をスカウトする。 使い捨ててゆく携帯電話の名義人も、同じように職を失って町にあふれている人だ。 この犯罪は今の日本社会が生み出し、増殖させたものということを私たちにつきつけている。 これではこの先減るということは考えられない。 こうして振り込め詐欺が詳らかにした、今の日本社会の歪みこそがこの番組のテーマだ。 番組の終わり近く、金のために切羽詰った彼はまた出し子の道に戻ろうかと口にする。 金がなくなって2日間飲まず喰わずの生活をしていた元出し子だ

「警官の血」に欲求不満

2月7日、8日と二夜にわたってテレビ朝日のスペシャルドラマ「 警官の血 」を視た。 50時間テレビの一環として制作された、合計5時間にも及ぶスペシャルドラマだ。 脚本・演出は鶴橋康夫さん。 読売テレビの木曜ゴールデンドラマで、大阪に鶴橋ありと謳われた名ディレクターだ。 昨年には同じテレビ朝日で黒澤明監督の「天国と地獄」をリメイクした作品を演出していた。 これは相当できの良い作品で、鶴橋監督の健在ぶりをアピールする作品だった。 それゆえに、今回の「警官の血」も期待してチャンネルを合わせた。 全体の印象を一言でいうと、ちょっと物足りない作品だった。 それは5時間(2時間半×2回)という放送時間によるものだろう。 実質4時間程度で戦後間もない頃から現代まで60年以上を描くのは難しかったのではないか。 シーンごとではしっかりした描き方をしているのに、なぜか駆け足をしているような落ち着きのなさを感じさせられた。 この作品は相当に奥深い人間ドラマである。 そして、その根底に戦争が生み出した悲惨な状況であったり、権力の力であったり、罪とは何かといったことが絡み合ってくる。 だから、全部のシーンがとても意味があり、重要な構成要素だ。 全部が重要なものだから、逆に作品全体に棘がなくなったような感じがしてならない。 1時間の10回放送ならば、もっとしっかりと時代性や心理描写、権力の裏側の力など、鶴橋演出を楽しむことができたように思えてならない。 ただ、鶴橋演出の特徴であるカットバックの手法は随所に生かされていた。 繰り返し使われることで、親・子・孫という三代の警察官の、真に「血」を感じさせられたし、精神的な重圧や葛藤といった心理描写にも意味があった。 最も象徴的なのは日本軍が玉砕したレイテ島での戦いで、精神的に極限に追い込まれた早瀬少尉(椎名桔平)が男色に流されてゆくシーン。 このドラマの最後に語られる部分だ。 それが、この長大なストーリーの底辺に流れる異常性を描き出していた。 番組サイトによると、この作品は150人ものキャストが出演しているそうだ。 普段のドラマならこれほどの役者を起用しただろうかと思えるほど、ビッグネームが顔を揃えていた。 泉谷しげるさん、伊武雅刀さん、奥田英二さん、髙橋克典さん、麻生祐未さん、佐藤浩市さん、寺島しのぶさんなど実力派といわれる演技陣が脇を固めた。 さ

山田太一ドラマにさよなら

以前、フジテレビの「 ありふれた奇跡 」が低調な作品だということを書いた。 設定やら台詞回しに疑義を唱えた。 とはいえ、巨匠の作品だからというので新しい動きが起きるだろうと半ば期待して見続けていた。 しかし、もう限界。 山田太一さんの作り出す世界についていけなくなった。 まず、山田作品独特のあの台詞の展開。 A 「(断片的な短い台詞)」 B 「はい」 A 「(前の台詞に続く短い台詞)」 B 「はい」 という繰り返しのことだ。 それが山田作品全てに流れる独特のオリジナリティーなのだといわれればそうなのだが、私にはこのテンポは耐えられない。 まだるっこしくてイライラしてくる。 Bの「はい」に意味があるのだろうか。 テンポは壊すし、キャラクターの存在感にもなんら貢献しているわけではないと思うのだがどうだろう。 どなたかこのやり取りの意味を教えて欲しい。 頻繁に繰り返されるこの掛け合いに気がとられてストーリーに気持ちが入らない。 たまには違う描き方というのはできないものだろうか。 それから、前回あたりからストーリーが大きく動き始めた。 だが、これもまた納得がゆかない。 先週は主人公の母親の不倫。 そして今週は父親の女装という隠された趣味が明らかになった。 その女装仲間が偶然主人公と交際するようになった男の父親だというのだ。 そんな不均衡な状況にある家庭が平穏を装っているところを暴いているということなのだろう。 社会派といわれている山田太一作品ならではの、病んだ状況を描き出していると判断しなければならないのだろうか。 ただ、先日も書いたけれどこういう設定ってどうなのだろう。 私にはなんとも古臭いものに思えてならない。 1970年代の学園闘争華やかなりし頃の映画ではこうした展開がよく見られたように思うのだが。 何も恋人の父親同士が女装仲間だなんて…。 設定が苦しくありませんか??? それともう一点。 山田作品にお約束の出演者たちも苦言を呈したい。 橋田壽賀子作品には泉ピン子さんのように、山田太一作品には八千草薫さんと井川比佐志さんが付いてくる。 特に、井川さんは演技派でどんな役でもこなしてしまうから逆に質が悪い。 個人的には昔からとても好きな部類に入る役者さんで、この人が脇を固めていると本当に締まった作品になる。 そのせいもあって、山田作品に頻繁に出演しているということなのだろ

地に堕ちた日テレのドラマ

このblogでほとんど日本テレビの番組について書いていないことにちょっと寂しさを感じていた。 というのも、私がテレビの世界に入ってから27年も日テレの番組を制作してきたから。 いってみれば私の故郷のようなものだ。 それが、これまで取り上げたのは、正月の「全日本仮装大賞」と駄作だったどこかのパクリのようなクイズ番組だけ。 書いているのはNHK、フジテレビ、テレビ朝日が主だ。 日本テレビの番組を批判することを避けているというわけではない。 批判的な内容でも何か書いているというのは視ているからで、ということからすると、私はほとんど日本テレビの番組を視ていないということになる。 なんだか故郷を捨てたような気がしてちょっと心苦しいところもあった。 ただ、視たいと思えるような番組がないのだから仕方がない。 もう少しオヤジたちも視たくなるような番組を編成してくれてもよさそうなものだ。 元々、日テレの視聴者層の年齢は高かったのだから。 そんなこともあって、無理やり日本テレビを視るように努力した。 結果、ガッカリした(>_<)。 水曜日の夜10時から放送している「 キイナ-不可能犯罪捜査官- 」は菅野美穂さんの刑事ドラマ。 この作品は事実をもとにつくられたオリジナルストーリーだということだ。 毎回起こる不可能犯罪事件を、主人公のキイナが世界中の怪奇現象の研究を基に解明してゆくというもの。 どうやら彼女は速読ができるらしい。 番組のサイトでは『類いまれな能力を持つ』といわれているが、この他には一目で書庫の本の数が分かるとか、コップに描かれている星の数が分かるということのようだ。 この番組を視ていて寂しくなってしまうのはその映像化のチープさ。 一晩で何十冊という専門書を読み切ってゆくときの映像は、毎回決まりのパターンらしい。 これが前時代的な映像処理で、その特殊効果の陳腐さは視ている方がつらくなる。 このシーンから、捜査員たちに不思議な現象の謎を解き明かすシーン。 その場を締めくくる沢村一樹さん演ずる係長が「そんなの何の役にもたたねえ」までの数分間は定型。 いってみれば水戸黄門で立ち回りから印籠を出して「下がりおろーッ!」までの流れのようなものだ。 日本テレビには矢追純一さんから始まって小川通仁さんなど超常現象に強いディレクターがいた。 そうした諸先輩に恥ずかしくないのかとさ

丸くなった「疑惑」

テレビ朝日が開局50周年に合わせ、50時間テレビと銘打ってスペシャル番組を編成している。 ただ、内容は人気番組のスペシャル版というもので、日本テレビの24時間テレビのような統一したコンセプトのものではないようだ。 特に興味を惹かれるような番組ではないので今のところ全く視ていない。 こういう編成企画というのはどうなのだろう。 せっかくの周年記念、もうちょっと力を入れて欲しいと期待するのは私だけだろうか。 その50時間テレビに先立って、50周年を記念したドラマが放送された。 松本清張の「 疑惑 」だ。 田村正和さんと沢口靖子さん、室井滋さんの主演。 脚本はこの原作を何度も作品化している竹山洋さん。 野村芳太郎監督の映画「疑惑」でも脚本を書いていた。 映画では佐原弁護士を岩下志麻さん、被告の球磨子を桃井かおりさんが演じていて、二人の火花を散らせるような緊張感あふれるやり取りがとても印象的な作品だった。 「砂の器」をはじめ松本清張の小説を数多く演出している野村芳太郎監督の作品の中でも高い評価を得た作品だったはずだ。 そんな感覚が残っていたせいか、テレビ版の「疑惑」はちょっと物足りないできだった。 田村正和さんの佐原弁護士からは殺人の謎解きでも鋭さや緻密さは感じられなかったし、この仕事に向き合う背景も希薄だった。 事実を追求する姿も熱血というほどでもなく、正義感あふれるというところも感じられなかった。 沢口靖子さんは大熱演で、今までに視たことがないキツくてズルい性格の被告役を作り上げていた。 ただ、どうしても本当に悪い女には見えない。 どこかにやさしさが出てしまって、色と欲で被害者に近付いていったような悪女にはなりきれていなかった。 やっぱり、映画の桃井かおりさんのイメージが残っていたのだろうか。 室井滋さんの白井球磨子を犯人として書きたてる新聞記者はただうるさいだけ。 キャンペーンを展開したプライドや意地といったものはただ空回りするばかりで、残念ながら感じることはできなかった。 映画版との区別化や田村正和の主演ということのためだろう、竹山脚本もほとんどゼロスタートという感じ。 さすがに球磨子の時により豹変する態度やズルさの描きこみは見事だった。 ただ、謎めいた球磨子の生い立ちや、行動がドラマの厚みを作るほどの効果を作り出しているとはいえなかった。 やはり田村正和という個性あ