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我が家の大事件!大丈夫か?!テレビ

久々のブログ更新だ。  年齢を重ねて、ブログというのが億劫になったこともある。 だが、それ以上に、ここで取り上げたいような番組に出会わなかったのが最大の理由。 それは当然と言えば当然で、ここ数年、スポーツ中継とごく一部のドキュメンタリー以外の番組はほとんど視ていない。 スポーツ中継が下手になったということを書いてしまったし、 ぜひ見たいと思う番組は一週間で5本もない状態では、書くネタがないのも致し方ない。 今日、2014年の大晦日。 我が家で考えられないことが起こった。 なんと まだ一度もテレビのスイッチが入っていない。 実際には30日の夜からだから、優に24時間以上テレビが写っていないことになっている。 今日はもうテレビをつけたくなるような番組がないから、このままおやすみなさいとなるに違いない。 我が家では、どんな時でも、テレビがついているのは当たり前。 どんなにつまらない番組ばかりとしても、テレビは点いていたのだ。 音は生活ノイズと化し、画面は眼に映る景色の一部のように、私が家にいる間はスイッチはONになっていた。 それがついに究極の事態に陥ってしまった。 見たい番組がない。 地上波はもちろん、BSでも…。 こんな日が来るとは思ってもいなかった。 私にとって、テレビが死んだ日になった。 これは大ショックなことだ。 なぜこんなことになったのだろう。 番組が面白くない、見たいと思わない、レベルが低い…。 その責任は誰にあるのだろう。 そこのところを、この正月休みにじっくりと考えてみよう。 次回のブログのテーマとなるかも知れない。 ともあれ、明日元旦は実業団駅伝。 2日と3日は箱根駅伝があるから、我が家のテレビもすぐに生き返ってくれるだろう。 でも、きっと実業団駅伝はTBSの中継の下手さに、またイライラが募るに違いないな。

革命が描き出した時の流れ

チュニジアで燃え上がった革命の火はエジプトの政権を打倒。 今、リビアで火勢を強め、紅海を超えてアラビア半島のバーレーンへも飛び火した。 これらの激動はFacebookなどインターネットが火をつけたという。 独裁政権が君臨している国々の指導者たちは戦々恐々としているに違いない。 現在50歳位の年齢層以上の人たちはこれと似た世界的な変動を経験している。 東欧諸国の共産党政権を崩壊させた「1989年革命」だ。 6月にポーランドで始まった民主化は、ベルリンの壁を崩壊させ、12月のルーマニア革命へと続いた。 わずか6ヶ月で東欧諸国の民衆の蜂起は共産主義を打倒した。 そして、民主化の動きは1992年ソビエト連邦の崩壊へと続いた。 この20世紀を締めくくる社会変動のときは、テレビが大きな影響を与えた。 当時スタートしていた衛星中継は、民衆蜂起の情報をリアルタイムで世界に伝えた。 その迫真の映像が共産党国家が連鎖的に崩壊する原動力となった。 特に、ルーマニア革命では救国戦線評議会がいち早く放送局を掌握。 「国営ルーマニア放送」は「自由ルーマニア放送」となり、戦況を世界へ発信し続けた。 それ故、放送局周辺はブカレストの市街戦で最大の激戦地となった。 テレビが持つ力を顕著に表す歴史的な社会変動だった。 今回の革命で象徴的なのは、インターネットがテレビを押しのけて大きな連帯を生み出したことだ。 それは衰退の道を歩むテレビの今を象徴するようだ。 1989年革命のとき、テレビは同時性で新聞を凌駕した。 今回は、インターネットが行動を促す連鎖の原動力となってテレビのジャーナリズムに引導を渡した。 客観的事実を報道するというメディアの、ある意味、限界を露呈させた。 私は1992年ルーマニアのブカレストに取材で訪れた。 革命から3年近く経つというのに、放送局周辺にはまだ無数の弾痕が残っていた。 それは闘いの激しさと共に、革命後の復興の道の険しさを表していた。 町にあるれるストリートチルドレン。 ホームレスが住み着いた「国民の館」。 物資の不足。 テレビは「革命後」を伝える努力を怠った。 これと同じ政治的混乱が革命後の国々にも起こる可能性がある。 そこで警戒しなければいけないのはイスラム過激派や原理主義の勢力の台頭だ。 タリバ...

テレビの映画放送での暴挙

BS朝日が年末特番として29日と30日に黒澤明作品を放送した。 「まあだだよ」と「乱」。 黒澤明がメガホンを取った最後の作品と、自ら集大成と位置づけた大作だ。 テレビで映画の放送を視ていて、ずっと思っていたことがある。 それは途中で入るCM。 あれはどうしても止められないのだろうか。 民放で放送するのだからCMは不可欠。 それは十二分に承知している。 でも、サッカー中継ではハーフタイムに集中して流すなど工夫しているではないか。 映画の放送に関しても、番組の構成を再考する余地はあるはずだ。 まして、BSでの放送。 地上波に比べれば、いくらでも融通は利くと思うのだが…。 そうした工夫をすることがBSの存在価値を主張し、視聴者獲得にも通じると思う。 もう1点。 今回の放送を視ていて気がついたこと。 それは、CMに入る際の映像処理について。 実はこれはとても大きな問題だ。 今回の放送では(いつもそうしているのかもしれないが…) CMに入る前に黒にフェードアウトしていた。 オリジナルではそうした演出がされていないところでこんな処理がされている。 これは著作権侵害だ。 CMを入れることだって、間違いなく著作権を侵害している。 まあ、これは民放の宿命として百歩譲るとしよう。 きっと監督協会からの了解も取り付けているのだろう。 けれど、黒にフェードアウトするのは作品の価値に著しく影響を与えることにななる。 黒澤監督が生きていらしたらこうした暴挙を認めたかどうか。 制作担当者は単に本編とCMの区切り程度にし考えていないのだろう。 しかし、映像表現ではその処理が大きな意味を持つということを知るべきだ。 今回の例では黒澤作品独特のカットのテンポを損なわせていた。 私が現役時代、秋元近史という私の師から一つの命題を与えられたことがある。 それはステージ演出に関してのことだが、 「暗転は場面転換のためだけにあるのではない」 というものだった。 私にとってこのことは、今でも解き明かせない宿題として今も心に強く残っている。 同様に映像において黒へのフェードアウトはシーンチェンジさせるためだけの手段ではないはずだ。 ある意味、演出の根幹を成し、作品の優劣を左右することを、安易に第三者が行ってよいはずはない。 ...

そろそろ再開しようかな

しばらく休んでいることは自覚していたけれど、8ヶ月も経ってしまっていた。 休むことにしたのは自分なりに理由があった。 その1.コメントしようと思うほどの番組がなかった。 その2.ブログを書くために番組を見るようになった。そのため視点が制作者ではなく批評家のそれになりつつあることに気がついた。 今テレビ界が直面している閉塞的状況は歯止めがかからない。 制作費の削減が最優先され、3ヶ月ごとに新番組のPR目的のスペシャル番組が編成されるのは当たり前のようになっている。 出演者の顔ぶれも変わりなく、そこに演出が介在しているとは思えないタレントたちのキャラクター頼りの番組ばかり。 これではレビューの書きようがなかった。 そうした中で何とかこのブログ維持のために何か書こうと思うと、どうしても批評者の視点に立たなければならなくなった。 それは私が書き記すべきものではないと感じていた。 再開しようと思ったとはいうものの、残念ながら番組のクォリティーが上がってきたというわけではない。 ただ、本来の自分の視点から番組を視ることができるようになってきた。 そんな淡い自覚があるからに他ならない。 どれほどの人が私の文章に目を通してくれているか分からない。 しかし、テレビを愛し、テレビの世界に生きてきた男には、 今も自分の崩壊点に向けて突き進んでいるテレビの「今」を見つめる義務があると思うのだ。

辟易しているのは私だけ?

新年のスペシャル番組シーズンも終盤に入り、新番組のラインアップも見えてきた。 そうなるとゴールデン枠の番組PRが喧しくなる。 毎回の改編期の恒例とはいえ、テレビマンの見識が疑われる時期がやってきている。 以前トーク番組(コーナー)の出演者は番組や映画のPRのためにやってくるということを書いた。 それが昨今はこのPRが一層エスカレートしていて、ニュースでもPRのために時間を割いたりしている。 いつもはない「注目の人」なんていうコーナーを作り、内容は番宣だ。 こうした傾向はNHKで特に顕著で、ドギツサさえ感じる。 年末からは大河ドラマ「 龍馬伝 」だらけの印象だ。 1月2日の「 プロフェッショナル 」で坂本龍馬をとりあげていたのには呆れた。 福山正治まで登場するのでは、その魂胆は番宣以外にない。 以前、NHKで「ドライビング・ミス・デイジー」という芝居に出演する仲代達也さんの日常を見つめた番組があった。 それは年齢と共に台詞覚えが悪くなった老俳優が役作りに取り組む生の姿があった。 年老いた名俳優の苦闘と葛藤が描き出された秀作だった。 それと、この回の「プロフェッショナル」を同列にして評価するわけにはいかない。 また、1月7日には「 あなたが主役 50ボイス 」という番組では「『龍馬伝』のスタッフがこだわっていること」というテーマで番組を作っていた。 いつもは2つの質問で構成されているのに、この日は1テーマ。 30分まるまる龍馬伝のPRに徹した。 なりふり構わぬこの姿勢、厚顔無恥の謗りを受けても仕方がないだろう。 こうした番組が、電波の無駄遣いだという意識はないのだろうか。 「公共放送としての使命」。 何かというとNHKから発せられるこのお題目はどこにいってしまったのだろう。 私が「11PM」のADだった頃。 30年以上も前のことだが、その頃他の番組担当者や広報部が何とかPRさせてくれといってきたことがあった。 「1分でも30秒でもいいからお願いします」というのが彼らの口から出る言葉だった。 担当者は「生だから保証はできないよ」という条件付でシブシブOKしたものだった。 当然この言葉どおり、番組が押してくればカット候補の1番手となる。 番組の出演者を出すから、ということでPRを依頼してくるケースも稀にあった。 そんなときでも、せめて1分か2分というのが通常だった。 もちろ...

自ら閉ざす可能性

「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」 桂歌丸師匠がNHKのスタジオパークで日本テレビの長寿番組「笑点」について語っていた。 数年前、局側から1時間番組するか、30分番組にするかと打診されたという。 出演者たちの一致した選択は30分だった。 そして冒頭の言葉につながる。 「笑点」の出演者たちは高齢化し、人気芸人の出演も少ない。 内容もマンネリといわれてもおかしくない。 そんな「笑点」だが、長寿なだけでなく今も高視聴率を保っている。 ある意味お化け番組だ。 その理由の一端を、芸の世界に生き、客の空気を読みきった落語家たちはしっかりとつかんでいたということだろう。 それに反するのが今のスペシャル期間の長時間番組化の傾向だ。 3時間ドラマなんていうのは当たり前。 ところが、大作という謳い文句のわりに薄っぺらな内容にガッカリさせられるのが常だ。 そもそも今のテレビマンたちは、3時間を超えるドラマがテレビというメディアに適合していると思っているのだろうか。 映画でさえ3時間なんていう作品はほとんどないというのに…。 コレデモカとばかりにCMが入るのに、実質2時間以上の番組に視る側のテンションが保たれるはずもない。 一方バラエティーもまったく新鮮味がない。 4時間以上も若い人気タレントたちのワンパターンのバカ騒ぎを見せられる。 そうした、視聴者がもう辟易している演出手法をNHKを含む各局で繰り返している。 それはある意味タレントの浪費でしかない。 そうしてどこにでも顔を出すタレントたちは、歌丸師匠が言った「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」の対極にある。 テレビは自らの可能性を放棄し、タレントを浪費してまでしてなぜスペシャルにこだわるのか。 あくまで邪推だが、昨今の春夏秋冬の期末期首スペシャル枠の長時間化の狙いは制作費の削減だろう。 そうした経営戦略によって、つまらない番組を編成するテレビ局。 それを平然と受け入れるテレビマンたちに疑問を感じるのは私だけだろうか。 今のテレビが視聴者の求めるところと相反した番組を平然と作っていることに危惧をいただいている。 テレビというメディアがそのメディアの特性を放棄しているように思えてならない。 以前私が現役だった頃、ある経営者が言った言葉がある。 「現行番組の制作費の削減はしない。でも、新番組...

制作会社が直面する厳しい現実

今、番組制作会社にかつてないほどの危機が迫っている。 それはテレビの破綻にも通じかねない危険性を含んでいる。 その脅威は、実は制作会社とテレビ局との関係が生み出しているとしか考えられない。 根本的な原因はテレビ局にある。 ほとんど全てのテレビ局は、企画に関して表向き門戸を開放している。 編成局が中心となって、良い企画があればどんどん採用すると明言しているのだ。 ところが、現実は制作会社にとってそれ程恵まれたものではない。 仮に企画書を受け取ってくれたとしても、読んではくれないという。 制作局のプロデューサーにせよ、編成局にせよ、企画を受け付けるのは実績のある制作会社だけだというのだ。 だから中小の制作会社は、何とかして局のプロデューサーと人的交流を作ろうとする。 その第一歩はADの派遣だ。 私達がテレビに入った頃とは比較にならないほど人気がなくなっているAD。 そんな今でも消耗品であるということは変わらない。 1週間と持たずに辞めて行くなんていうことはさほど珍しいことではない。 常に人材不足、というより人員不足。 そこにせっせと人を供給することで、プロデューサーとの関係を構築しようというのだ。 少しでも恩を売る形になれば番組制作のチャンスが生まれるかもしれない。 ようやく制作のチャンスが生まれると、AD派遣の投資分も取り返そうと思って利潤追求を狙うから、余計品質が下がる。 ところが局の方は制作会社を出入りの業者程にも見ていない。 だから制作費は出さないくせに要求だけは山ほど出してくる。 この要求を呑まなければもう次のチャンスはないから、赤字覚悟で現場をころがすしかない。 そうしたことから倒産する制作会社が5年ほど前からどんどん増えているという。 もう一つ大きな脅威となっているのがプロダクションの制作部門や関連会社の進出だ。 吉本興業や渡辺プロ、ホリプロなど大手のプロダクションが所属する人気タレントの出演を条件にした番組を企画し、制作するのだ。 その分かりやすい例は、CXで渡辺プロが制作しているの「 ウチくる!? 」だ。 中山秀征はじめ、青木さやか、ビビる大木と渡辺プロのタレントが顔を連ねる。 制作力や演出力はさておき、実績のあるタレントや今ノッテいる人気者が出演するのだから、それなりのクォリティーは確保できる。 テレビ局にとってはとっても安心できる番組となるわけだ。...

続・最近のテレビは面白くないという声に

以前に触れた「最近のテレビは面白くない」というブログについて、もう1点、最も大切なことを書くのを控えていた。 それは、テレビがつまらなくなっている原因は視聴者にもあるということだ。 テレビの歴史で、主婦連などの団体からの圧力に怯えながら番組を作っているという面を無視することはできない。 テレビが表現の自由を楯にそうした圧力に抗っても、スポンサーがその圧力に屈する。 昭和40年代から50年代にかけて「低俗番組」というレッテルを貼られて消えていった番組がいくつあったことか。 それが、次第に斬新な企画は採用されないようになり、「常識」の枠を外れた演出は今や処分の対象にさえなるようになっている。 そうしたテレビ局の姿勢は『視聴者サービス』という部署のポジションの変転が明確に語っている。 私がテレビの世界に入った頃、視聴者からの問合せや、苦情・クレームの電話は番組のデスクにかかってきた。 その後、視聴者サービスという名のクレームや問合せを受付ける部署ができた。 そこは定年を目前にした人たちの最後の働き場所だった。 視聴者から寄せられた電話を受け付けて、その内容を担当部署にまわすのが主な仕事だった。 今は担当部署を経ることなく、即役員会にかけられるようになっている局もある。 厳しい苦情やクレームがついた番組のスタッフは担当番組を変えられたり、配置転換など処分を課せられることも少なくない。 視聴者の声にビクビクしながら番組を作っているのがテレビの現状だ。 その証しに今はもう「低俗番組」なんていう言葉が新聞などで躍ることはない。 そしてそれと引換えに、テレビをベースにした大衆文化は盛り上がりを失い、とても常識的なお笑いタレントばかりが登場してくるようになったといえなくもない。 消費者団体はもとより、日本人はいろいろなものをジャンル分けしてレッテルをつけるのが好きだ。 「低俗番組」というのもその一つだ。 そのジャンルに括られた作品がどんなに優れた表現をしていても、そこに出演する役者がどれほど素晴らしい演技をしても、正当には評価されない。 先日、映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞した。 この作品の監督、滝田洋二郎氏はピンク映画出身だ。 滝田監督は蛍雪次郎さんと組んで「痴漢電車シリーズ」をはじめ、コミカルでユーモラスなピンク映画を数々世に出していた。 軽妙で洒脱なタッチの演...

最近のテレビは面白くないという声に

「最近のテレビは面白くない」というブログに多くの注目が集まっているようだ。 私も、偶然そのサイトを訪れた。 残念ながら、批判の内容も具体性は乏しく、評価する目もしっかりした規準があるようには思えなかった。 それと、2チャンネルで展開されているような記事とコメントのやり取りなのもちょっとガッカリした。 テレビを見なくてもYou Tubeで視ればよいという意見にはガッカリを通り越した失望を感じた。 テレビとYou Tubeとは全く別物だと思うのだが…。 もう少し内容が充実していたら…というのが率直な感想。 批判するだけでなく、「テレビを面白くするにはどうしたらよいか」という見る側からの建設的な意見交換の場であって欲しいと思ってしまった。 そんな中で視聴者からテレビ局を突き動かすようなアイデアが出てくる可能性だってあるのだから。 そして、そうした中でテレビが良い形に変革していったらそれにこしたことはない。 ところで、テレビが面白くないのは今だけだろうか。 テレビの世界に憧れ、そこで30年に亘って生きた立場からいうと、それは今だけのことではない。 過去の名作やテレビの世界のエポックメーキングとなった番組でさえ、本当に面白かったのかどうか疑問だ。 仮にそれが面白かったとしても、それは毎日24時間ひっきりなしに流れる番組のほんの一つか二つでしかないはずだ。 年間に5本も面白い番組に出会えれば儲けものかもしれない。 テレビというのはそんなもののように思うのだがいかがだろうか。 はっきりいって、昔の番組は面白かったと思うのは単なる郷愁ではないか。 さもなければ、その頃は見る目が無いほど幼かったということではないだろうか。 試しに、そうした番組を今もう一度見直して見ると良い。 きっとその頃視て感じたほど面白くは感じないはずだ。 ただ、今の技術の発展がテレビのクォリティーに必ずしも寄与していないというのは実感できる。 以前、日本テレビで「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 」を作っていた菅賢治さん(現在制作局次長らしい)がいっていた言葉を思い出す。 彼はテレビのデジタル化が決まった頃、私に「ハイビジョンでバラエティーなんか撮る気になりません」といっていた。 16:9という画角の中でのバラエティーはそれまでの作りでは笑えない。 それと、笑いは広い画面の中では成立しにくいという現実も...

テレビって誰のためにあるのだろう

テレビは誰のためにあるのかという根本的なことを考えた人がいるだろか。 NHKのような公共放送(とNHKの人はよくいいます)と民放とではその答えは異なる。 ただ、普通考えられるのは番組にお金を出している人のため、というのが分かりやすい回答だろう。 NHKなら受信料を払っている人。 民放なら番組のスポンサーということになる。 だから、テレビ事業という面から見て極端な言い方をすれば、民放は視る人のことなど考える必要はない。 スポンサーの喜ぶ番組だけ流せばよいということになる。 私たちはそれが気に入らなければ、視なければよい。 スポンサーは自社の製品なりを広告するわけで、それには多くの人に見てもらわなければ効果が薄い。 だから、テレビ局という専門家に多くの人が見たがるような番組を作ってもらい、その代償として広告料を払っているわけだ。 これが、NHKとなると話は違う。 NHKの収入を負担しているのは私たちである。 厳密にいえば、受信料を払っている人(私はきっちり払っています)である。 だから本当は視聴率獲得に躍起となるのは、本当ならNHKであるべきなのだ。 少なくとも、視聴率が低いということは視聴者の満足を満たしていないということに通じる。 それなのに、良質の番組を製作しているから視聴率は低くても仕方がないなんていう隠れ蓑を言い訳につかったりする。 それに、視聴率獲得に躍起になるよりは、良質の番組を作れなどということをノタマウ消費者団体があるのもおかしい。 その昔、低俗番組といって数々の番組を葬ってきた人たちだ。 それはともかく、ことNHKに限っては本当はそんなことをいっていてはいけないのだ。 どんなに良質の番組を作っても、それが視聴率をとらなければNHKの使命は完遂されたとはいえない。 いってみれば、今の麻生政権と同じことだ。 ご本人が、どんなに国民のための政策を行っているといっても支持率が下がってゆくのであれば、それは国民がその政策を認めていないということだ。 でも、彼らはまちがっても、良い政策を行っているのだから支持率が下がるのは仕方がないとはいわない。 今の閣僚たちは支持率がいくら下がっても、5年先、10年先の日本がより良い国になるよう数々の政策を講じている(と思いたい)。 そして、それが一日も早く国民に認められて支持率が上がることを期待しているに違いない。 私はテレ...
ブログを始めることにしました オイルショックの嵐が吹き荒れていた1976年。 ちょうど今年のように社会は大きく揺れていた。 就職口がなく、内定取り消しも相次いでいた。 「就職浪人」なんていうことばも生まれた。 当然私も就職などできるわけがなく、どうにか日本テレビにアルバイトに毛が生えたような立場でもぐりこんだ。 それから30年に亘り、数多くのテレビ番組の制作に携わった。 その間、自分の素質・能力を考えれば十分すぎる仕事をこなしてきたものだと思う。 2004年に20年以上勤めた日本テレビの関連会社を退職。 約5年タイのバンコクにベースを移してタイの工芸品レベルの高級商品を日本に紹介してきた。 久々に日本に戻り、テレビを視るにつけ、番組があまりにつまらなくなっているのに驚いた。 時代の流れといってしまえばそれまでだが、同時にテレビの末期症状というような感じを抑えることができなかった。 それはなぜなんだろう。 インターネットの隆盛。 デジタル化への移行。 そんなテレビを取り巻く世界の変動も無視できないかもしれない。 ただそれ以上の何かがあるのではないか…。 そんな思いを評論家的ではなく、現場を生きた者の目でテレビを視た感想を書き綴って行こうと思う。 いわば「テレビ徒然草」のようなものになればよいと思う。