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1月, 2009の投稿を表示しています

「女と男」は楽しいドキュメンタリー

NHKの製作したドキュメンタリーの新しい試みの作品をもう1本紹介したい。 「 女と男 」だ。 これは女と男の違いを最新の科学で解き明かしてゆくというのがテーマ。 3回シリーズとして制作されたうちの2本を視た。 2回目は「女は地図が読めない」というところから、脳の使っている部分が男女で異なるということを解明している。 そして、そうした違いはなんと人類が発生した頃の狩猟時代から始まったというのである。 男は空間を認識する力に長け、女は目印をうまく活用する能力を身につけたのだそうだ。 こうした能力の違いが今の私たちにもつながっているのだという。 男女の能力についての研究を基に、医学や教育などではじまっている男女差に注目する新たなムーブメントを紹介していた。 3回目は、近い将来男が消えるという、染色体についての研究を紹介していた。 男性を形作るY染色体は滅びる運命にあるというのである。 それは早ければ来週にも、遅くとも500万年以内に起こるという。 加えて、その染色体を決める精子も劣化しているということをチンパンジーの精子と比較して紹介している。 その原因は一夫一婦制だというのである。 人類はこのまま滅んでゆくのか。 それとも科学の力で子供を産み、種を繋いでゆくのか。 最新の生殖技術などもあわせて見せている。 男女の違いを科学的に解明するというと、どうも難しい内容になると想像される。 ところがこの番組では入り口をとても平易なところに置いている。 だれもが「そうそう!」と納得できるところも親近感が感じられて良い。 それは「 解体新ショー 」がつくりだした手法から導き出されたであろうことは想像に難くない。 それからこの番組では筧利夫と西田尚美のミニドラマが随所に挿入される。 ドキュメンタリー部分を視ている人という設定で、必ずしも内容とは一致しないところがまた良い。 いわゆるドキュメンタリードラマのような手法をとらないところを高く評価したい。 尚、3回目には西田の父親役できたろうさんも出演し、シティーボーイズのコントさながらの独特の雰囲気で空気を和らげていた。 N特の人体を科学するシリーズの番組はこうした工夫をとっている番組が前にもあった。 「病の起源」シリーズでは全6回に樹木希林さんや柄本明さん、渡辺えり子さんら俳優陣が案内役となっていた。 ドキュメンタリーというとどこか堅苦し

本当の自然賛歌と共存の物語

このところNHKのドキュメンタリーに新しいムーブメントが感じられる。 中でも最も感銘を受けたのが、昨年11月30日のNHKスペシャルで放送された「 雨の物語~大台ケ原 日本一の大雨を撮る~ 」だ。 日本一大雨が降る大台ケ原は年間5000ミリを記録するという。 一日で東京の一年分の雨が降ることもあるというから驚きだ。 そこにウルトラハイスピードカメラを持ち込み、落ちてくる雨の滴を捉えた。 そして雨の発生の瞬間を、気象観測用の飛行機にカメラを積んで映像化した。 普段私たちが目にすることのできない雨の姿かたちのドラマティックでさえある映像は、目を惹き付けて離さない強い力を持っていた。 その想像を絶するほど大量の雨がもたらす自然の営み。 雨を利用して生きるカエルやキノコの生態は、微笑ましくもあり、そして力強くもあった。 そこに暮らすほんの少数の人たちは大雨という自然の驚異と向き合いながら生活していた。 それは、自然に対する畏敬の念というよりはやさしく共存しているといった方がよいかもしれない。 危機に瀕している自然との正しい付き合い方を私たちに示してくれているようだった。 以前ここで批判した「エコ大紀行」なんていう下種な自然保護、環境保護を訴える番組とは比較にならない程の説得力を持って私たちの前に表してくれた。 大台ケ原には今も自然の大きな息吹が一つの世界を保っていたことに安堵と喜びさえ感じさせてくれた。 また、美しい地上の映像も見逃せない。 冬。 厳しい寒さと雨がもたらす「雨氷」。 扁平になりながら落ちてくる雨の滴。 そのクローズアップに対して見せられる大ロングの映像の対比は自然そのものが作り出すドラマを感じさせてくれた。 これらは映像詩としての力さえ持って、視るものに自然の美しさを強く印象付けるものだった。 この番組は自然の豊かさへの賛歌であり、自然を守ることの大切さを今までのどの番組よりも饒舌に私たちに教えてくれた。 大絶賛と共に、再放送を願って止まない秀逸な傑作だと思う。

凋落したドラマのTBS

1月24日、TBSの「 RESCURE~特別高度救助隊~ 」を視た。 土曜日のゴールデンタイムだというのにまったく時間の浪費だった。 まあ、この時間帯に視たい番組がなかったから、落胆度は低かったが…。 どうやらスーパーレンジャーに入隊を目指す若者の物語のようだ。 とにかく事前に消防現場を取材したか疑わしいほどのリアリティーのなさ。 ドラマによる事実のデフォルメでは済まされない。 ただ単にストーリーを作るための作り事だ。 この段階でこのドラマの陳腐さをさらけ出してしまっている。 消防という命を懸けた仕事だけに安直なつくりは逆効果だ。 ところで、今年始めにCXで「コードブルー」のスペシャル版を放送していた。 この作品はとてもレベルが高い青春人間ドラマで、レギュラー放送の時から大ファンだった。 登場人物のキャラクター付けが明確で、その背後にかかえているそれぞれの問題もしっかりと描かれていた。 映像はアップが多すぎて息苦しいところもあったが、題材が緊急救命医の活動を扱っているだけに映像化しにくい部分もあったのだろう。 ただ、いつも思うことだが、CXのドラマは若者の心理描写がうまい。 他局であればありきたりの設定で、臭く演出されるところが、CXでは思わず引きずり込まれてしまうことが多い。 気がつけば、いい年をしたオヤジが胸を熱くしていたりすることも珍しくない。 年始のスペシャルは昨年放送していたところの続きからというストーリーで、できは期待していたほどではなかった。 ただ、それは最初からハードルが高かったということで、今年視たドラマの中では十分秀作といえる。 「RESCUE」にもこれに匹敵するような青春ドラマを期待したのだが、全くの期待はずれ。 昔の大映テレビの『チビでノロマな亀』を売り物にしていた「アテンションプリーズ」レベルの滑稽な作品だった。 まあ出演者の顔ぶれを見ればそれも納得できなくはないのだが…。 それにしても、今どきこんなドラマを視て満足する視聴者がいると思っているのだろうか。 こんな作品をあのドラマのTBSといわれた局が製作するというのはどういうことなのだろう。 「渡る世間は鬼ばかり」におんぶに抱っこ状態が続いて、ドラマ班の制作能力が落ちたのだろうか。 あまりのレベルの低さに呆れてスタートして30分ちょっとでチャンネルを替えた。 ところがそこで出合ったのがNH

CXのドラマにハマっている

1月に入ってスタートした話題の力作ドラマが期待倒れの中、CXで若者をターゲットにした作品がおもしろい。 いわゆる月9枠の「 VOICE~命なき者の声~ 」と火曜日の夜9時からの「 メイちゃんの執事 」だ。 「VOICE」は「篤姫」で小松帯刀役を好演した瑛太さnが主演する、法医学教室に学ぶ医学生たちの謎解きドラマだ。 毎週一つの変死体の謎が解明される。 出演者は月9らしく、生田斗真さん、石原さとみさんなど若い視聴者に魅力的なキャストが顔を並べる。 何より瑛太本人のキャラクターそのままのような、飄々とした演技がよい。 それが、細部にこだわりを持ち、それを解決するためにどこへでも行ってしまう。 いつしかまわりの仲間たちを巻き込んで、その変死体が残したメッセージを解き明かしてゆく。 変死体の謎を解明するといっても、犯人探しのサスペンスドラマではない。 彼らが解き明かすのは、死者が死ぬ前の心暖まる行動だ。 そこにこの作品のオリジナリティーがある。 学生たちのキャラクター付けがありきたりという面はあるのは事実。 また、時に安直に見えるシーン設定に満足できない部分はある。 画作りにももっと工夫が欲しいと思うこともたびたびだ。 しかし、それはこのドラマ全体に悪い影響を与えているわけではない。 それらを凌駕するだけのストーリーのオリジナリティーと、時に涙さえ誘う死者の最後の行動が見終わってからも心地よく心に残る。 きっと月9に設定されている視聴率の高いハードルを越えるのは難しいだろう。 しかし、一度視たら、癖になってしまう番組だ。 もう一つ「メイちゃんの執事」は前作の「セレブと貧乏太郎」に続くコメディーだ。 宮城理子さんの同名のマンガが原作になっている。 主演は水島ヒロさんと榮倉奈々さん。 この作品はなんといってもばかばかしいほどの設定と、イケメンの男優陣が執事として大挙出演しているところだ。 番組サイトによると、イケメンブームを作ったプロデューサーの作品らしい。 このドラマのお薦めポイントはなんといっても肩の凝らないばかばかしさ。 舞台は、お嬢様ひとりにつき、超イケメンで優秀な“執事”が付いてくる夢のようなスーパーお嬢様学校。 急にそんな学校に押し込められた東雲メイ(榮倉)が、中でも特に優秀で、超イケメンの執事柴田理人(水嶋)と共に、性格の悪いご学友のお嬢様のイジメを乗り越え、立派

冒険の勇気と失望

NHKの「篤姫」で今も印象に残っている映像がある。 家定と篤姫が寝所で心を通じさせ合う時のカットだ。 見つめあう二人の顔のアップがそれぞれハンディーカメラで撮られていた。 それも、遠めからズームしているので、ペデスタルつきのカメラで撮ったようには映像が安定していない。 その微妙に揺れる映像が、高まってゆく二人の気持ちの心理描写として有効で秀逸なカットだった。 このシーンの最初には固定カメラでアップが撮られていたから、意図的にそうした画作りをしたと思われる。 それも二人のそれぞれのアップをハンディーカメラにしたというののだから、ディレクターには大きな冒険だったことだろう。 だから、新鮮な驚きと共に、そうした映像表現を選択した勇気に感服した。 確か岡田ディレクターだったと思う。 それまでスタジオで収録されるドラマでわざわざハンディーでアップを狙うという不安定な映像を意識したことがなかった。 ひょっとしたらこれまでもそうしたカット割をしていたことがあったのかもしれないが、私の記憶には焼き付けられていない。 ということは、さほどインパクトがなかったということだろう。 これに味を占めたのか、その後「篤姫」で何度か同じようなカメラワークで撮っていたが、このシーンほど印象的なものはなかった。 「篤姫」の後、いくつかのドラマを見ていてこれと同じようなカメラワークが目に付くようになった。 ただこれが全く生かされていない。 篤姫のこのシーンを意識したのかどうかは定かではないが、特にその必要がないと思われるシーンで使ったりしている。 だから、一瞬NGカットを使ったような印象を受け、そのシーン全体を台無しにしていることさえあった。 そんな作品を視るというのは、テレビ屋として部外者であっても辛いものだ。 ドラマのディレクターはバラエティーやドキュメンタリーのディレクター以上に絵作りに拘っている筈だ。 そのこだわりこそがドラマディレクターの生命線といってもよいかもしれない。 それだけに、オリジナリティーの感じられる「いい画」を見せて欲しいと思うのは私だけではないだろう。 冒険というのはうまくハマるとインパクトも強いが、往々にして失敗に終わることの方が多い。 それはこれまでの私の経験が証明している。 ただ、ディレクターたるものやっぱりこの点には徹底的に戦いを挑んで欲しいと思う。

低調な新ドラマにガマン

新年に入ってビッグネームの脚本家によるドラマがスタートしている。 TBSでは野島伸司さんの「 ラブシャッフル 」。 フジテレビでは山田太一さんの「 ありふれた奇跡 」。 主演は、TBSが玉木宏さんと香里奈さん、CXが仲間由紀恵さんという、それぞれの意欲が感じられる顔ぶれだ。 ただ、この2作、どうも好感が持てるできとはいいがたい。 その理由として、この2作に共通するいくつかの要因がある。 第1.設定に一般性がない。 「ラブシャッフル」は高級マンションの同じフロアに住む若い男女が恋人を交換するという。 その出会いが、乗り合わせたエレベーターが停電したことからいきなり始まる。 一方「ありふれた奇跡」は自殺しようとした人を救った二人の男女が、実はそれぞれ過去に自殺を考ええたことがある。 その二人と自殺未遂者(陣内孝則)がどんどん関係を深めてゆく。 ドラマなんてそんなもの、といってしまえばそれまでだが、この物語の入り口ってリアリティーがあるのだろうか??? 第2.台詞がとても唐突に展開する。 そして、その一言一言が噛み合わないというのも似ている。 極端にいってしまえば、言葉がコミュニケーションの手段になっていない。 きっとそれによってそれぞれのキャストのキャラクターを際立たせるためのものだろう。 確かに、それぞれの脚本家らしい切り口で人間の心理を描き分けているというのは理解できる。 ただ、それが果たしてストーリーの展開に効果があるかどうかは疑問だ。 どちらもありえないような奇跡的な出会いから始まるものだけに、どんどん視聴者が置き去りにされているように感じられてならない。 演出もそうした台詞回しに対して効果的な映像を作り出しているとはいえないところに、この懸念が真実味を持っていると思うのだが…。 第3.比較される番組があるということ。 「ラブシャッフル」は野島伸司版の「男女七人夏物語」が企画の元になっているようだ。 視ているだけでそんなイメージは感じられた。 この先いろいろな面で比べて語られることもあるかもしれない。 まだ初回で、いろいろの要素をつめこまなければならず、慌ただしい感じを受けたのかもしれない。 この先、野島伸司脚本ならではの人間性が描き出されることを期待しよう。 できることなら「一つ屋根の下で」のような爽やかな感動を与えてくれるドラマになると、個人的には嬉しいのだ

レベルが下がった仮装大賞

1月8日日本テレビの「 全日本仮装大賞 」を視た。 6年ほど前までこの番組の制作協力会社側の責任者として、制作現場に携わっていた番組だ。 多分7年間ほど担当していた。 その頃は年間3回の放送で、放送が終わるとすぐに地方予選が始まり、毎週土日は地方出張だったことを思い出す。 高速で流れるクレジットを見る限りでは、スタッフの顔ぶれがだいぶ若返ったようだ。 それにあわせてか、審査員も5人になり、余分な彼等の仮装もなくなっていた。 ずいぶん様変わりしたものだ。 ただ、構成作家陣は喰始さんや鈴木しゅんじさんなどなじみの名前が並んでいたのにはチョットホッとした。 それに、梶原君や三井君、松原さん、飯塚さんなど常連といわれる出場者たちも懐かしかった。 ただ、当然のことながら、みな年をとって老け込んでいたけれど。 まあ、時の流れを考えれば当然といえば当然だ。 さて、5年ぶりに番組を視ての第一印象は、作品のレベルが下がったということだ。 私が担当していた頃なら採用されることはなかっただろう作品がいくつも出ていた。 番組サイトの掲示板には「もう少し合格者が多くてもよい」という意見があった。 しかし、レベルが下がった分不合格になるグループが多くなるというのは致し方ないことだ。 それより、満点を取ったグループが少ないということにレベルの低下が表れていると見たほうがよいのではないか。 仮装大賞は、体を使って「何か」に見えるようにすることが基準だ。 だから、人間に仮装するとか、装置や背景などを動かすだけというのは予選段階からもれていた。 それが今回はいくつかそうした作品が登場していた。 制作スタッフの若返りに合わせて、基準も変わったのかもしれない。 それと、以前ほど作品の完成度や演技に番組からの指導が少なくなっているのではないか。 セットや背景などの作りが荒い部分が目立った。 また、演技にしても無駄な動きがあった作品もあった。 もっと動きを細かく指導すればもっとよい作品になるだろうと思われるものもいくつかあった。 私が参加していた頃は、本戦出場が決まってからが最後の追い込みで、演技内容について細部まで指導していった。 それはエキセントリックなほどだった。 地方の出場者の場合、その練習している場所まで行っていたのだが、今回の作品を見る限り、そこまでの完成度を求めた作品は感じられなかった。 これも

伝統が息づく時代劇に期待

1月5日にテレビ東京の「 幻十郎必殺剣 」を視た。 北大路欣也さんの、久々に時代劇の王道を行く作品だ。 死んだことになっている元南町奉行所の同心が、正義を貫き悪と戦うというストーリーだ。 その主人公の「死神幻十郎」を北大路欣也さんが演じている。 番組サイトでは本格痛快娯楽時代劇と謳っているが、どうもそれには肯けない。 死神幻十郎の活躍はけっして痛快ではないし、一概に娯楽作品ともいいかねる。 主人公は死神と自称しているくらいだから、黄門様や遠山の金さんのようにバリバリ問題を解決させてゆくわけではない。 松平定信の密命を帯びて悪を退治する過程は終始暗く、重い空気の中で展開される。 番組を通して、主人公幻十は終始寡黙だ。 それはちょうど、同じ北大路欣也さんの演じた『子連れ狼』の拝一刀に通じる。 しかし、番組終盤の立ち回りでバッサバッサと悪人を斬って捨てるところはさすが!と唸らされる。 役者として生まれ育った、時代劇全盛時代の東映が作り上げた、流れるような、それでいて迫力ある立ち回りだ。 それに、父であり、御大と呼ばれた市川歌右衛門譲りの血もあるのだろうか。 本当に刀が切れそうである。 昨日今日時代劇に出演する俳優とは一味も二味も違う。 刀を振るう一挙手一投足に、そして悪役を斬るときの呼吸までにも北大路欣也ならではの美学があった。 それは、以前幻滅した田村正和さんの「 忠臣蔵 音無しの剣 」とは大違いだった。 「篤姫」の勝海舟役を除いて現代劇での活躍が目立つ感がある北大路さんの本領が発揮された番組だ。 ただ出演者たちの設定が主人公同様難しいので、そのあたりがうまく描けるかどうかが心配ではある。 そんな中で、幻十郎に夫を斬られた志乃を演じる戸田奈穂さんが、綺麗なだけでなく、深みのある演技で魅了してくれている。 どうやらこの番組の成否は脚本や演出の仕事具合にかかっているようだ。 ともかく毎週月曜日の夜7時、ネプリーグを視るのはしばらくお休みすることになりそうだ。 一方、テレビ朝日の「 必殺仕事人2009 」も捨てがたい魅力がある番組だ。 もう設定やら、最後の仕事のシーンでの奇抜な殺人方法はどうでもよいが、東山紀之さんと和久井映見さんに注目したい。 中村主水がもうご高齢で先がないためバトンタッチのシリーズということになるのだろうか。 婿養子で、姑と妻に虐げられるところから、奉行所

テレビニュースが露呈する日本語力低下

麻生首相が「未曾有」を「みぞゆう」といったといって、その国語力に疑問の声が上がっている。 まあそれが即支持率の低下につながっているとは考えづらいが、弱り目に祟り目ということだろうか。 いまだに、いろいろな場面で取り上げられている。 その声はメディアばかりでなく、議員仲間からも出ているという。 まあ、今更政治家の教養のなさを笑っても仕方がない。 問題にしたいのはテレビニュースの原稿だ。 最近、目を覆いたくなるようなことがあった。 今、自民党執行部の方針に造反し、離党騒ぎまで起こしている渡辺喜美氏の発言についてだ。 確か、TBSの夕方のニュースだったと思う。 氏の発言で、「○○に堕するつもりはない」というのがあった。 この発言ビデオでは、なんとスーパーで「○○を出すつもりはない」となっていた。 これでは発言内容まで変えてしまっていることになる。 「て、に、を、は」まで変えてしまったのだから大問題だ。 「堕す」は堕落というように、落ちるという意味。 つまり、氏の発言では、自分をそこまで落としこめるつもりはないという政治姿勢を主張していた。 それが「○○を出すつもりはない」では、前後の発言内容とも繋がらない。 ことによっては「離党届を出すつもりはない」と、氏の発言意図と逆のこととして捉えられる可能性すらでてくる。 そうなると虚偽報道だ。 単に「○○に堕す」という言葉を知らなかったでは済まされない。 ひょっとしたらこの記者、編集室で渡辺氏の「て、に、を、は」の使い方が間違っているなんてスタッフといっていたのではないか。 これほど大きな間違いの例まで行かないレベルでの誤用や言葉の間違いは頻繁にある。 全ての局のほぼ全てのキャスターに共通する傾向がある。 それは、ニュース原稿を読むスピードが早いのだ。 だから、原稿を読んでいてよく突っかかる。 聴覚に障害がある人や、目の不自由な人のことを考えたことがあるのだろうか。 耳から入る情報を大切にするというのはニュースの基本のはずだ。 もう少しゆっくり読めないものだろうか。 決まった時間に一つでも多くのニュースを詰めこもうとしているというのなら、局として再考する必要があるのではないか。 レベルの低さは放送記者が作る原稿の文章力にも表れている。 その一例が、一つの文が長いとい

笑われるタレントの時代がまたやってきた

「 クイズ・ヘキサゴンⅡ 」が絶好調のようだ。 それは視聴率の面からだけでなく、番組の勢いという面、制作サイドと出演者の疎通という面なども含めてのことだ。 それは島田紳助さんがヘキサゴンファミリーと、主なレギュラー出演者たちを呼ぶなどからしても、よい空気感が伝わってくる。 少なくとも今のところは出演者それぞれが存在感を得ている。 その正月特番で、この番組から誕生した羞恥心が音楽活動を休止することになった。 真に2008年を疾風のごとく日本中を席巻し、1年足らずの間で音楽界に一つの足跡を残す活動をしたといえるだろう。 番組が生んだ副産物とはいえ、その勢いはたいしたものだった。 この番組が生み出した『オバカタレント』は芸能界に新たな1ジャンルを築いたことも見逃せない。 今までクイズ番組といえばANBの「 クイズ雑学王 」のように正解率の高いに人にスポットライトが当たるものだった。 しかし、ヘキサゴンではタレントたちの無知さを笑いの種とすることでオリジナリティーを勝ち得ている。 ただ、羞恥心をはじめPaboのメンバーたち、残念ながらオバカのほかにこれといったキャラクターがないようで、他の番組に出てもまったくおもしろくない。 紅白歌合戦でも四文字熟語などいわされていたが、会場から笑いを誘うことはなかった。 やはり島田紳助さんの父親の愛すら感じさせつつの突込みがあってこそ生かされているということだろう。 そんなブームに肖ろうというのだろうか、日本テレビが1月3日に「 おとなの学力検定スペシャル 小学校教科書クイズ!! 」なる番組を放送していたが、これが惨憺たるでき。 単なるパクリで、局の姿勢を疑いたくなるような番組だった。 ヘキサゴンファミリーのメンバーも出演していたが、まったく持ち味が生かされていなかった。 こんな番組を作っていたら、日本テレビはこの先もジリ貧状態が続くに違いない。 ところで、ヘキサゴンファミリーを見ていて思い出すことがある。 だいぶ昔、業界では大御所といわれていた先輩から教えられた。 それは、文化や流行はおよそ18年毎に繰り返すということだ。 そんな面から考えると、確かにオバカタレントといわれる人たちが人気を獲得しているのも理解できる。 彼らはけして視聴者を笑わせているのではなく、笑われるタレントだ。 18年前を振り返ると、確かに同じようなタレントが登場し

「タビうた」というチャレンジ

1月2日11:20からNHKで「タビうた」という番組を視た。 「タビ=旅」とタイトルされているものの、これはいわゆる旅番組ではない。 岩崎宏美さんと平原綾香さんが長崎の町のそこかしこで歌を歌うという番組だ。 そして同行した女性写真家の撮影した写真がそれぞれのシーンを締めくくるという構成だった。 だから、絶景を見て、高級旅館で温泉につかり、地元の味に舌鼓を打ちながら、騒がしくとってつけたような感嘆詞連発なんていうシーンはない。 せいぜい、中華街でちゃんぽんと皿うどんを食べるくらい。 そこでの話題も、平原が岩崎を男っぽい性格で驚いた、というような話だ。 けっして、視聴者に旅する心を喚起し、誘発させる情報を並べ立てるものではない。 それは、私の中では音楽をベースにしたドキュメンタリーとして、そして良質の紀行文を読むような充実感をもたらしてくれた。 番組の中で歌われる二人の持ち歌は、長崎のいくつかの場所で歌われるということで、スタジオやホールで歌われるのとは違った生命を与えられていた。 その、聴く人の心が心地よい潤いで満たされるような歌の世界は、きっと作詞家、作曲家でさえも想定していなかったに違いない。 例えば… 平原の父は長崎の出身だそうで、彼の幼稚園時代の先生のところを平原が訪ねる。 100歳を過ぎて今も現役の園長先生が、平原の父に伝えてほしいと人生の心構えを語る言葉。 その言葉を自分に語られたものとして受け止め、涙するその娘。 そしてその後に長崎美術館の屋上庭園から港を背景にして歌われた「カンパニュラの恋」は、歌詞が本来表現している恋とは違った、もっと深い愛情を感じさせる効果を生み出していた。 また、史跡としての歴史を刻んだ料亭で歌われた岩崎宏美の「思秋期」。 『青春は忘れもの 過ぎてから気がつく』という阿久悠先生の詞と、50歳という節目にある岩崎宏美のこれまでの道のりや今の心情さえも感じさせるように心に響いた。 時を刻んだ建物が、普通の音楽番組のセットでは作れない見事な舞台となって、その詞の世界を広げていた。 番組の最後、二人が平和記念館の原爆で死んでいった犠牲者を象徴する水盤で「Jupiter」をデュエットした。 夜の水盤に浮かぶ7万個のあかりを前に歌われたその歌は、あの山古志村の被災者たちを復興に奮い立たせたものとは明らかに違った印象を私に与えた。 それは、あの

案の定の紅白歌合戦

多分15年以上ぶりに日本で新年を迎えた。 いつもバンコクで新年を迎えていたので、寒い新年というのは本当に久しぶりだ。 バンコクではいろいろなところに出没して、カウントダウンイベントに年甲斐もなく参加していた。 いつも夜通し飲み続けていたのが、今は懐かしい。 というわけで、大晦日は本当に久々にNHKの「紅白歌合戦」を視た。 どうも、視聴率の低下に歯止めがかからないらしい。 新聞や民放などによると、NHKは視聴率獲得に躍起になっているそうだ。 確か一昨年はとうとう40%を割ったと大きく報じられていた。 だが、これほどテレビ離れが進む中、それだけの数字を記録するというのは驚異的だと思う。 だって、15年前20%以上だった野球がシングルになる時代。 20%とったらバケモノとまでいわれるようになっているのだ。 テレビの全体的な趨勢を考えれば、今でも40%というのはその当時の60%くらいの価値は十分あると思うのだが…。 ところが、新聞や民放が指摘しているNHKの焦りというのは本当のようだ。 それは出場歌手の顔ぶれを見れば一目瞭然。 何とか年齢性別に関係なくチャンネルをあわさせようという意図が見え見えだ。 それに輪をかけて、構成も演出も統一性が全くないのもそのプレッシャーによる影響だろう。 あんなに紅組と白組が互いに助け合っているのなら、何が歌合戦かといいたくなる。 それでいてどっちが勝ったと喜ばれたところで真実味もあったものではない。 それでいて強引に今年のテーマと話題を結び付けようとするからおもしろくもなんともない。 それにわけの分からない出演者が賑やかしに出てくるにいたってはまったく時間の無駄以外ではない。 そんな時間があるのなら、歌を1コーラス半にしないでもっとジックリ聞かせて欲しいと思うのは私だけだろうか。 制作担当者は、もう一度紅白歌合戦の原点に戻って向き合うべきだろう。 歌合戦にこだわるなら、シンプルに1対戦ごとにどっちが勝ったくらいの勝負性を持たしてもよいかもしれない。 無責任にいわせてもらえば、構成や演出、カメラ、照明に至まで全て紅白に分けてみたらどうだろう。 出演者も含め全員が「One for All, All for One」の空気の中でより良い物を作り出す努力をする。 徹底的に紅白の違いを際立たせれば、対戦色は強くなり緊張感も高まる。 今年の藤あや子の歌に