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テレビの映画放送での暴挙

BS朝日が年末特番として29日と30日に黒澤明作品を放送した。 「まあだだよ」と「乱」。 黒澤明がメガホンを取った最後の作品と、自ら集大成と位置づけた大作だ。 テレビで映画の放送を視ていて、ずっと思っていたことがある。 それは途中で入るCM。 あれはどうしても止められないのだろうか。 民放で放送するのだからCMは不可欠。 それは十二分に承知している。 でも、サッカー中継ではハーフタイムに集中して流すなど工夫しているではないか。 映画の放送に関しても、番組の構成を再考する余地はあるはずだ。 まして、BSでの放送。 地上波に比べれば、いくらでも融通は利くと思うのだが…。 そうした工夫をすることがBSの存在価値を主張し、視聴者獲得にも通じると思う。 もう1点。 今回の放送を視ていて気がついたこと。 それは、CMに入る際の映像処理について。 実はこれはとても大きな問題だ。 今回の放送では(いつもそうしているのかもしれないが…) CMに入る前に黒にフェードアウトしていた。 オリジナルではそうした演出がされていないところでこんな処理がされている。 これは著作権侵害だ。 CMを入れることだって、間違いなく著作権を侵害している。 まあ、これは民放の宿命として百歩譲るとしよう。 きっと監督協会からの了解も取り付けているのだろう。 けれど、黒にフェードアウトするのは作品の価値に著しく影響を与えることにななる。 黒澤監督が生きていらしたらこうした暴挙を認めたかどうか。 制作担当者は単に本編とCMの区切り程度にし考えていないのだろう。 しかし、映像表現ではその処理が大きな意味を持つということを知るべきだ。 今回の例では黒澤作品独特のカットのテンポを損なわせていた。 私が現役時代、秋元近史という私の師から一つの命題を与えられたことがある。 それはステージ演出に関してのことだが、 「暗転は場面転換のためだけにあるのではない」 というものだった。 私にとってこのことは、今でも解き明かせない宿題として今も心に強く残っている。 同様に映像において黒へのフェードアウトはシーンチェンジさせるためだけの手段ではないはずだ。 ある意味、演出の根幹を成し、作品の優劣を左右することを、安易に第三者が行ってよいはずはない。

制作陣がダメにした秀作

番組づくりで、ほんの小さなこだわりの欠如が全体に悪影響を与えるということは良くあることだ。 私もそうした苦い経験が何度もある。 あるときはOAまで気がつかなかったり、またあるときは分かっていながら妥協してしまったことだったり。 そんな時は立ち直れないほど自分に失望した。 他のスタッフ、出演者、視聴者に申し訳ないと思ったものだ。 もちろん100%満足、というようなものが作れたという思いはない。 しかし、小さな綻びが番組全体をダメにするということはまた別のレベルのことだった。 最近、そうした番組に出会い、憤りを感じることが多い。 12月17日フジテレビの「目線」はそうした番組の一つだった。 この仲間由紀恵主演のサスペンスドラマは、演出チームの稚拙さ、こだわりのなさが全てをぶち壊しにしてしまっていた。 仲間由紀恵が演じる主人公は、子供の時のケガが原因で車椅子を使用している。 それはこのドラマで大きな意味を持っている。 反面、ストーリーづくりではそのことが大きな制約になる。 ところが、脚本はそうした制約などお構いなしにストーリーを作り、演出は無神経に映像にしていた。 「そんなバカな~」と声をあげたくなるようなシーン、カットが繰り返されるお粗末。 まったく工夫のないシーン設定は、本来描くべき登場人物たちの関係や葛藤を見せる時間を切り捨てさせた。 なにより、仲間由紀恵の内面まで描き出した好演も、最後の謎解きの見事さも、全て台無しにした。 それだけではない。 そうしたところが気に障ると、いらぬところまでも気になる。 必要以上のアップでは女優のメイクの粗を浮き立たせ、中途半端な引き絵ではセレブの家とは思えない安っぽさが見えてしまう。 そうして駄作への道をまっしぐらに走ることになった。 きっとこの原作は秀作といえるレベルのものだったのだろう。 結末がそれを物語っている。 この制作者たちは何度でもこの作品を視て、猛省するべきだ。

「龍馬伝」がようやく終わった

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が11月28日に終わった。 プログレッシブカメラを使用した斬新な演出を掲げていたが、まったく期待外れの作品だった。 終わって、正直ホッとしている。 歴史ブームの中で最も人気のある坂本龍馬が主人公。 それを演じるのが福山雅治。 事前や放送中のPRもクドイほどやった割に、視聴率は上がらなかった。 その原因はテレビ的でない作品だったからといわざるを得ない。 第一は、チーフ演出の大友啓史お気に入り(?)のプログレッシブカメラの使用がその効果を出しているとは思えない。 例えば、屋外シーンでの埃っぽさが必要以上に際立ってしまっていた。 埃っぽさは、特に第一部の土佐時代に関してはネライだったはずだ。 それがプログレッシブカメラの映像は必要以上に砂埃を際立たせ、視ていて煩わしくなってくる。 それ以外のシーン、カットでもプログレッシブらしい映像の美しさを感じさせるものは皆無だった。 第二は、ハンディーによるクローズアップの多用。 従来のアングルにはない、それこそ斬新なアングルからのアップは緊張感を主張しすぎて押し付けがましい。 時にイマジナリーラインを越えそうにさえなる。 だから二人の空間的、精神的位置関係は見えなくなる。 以前にも指摘したが、最近のドラマではハンディーカメラでのアップが多用される。 微妙に手ブレする画面は配役の気持ちの揺れを表現する場合もあるが、その多くはできの悪い心理描写に陥る。 それを多用すれば、まったく意味も伝わらず、息苦しいだけの映像となる。 今まで私が感動したハンディーのアップは『篤姫』の初夜のシーンのワンカットだ。 そのワンカットを際出させたのは、そこまでのしっかりした絵づくりがあったからというのを忘れてはならない。 第三は、大声で怒鳴るばかりで騒がしい演出。 特に亀山社中結成以後は、番組中ほとんどずっと全員が怒鳴りあっている感じ。 若者たちが新しい時代に漕ぎ出す熱意を表したかったのだろう。 だが、いくらなんでも何かというと大声で怒鳴り続けているというのはどうなのだろう。 演出的にもっと描き方のバリエーションはなかったのだろうか。 放送を重ねるにつれ出演者の演技は過剰になり、逆に緊迫感を失ってしまう。 例えば、後藤象二郎を引き込むシーンや紀州藩に賠償金を請