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12月, 2008の投稿を表示しています

三流の公開放送に堕したレコ大

日本レコード大賞を視た。 新国立劇場から4時間半の生放送。 EXILEがレコード大賞、アメリカ人の演歌歌手ジェロが最優秀新人賞に輝いた。 涙を流すジェロの受賞は印象的だった。 しかし、制作者からみるとなんともお粗末な内容だった。 プロデュース、構成、演出、照明、美術、音声どれをとっても低レベル。 これがプロが作る音楽祭かと見る目を疑う賛嘆たるものだった。 5人も配置した司会者たちの役割分担は不明確。 堺正章さんや上戸彩さん、松下奈緒さんなどタレントの司会陣はともかく、TBSのアナウンサーのポジションはどうなのか? 何のためにいたのか分けが分からない。 また、50周年ということで過去の受賞者たちの映像を流すというのも、劇場の観客はこの間どうしているのだろうと心配になってしまった。 等など、一つひとつ取り上げることがバカバカしいほど。 今や、テレビはこうした音楽イベントの演出もできなくなってしまったのかと悲観的になってしまう。 私がテレビの世界に入った頃。 日本テレビには井原高忠、秋元近史といったショーの演出に長けた人たちがいた。 その後を継いで、白井荘也、吉岡正敏といった音楽に通じた、日本を代表する演出家が音楽祭などの演出を担当していた。 他局では塚田茂さん、長束博さん、久世光彦さん、疋田拓さんなどの名演出家が数々の音楽祭を仕切っていた。 それぞれが、華やかさを競いながら、受賞までの緊張のドキュメントを私たちの前に見せてくれていた。 そこには劇場を使用する意味があった。 ところが、今回のレコード大賞はその意味すら見出せなかった。 こんな作りなら、別にスタジオをいくつか使ったらもっと見易かったろうに…と思う。 この時期はもう10年以上もバンコクにいることが当たり前になっていたので、久々に視たレコ大だった。 それが、こんな番組作りではその存在意味すらわからなくなってしまう。 音楽業界の歴史と伝統を刻んできたレコ大が形骸化の道を歩んでいるのは明白。 それがこのような演出で番組化されるというのでは、その息の根さえも止めかねない。 来年の番組担当者は、もっと真剣にアメリカのアカデミー賞の受賞番組を見て勉強したほうがよいのではないか。 自己満足だけの番組を見させられるのは御免蒙りたいものだ。 こんなことだと、今夜の紅白歌合戦も心配だな~

戦争モード一色の歳の暮れ

一昔前なら、師走の声が聞こえるとテレビは「忠臣蔵」が定番だった。 必ずどこかの局が豪華キャスト総出演を謳い文句に「忠臣蔵」を放送していた。 ところが今年はそんな気配は全くない。 それどころか、NHKを含め全局が太平洋戦争関連の番組を編成していた。 12月8日の特番というのなら分かるのだけれど…。 そして最終的にはテレビ朝日の「肉体の門」だ。 戦後の混乱期に蠢くパンパンの話。 なぜなのだろう???? そのいくつかは視るともなしにチャンネルをあわせていたのだが、?マークが頭の中を渦巻くばかり。 どれか一つでも秀作というものがあればよかったのだけれど、そんな番組はなかった。 特に民放のドキュメンタリーの制作能力の低下は著しい感がある。 とても残念。 TBSでビートたけしさんが東条英機を演じた「 日米開戦と東条英機 」も期待はずれ。 鴨下信一演出でさえ、何でこんな番組を作ったのだろうと思わせる内容だった。 この二人の名前だけで作品のレベルを期待した私が間違っていたのだろうか(-.-)。 番組のサイトでは「戦争にいたる軍部と政府の対立と妥協のプロセスを、東条英機という人物を軸に追い、当時の日本のシステム自体が抱えていた問題、欠陥と矛盾、そして起こる日本の悲劇を描いていく。」ということだが、この一文のように思い込みのみが先走っているような番組だった。 暇をもてあましていたから良いようなものの、クリスマスイブの4時間半を返せ~っといいたくなるような番組だった。 今年は昭和恐慌以来の金融危機に襲われている。 時代状況を考えると、もっとあの戦争を捉える切り口はあるのではないかと思える。 この昭和恐慌をきっかけに軍国主義に走っていった日本。 海外侵出を歓迎し、歓喜していた国民たち。 軍部の暴走。 それらがあって、遂に歯止めが利かなくなって突入した太平洋戦争。 あまりにも今年と似すぎた世相だ。 二度とあのような過ちを犯さないために、あの時代にはなかったテレビに課せられた使命はこんな形の番組を作るのではないはずだ。 それには、以前にも紹介した「 ”ヒロシマ” あの時、原爆投下は止められた いま明らかになる悲劇の真実 」のような視点を持った番組を制作することではないのか。 なぜかとてもやりきれない。 テレビを視る気がしない。 テレビはもう「今」を見つめる目を失ってしまったのかな。

そろそろ勇者の出番では?

テレビ朝日の長寿番組「 徹子の部屋 」。 いったいいつまで続くのでしょう。 スタートしてからもうすぐ33年にもなろうとしているのだそうです。 司会の黒柳徹子さんは、日本のテレビ史を語る上で欠くことのできない人だ。 テレビの創成期から活躍され、この番組以外でも多くのテレビ史に残る番組にも出演された。 今も語り継がれるTBSの「ザ・ベストテン」や今もユニークな発想で高正解率を誇る「世界不思議発見」などユニークな企画を一層際立たせる実績を作った。 この他にも局をまたいで大きな貢献をされたことは、長く語り継がれるべき偉業だ。 ただ、ここ数年「徹子の部屋」の衰えぶりは目を覆うほど、過去のきらめきを失っている。 その大きな要因は、残念ながら徹子さんのお年だろう。 もう75歳、四分の三世紀も生きていることになる。 特色のひとつであるあの早口は、入れ歯のせいか、滑舌を云々できるほどのレベルではなく、もはや聞きづらい。 加えて、ネタ帳から次の話題を探しているのだろう、「あの、ほんとに」が連発される。 そして最も衰えを感じざるを得ないのは、ゲストの話を聞かないこと。 時には話をぶった切ることも珍しくはない。 細かいことをいうと、CM前に「それではここでコマーシャル」を何度繰り返しいうことか。 これだけの時間があれば、もう1ネタくらいゲストの話が聞けるのに…と思うほどだ。 確かに、固定視聴者の多くは徹子さんを視に来ている人も少なくないかもしれないが、やはりゲストの話の方が重要でしょう。 番組の舞台裏ではゲストへの徹子さんの心遣いは細部まで考えられているという。 あのタマネギ頭も、毎日徹子さんのヘアスタイルが変わると、視聴者の目が徹子さんに行ってしまって、ゲストがないがしろになるということから考えられたそうだ。 Wikipediaの「 徹子の部屋 」の項目にそれらのことが記されている。 それほどまで考えられていた「おもてなしの心」が、今は形骸化しつつある。 それは、きっとこの番組にかかわる誰もがもう何年も前から感じていることなはずだ。 制作担当者だからこそ強く感じていたはずだ。 ならば、誰かそろそろ勇気を出して、降板(番組終了)という鈴をつけても良い時期ではないか。 この時間、NHKでは「 スタジオパークでこんにちは 」というトーク番組が編成されている。 そこでは武内陶子さんが、NHKのア

許せない番組

今、どうしても許せない番組というのがある。 嫌いな番組ならチャンネルを替えるとか、スイッチを切るとかするということは十分理解している。 またどんなにショーモナイ番組でもテレビ局や制作会社のことを考えれば、致し方ないながらも納得する了見もあるつもりだ。 しかし、企画が存在していること自体が許せないという番組というのも、ごくごく稀ではあるがあるものだ。 それはNHKの「 世界一周!地球に触れる エコ大紀行 」という番組だ。 二人のアナウンサーが北半球と南半球をそれぞれ一周しながら世界各地のエコツアーに参加するというものだ。 企画の上では「大自然の魅力を体感しながら、地球に迫る危機や自然や生き物の保護の重要性をみつめ(番組サイトより)」るということらしい。 私がなぜこの番組を許せないか。 第一に、エコツアーというのは、その志の高さはともかく、レジャーである。 アナウンサーを遊びに行かせるために私はNHKに受信料を払っているわけではない。 加えて、どのツアーに参加しても彼らはまるで観光客、または安っぽいタレント並みのリアクションしかできない。 これも許せないところだ。 第二に、エコツアーを紹介することで、当然のことながら観光客が増えることが予想される。 そのことは、危機に瀕している地球の自然を壊す一因となることにつながる。 その自然を破壊することにつながる番組を作りながら、自然保護の重要性を謳うという矛盾。 そんな欺瞞的な番組を許せるわけがない。 第三に、エコツアーを開催すること自体が、自然はおろか、古来からそこに住んでいた人々の生活や文化を破壊しているということに目を向けていないことだ。 特に深刻なのはこのことだ。 私は5年近くバンコクに住んでいた。 タイでは自然保護と人間の伝統や文化の保護という問題に突き当たっている国の一つだ。 タイ北部チェンライという町から山の中へ入ってゆくとメイホンソン村がある。 カレン族という山岳民族の村で、首長族の村として知られている。 カレン族をはじめ山岳民族たちは古来から移動を繰り返しながら、焼畑農業と山から木材を切り出すことで細々と生活を送ってきた。 彼らの生活はけっして自然を破壊するものではなかった。 ところがタイ政府は自然保護の観点から森林の伐採と焼畑を禁止する法律を定めた。 加えて山岳民族の多くをタイ人として認めたために、彼らは定住

悔しいけれどやっぱり「風のガーデン」

フジテレビの開局50周年記念番組「 風のガーデン 」が終わった。 脚本の倉本聰さんの富良野3部作の三作目。 名優緒形拳さんの遺作。 などスタート前から注目を集めていた。 死を目前にした男が絶縁していた家族のもとへ戻っていく物語を通して“生きること・死ぬこと”を描いていく人間ドラマだ。 このドラマの1回目からどこか粗を探してやろうと思いつつ視ていたのだが、残念ながらここで批評めいて書き連ねるようなことを発見することはできなかった。 もちろん、重箱の隅をつつくようにしてゆけばいくつも出てくるのだけれど、それは制作に携わった人のすることだ。 知らず知らずのうちに倉本ワールドに包み込まれてしまっていた。 ただそれだけだと一般視聴者と同じレベルになってしまうので、それは悔しい。 ということで、元プロ(ジャンルは違うけれど)の目から見た感想を披瀝しよう。 この作品の中で私が最も気に入っていたのはエンドタイトルだ。 ビデオという素材で撮ったものとしては出色の美しさを誇る映像。 長い人工物のカットと短い四季を彩る花のカットが作り出す静かなダイナミズム。 そして、平原綾香の静かな中に情熱をこめた歌唱の「ノクターン」とのマッチングもすばらしかった。 それらが、富良野の1年を、そして貞美が還るべきところを十分すぎるほど語っていた。 私がここ数年視た中でBest1のエンドタイトルとして賞賛したい。 それから、この作品が一人の監督で通したことも特筆しなければならないだろう。 一般にはこうした連続ドラマというと2~3人の監督で撮ることが多いのだが、この作品は宮本理江子さん1人で作られている。 だから回毎に演出にブレが出ることがない。 表面上は静かに時が流れるドラマだけに、この点はひじょうに大きい意味がある。 時折カット割りにアレッと思わされる部分はあったものの、倉本脚本と正面から向き合い、十二分に消化していたことが伝わってくる演出だった。 それと、女性ディレクターは往々にして綺麗な女優を取る時に力が抜けることがある。 しかし、宮本監督は黒木メイサをとても大切に美しく撮っていたことも見逃せないところだ。 最終回、平原綾香(氷室茜)が歌う曲をバックに雪の札幌を歩く黒木メイサの美しさは、このドラマの最後を締め括っていた。 出演者たちには役者として大きな葛藤があったことだろと思う。 それは、倉本脚本の

テレビって誰のためにあるのだろう

テレビは誰のためにあるのかという根本的なことを考えた人がいるだろか。 NHKのような公共放送(とNHKの人はよくいいます)と民放とではその答えは異なる。 ただ、普通考えられるのは番組にお金を出している人のため、というのが分かりやすい回答だろう。 NHKなら受信料を払っている人。 民放なら番組のスポンサーということになる。 だから、テレビ事業という面から見て極端な言い方をすれば、民放は視る人のことなど考える必要はない。 スポンサーの喜ぶ番組だけ流せばよいということになる。 私たちはそれが気に入らなければ、視なければよい。 スポンサーは自社の製品なりを広告するわけで、それには多くの人に見てもらわなければ効果が薄い。 だから、テレビ局という専門家に多くの人が見たがるような番組を作ってもらい、その代償として広告料を払っているわけだ。 これが、NHKとなると話は違う。 NHKの収入を負担しているのは私たちである。 厳密にいえば、受信料を払っている人(私はきっちり払っています)である。 だから本当は視聴率獲得に躍起となるのは、本当ならNHKであるべきなのだ。 少なくとも、視聴率が低いということは視聴者の満足を満たしていないということに通じる。 それなのに、良質の番組を製作しているから視聴率は低くても仕方がないなんていう隠れ蓑を言い訳につかったりする。 それに、視聴率獲得に躍起になるよりは、良質の番組を作れなどということをノタマウ消費者団体があるのもおかしい。 その昔、低俗番組といって数々の番組を葬ってきた人たちだ。 それはともかく、ことNHKに限っては本当はそんなことをいっていてはいけないのだ。 どんなに良質の番組を作っても、それが視聴率をとらなければNHKの使命は完遂されたとはいえない。 いってみれば、今の麻生政権と同じことだ。 ご本人が、どんなに国民のための政策を行っているといっても支持率が下がってゆくのであれば、それは国民がその政策を認めていないということだ。 でも、彼らはまちがっても、良い政策を行っているのだから支持率が下がるのは仕方がないとはいわない。 今の閣僚たちは支持率がいくら下がっても、5年先、10年先の日本がより良い国になるよう数々の政策を講じている(と思いたい)。 そして、それが一日も早く国民に認められて支持率が上がることを期待しているに違いない。 私はテレ

時間を無駄にした「3億円事件」

12月13日「 新証言!3億円事件 」を視た。 はっきりいってガッカリした。 番組では、当時捜査にかかわった刑事のコメントを縦軸に、資料映像や新聞記事、それを基にした犯行の再現ビデオ、そしてドラマで構成されていた。 一応ドキュメンタリードラマというジャンルに入るのだろうが、なんとも複雑なつくりだ。 特に、実際の斉藤元刑事の今も眼光鋭く、あの事件を昨日起こったことのように語る映像と、その刑事たちの捜査の模様を描いたドラマのギャップが大きすぎた。 元刑事の印象が強く、説得力があったために、ドラマ部分がまったく邪魔だった。 強い存在感を主張していたのは斉藤元刑事だけでなく、この事件にかかわった人たち全てにあった。 それは彼らにとって、40年という年月を経てもまだはっきりとした記憶と共に生きつづけていることを饒舌に語っていた。 こんなに素晴らしい題材を台無しにしてしまう演出だった。 こんな番組を作っていたら日本のドキュメンタリーは大きな危機を迎えていると背筋が寒くなった。 この番組の苦い記憶引き摺りながらTBSの「筑紫哲也さん×昭和史 第二夜」を視た。 それは2005年8月5日に放送された「 ”ヒロシマ” あの時、原爆投下は止められた いま明らかになる悲劇の真実 」の再放送だった。 番組のサイトには、「原爆開発や投下決定にかかわった当事者、被爆者の方々の貴重な新証言、膨大な数の史料を集めたドキュメント、さらに証言から忠実に制作した再現映像やCGなどによって60年目に初めて明らかになる事実から人類最大の悲劇の“全体像”を描いていく。」と謳っている。 このメッセージどおり、原爆投下の悲劇を真正面から描いたものであった。 再現ビデオにはチョットうるさいなと感じた部分はあったものの、原爆の威力をCGで再現した映像はたいへん迫力があった。 今は被害の実像は見る事ができないが、この映像は見た人に大きな衝撃を与えたに違いない。 被害者のその悲惨さの証言も、この映像によってより一層強く現実味を帯びて、心に響いた。 番組の中で、原爆をつくり、その投下から爆発の模様を撮影していた科学者の言葉に強いインパクトを受けた。 「広島を破壊するのに原爆の方が簡単だった。」 「銃弾で死んでも、普通の爆弾で死んでも、原爆で死んでも同じこと。死ぬことに違いはない。」 「戦争には罪なき民間人はいない。」 「(原

寂寥だけが残った時代劇

田村正和さん久々の時代劇を視た。 テレビ朝日の「 忠臣蔵 音無しの剣 」。 10年ぶりの時代劇出演だそうである。 高貴な身分でありながら、わけあって市井に暮らす浪人結城慶之助を演じた。 忠臣蔵、赤穂浪士討ち入りの裏にあった人間ドラマだ。 もちろんフィクションだが、愛する女性のために動いた剣士の物語。 番組のサイトによると、江戸時代の『カサブランカ』、大人のラブストーリーなのだそうだ。 結論からいうと、辛く、寂しさだけが残った。 田村さんに若かりし頃の「眠狂四郎」のあの美学は消え失せていた。 スッとしたあの立ち姿、狂気さえ感じられた殺陣、数少ない台詞の間に見せる孤独感。 真に白磁のような美しさが眠狂四郎にはあった。 それは映画で市川雷蔵が演じた眠狂四郎とは異なる眠狂四郎像を鮮烈に作り出していた。 今回の作品では、その全てが過去の遺骸としてのみ存在していた。 なのに、それを制作サイドもご本人もそれを求めてしまっていたことが、視る者の心を辛くさせるものになっていた。 年齢を隠せないアップ。 形のみトレースしていた立ち姿。 とても剣豪とは思えない殺陣。 そしてそれを補えないカット割。 「眠狂四郎」を念頭においていたがために、より一層厳しく現実を突きつける形になってしまっていた。 ストーリーは、そんなことがあってもおもしろいな思わせるもので、昔の恋人だった和久井映見さんのために尽くす主人公は真にカサブランカのハンフリー・ボガートをイメージさせるものだった。 そんな設定がおもしろかっただけに、もう「眠狂四郎」の遺影である必要はなかったのではないか。 新しい田村正和の時代劇を作り上げて欲しかった。 それはちょうど、古畑任三郎という正反対のキャラクターを演じたように。 やはり過去のイメージが強ければ強いほど、それを払拭するというのは難しいものだということを実感させられてしまった。

篤姫が終わってしまった

NHKの大河ドラマ「篤姫」が最終回の放送を終えた。 1時間15分の延長バージョンとしては駆け足で、明治維新の15年間を生きた篤姫の晩年を描いていた。 佐藤峰世演出はそれでも、十分に視聴者に気持ち良く泣くことができるよう計算されたものだった。 本当は、大奥を出てからの天璋院はかつて仕えた女中たちの生活のために骨身を惜しまずに奔走したという。 死を迎えたときには、当時の金で3円程度しか手元に残っていなかったそうだ。 その辺りのところももう少し見たい感じもしたが、それは大河ドラマとしては難しかったのだろうか。 ドラマでは、あくまでやさしく送り出すところが描かれたのみだったのはちょっと残念だった。 「篤姫」はここ数年視聴率的に凋落する大河ドラマで驚異的な数字を記録した。 ついにはNHKが全日視聴率でTopになる原動力ともなった。 幕末を描いた作品は、あの三谷幸喜脚本で香取慎吾を起用した「新選組」でさえ視聴率的には苦戦していたという。 それは、やるせないほど殺伐とした時代が見る人に救いがなかったからに違いない。 ところが今回は女性層の支持を受けて、誰も想像できなかった程の数字を記録してしまったのである。 今回はその成功の源となったところを制作者としての立場から分析してみよう。 まず、第一に「篤姫」成功の根底には、篤姫の人生を分かりやすく線を引いていったところを見流すわけには行かない。 例えば、「篤姫」の1年間は篤姫の成長と共に、笑い、叫び、泣きという言葉で区切ることができる。 島津本家に養女に出るまでの於一時代の笑い期。 養女となってから家定が薨去するまで、篤姫の時代の叫び期。 そして天璋院となってからの泣き期だ。 そして、そのそれぞれの時代に篤姫に強くかかわり、影響を与えた人たちを作った。 それは佐々木すみ江さん演じる菊本であったり、松坂慶子さん演じる幾島であったり、北大路欣也さんの勝海舟であった。 こうした人たちとのかかわりの中で、成長し、変わってゆく篤姫を分かりやすく見せたところは見逃すことができない。 その存在感の大きさは、1年間「篤姫」を支えた瑛太の小松帯刀や西郷吉之助(小澤征悦)、大久保正助(原田泰造)に匹敵するほど大きなものだった。 もう一つ特筆しなければならないのはキャスティングの妙だ。 前作、「風林火山」は山本勘助役の内野聖陽はじめ、武田信玄の市川亀治郎など

クイズの次はいい話かな?

クイズ全盛の民放各局の編成の中で、注目したい新しい動きがある。 それは「心温まるよい話」番組たちだ。 フジテレビの「 エチカの鏡 」はその筆頭といえるだろう。 タモリさんが司会するこの番組は、これまであったものや今放送されている同じような番組の中でも秀逸な印象を受ける。 今まで徳光和夫さんや島田紳助さんなど涙もろい司会者を中心にゲスト出演者たちを泣かすことに力点がある番組が多かった。 ところが、涙はおろか、心温まるということを、きっと毛嫌いするタモリさんが出ることでスタジオの客観性が生まれた。 ただ、まだ1度しか見ていないので偉そうなことを断言はでないが、「泣き」を強要しないところに共感する。 番組のサイトでは「心にキク」番組だそうだ。 先週は『盲目のカメラマン』 カメラマニアだった夫はあるとき事故で視力を失った。 妻は彼のファインダーとなって、目に見える景色を細かくレポートする。 夫はそのレポートに従ってカメラを構え撮影する。 その写真は一般のカメラマニアに負けない秀作だった。 そんな夫婦愛を、ご夫妻の明るいコメントで綴る。 ナビゲーターとしてご夫妻と対面していた市毛良枝さんもあまり対象に踏み込まなかった。 そこがまた良い。 ご夫婦の暖かい空気が画面を通じて伝わってきた。 胸は熱くなり、男でも涙は浮かぶのだが、流れるほどではない。 そんなところが良い匙加減の演出のように感じられた。 視終わってからとても後味の良い番組に仕上がっていた。 これからもこうしたラインを守っていって欲しいと思う。 こうした「心温まるよい話」というのは昨年秋ごろだったか、NHKでも放送されていた。 錦織一清が銀河鉄道999の車掌のような設定で、毎回ゲスト(乗客)からいい話を聞くという設定だった。 残念ながらこちらは気がついたら終わっていた。 話を持ってきたゲストと取り上げる題材(投書?)に何の関連もなく、何のために来ているのか分からない番組だった。 列車の中という設定も不可解だった。 視ていて消化不良の感を否めなかった。 この番組をきっかけにしたのか、既にこうした傾向の番組はいくつか民放で始まっている。 きっとこれから増えてゆくに違いないと思っている。 でもこういう企画、10年近く前に日本テレビに出したんだよな。 そのときは歯牙にもかけられなかったけど…。

クイズ番組が花盛り!

新聞のテレビ欄を見ると、連日どこかの局でクイズ番組が編成されている。 これだけ、並ぶということはそこそこ視聴率が稼げているということなのだろう。 宮崎美子さん、高木美保さん、東貴博さん、伊集院光さんなどは、数々のクイズ番組に出演、司会者や会場の観客から感心の声を漏らさせている。 雑学王というような新たなジャンルでの人気スターというような感がある。 そんな中でも筆頭は麻木久仁子さんか。 成績だけから見たら、真のクイズ女王といえば宮崎美子さんだろうが、その存在感は彼女を上回る。 番組の性格も選ばず、どんなクイズ番組にも顔を出している。 そして、その全てで優秀な成績をあげている。 その成績の高さは現役東大生タレントなどをも凌駕する。 彼女を古くから知っている身としては、もう少し番組を選べばよいのに…と思うのだが、常に全力投球しかできない彼女としてはそれは選択肢にはないのだろう。 クイズ王といわれる人たちに共通するのはそのイマジネーションの豊富さだ。 どんなに雑学に秀でていても、漢字を知っていても、その全てに知識を持っているというのは考えられない。 まして、制作陣が若い駆け出しの構成作家を動員して捻り出したクイズだ。 それを正解するのは、出題された内容をどうイメージするかにかかっているといっても過言ではない。 それはイメージを超えて第六感ということもできる。 そうした引き出しが知識を蓄えている引き出しと同様にたくさん持っているということだろう。 知識とイマジネーションをリンクさせることが上手だということもあるかもしれない。 私自身、相当なクイズ好きで、今でも数々のクイズ番組を視聴し、手前味噌ながら、麻木、宮崎、高木といったクイズ女王と匹敵するくらいの回答率を誇っている。 素人が出られるならフジテレビの「ミリオネア」で賞金稼ぎでもしようかと思うくらいである。 クイズマニアとしてのブラックリストにも載っていないから、結構稼げるのではないかな、とも思う。 そんな私でも、もういい加減にクイズ番組には辟易してきた。 日本中の人たちが、それ程知識欲が旺盛とは思えないので、そろそろ人気も峠を越えてよいころだと思うのだが…。

午後の再放送に番組の力を見た

このところ民放で視る局というとフジテレビとテレビ朝日に偏っていることに気がついた。 チャンネル支配権は一緒に住んでいる姉が持っているので、彼女の見たいものに左右されているのも可能性としてはある。 ということは、姉の視聴しようと思う番組はCXとANBに多くあるということもいえるわけだ。 それは一般視聴者の視聴傾向の志向性が表れているといえなくもない。 そのフジテレビとANBは平日の午後、ゴールデンタイムで放送した番組の再放送を編成している。 中にはその夜に放送する番組のPR的な側面も持って放送されているようだ。 これを見ていて思い知らされるのは、ANBのサスペンスドラマの多さだ。 毎日午後2時から5時まで、1時間のシリーズものの連続ドラマと、2時間のドラマが組まれている。 2時間ドラマはきっと土曜サスペンスの枠で放送されたものだろう。 何度も繰り返し放送されるものがあるとはいえ、これだけの番組を毎日編成できるというのは、それだけの量を持っていることに他ならない。 暇に飽かして毎日こうした番組を見るとはなしに点けておくようになっている。 すると、ドラマ嫌いだった私にもそのおもしろさや楽しみ方が見えてくるようになる。 ストーリー展開や犯人探しは、作る側の意図とキャスティングを見れは、大体2~30分で分かる。 そこで意識が惹き付けられてゆくのはやはりストーリー展開の緻密さであったり、役者の演技であったりする。 もちろん、そこで描き出される映像にも注意は払うのだが、今までに本当に鋭い映像だと唸らされるものはほとんどない。 きっと撮影時間にそれ程の日数をかけられないため、画にこだわるというところまではいっていないのだろう。 そんな中で、ANBの「事件」というドラマが好きだ。 北大路欣也扮する国選弁護ばかりを受ける弁護士が被告と寄り添い、そこから事件の核心を詳らかにしてゆくというのがいつものパターンである。 今日、その7本目(件目?)を再放送していた。 自閉症の娘と弟のを持つ母親がトラックに正面衝突して、息子を死なせてしまった。 これが無理心中か、過失致死かで裁判が争われる。 その母親役に松下由樹。 その夫で多忙を極め、家庭を顧みない大蔵官僚に平田満。 検事役に平幹二朗という芸達者がそろった配役だ。 このドラマ、なにしろ法廷のシーンがすごい。 鋭く犯罪性を追及する平幹二朗と、それ

見たくない作品

私がどうも視る気がしない番組に戦争、それも太平洋戦争にかかわるドラマがある。 今、映画で中居正広さん主演の「 わたしは貝になりたい 」が上映されている。 大々的にPRしていた割りには評判はいまひとつのようで、動員数も頭打ちの感があるらしい。 そんな折、12月7日にNHKでも同じ時代を題材にしたドラマ「 最後の戦犯 」が放送された。 どうやらストーリーも、戦争犯罪にかかわった一人の人間を描くという、似ているもののようだった。 当然、視る気がしないジャンルのものなので、フジテレビの「 エチカの鏡 」を視て胸を熱くした(この番組のことはきっといつか書くようになるだろう)。 私はあの戦争について描かれた全ての作品を視たくないというわけではない。 現に、12月6日にANBで放送された「 男装の麗人 」は黒木メイサの美しさに魅せられ、一人の女性を翻弄した時代という激流の傲慢さを実感した。 しかし、それが戦争犯罪にかかわることとなるととたんに興味がなくなってしまう。 その理由は、どこにも「救い」がないからだ。 今更、戦争犯罪に対して国家と個人の責任を追及してもどこにも解決の道がないと思っている。 だからこのテーマを掲げた作品はドラマであれ、ドキュメンタリーであれ視る気がしないのだ。 あの戦争によって今も悲劇的な状況におかれている人たちは、こういった作品をどういう気持ちで視るのだろう。 あるいは、やっぱり視る気がしないのだろうか。 わたしの心の中ではそうであってほしいという気持ちが強い。 「わたしは貝になりたい」はテレビが始まってまだ5年ほどしか経っていない昭和33年にTBSで作られた番組だった。 テレビドラマの水準を映画に劣らぬレベルに引き上げたものとして、テレビ史に燦然と輝く金字塔だ。 だが、それは、そしてその内容は昭和33年という時代だから生きたものではなかったのか。 なぜ今なのか…。 これらの作品を見た人はきっと感動し、涙を流したとことと思う。 でもその涙の行く先はどこなのだろう。 そしてそれを視て私たちに何ができるのか。 未だに私には回答が見つからない。 だから、今後もずっと、戦争による国家と個人の責任というテーマを掲げた番組や映画は視ることはないだろうな、きっと。

木曜日はドラマの日

毎週木曜日の夜は、ドラマの日だ。 8時からANBの「 おみやさん 」。 前にも書いたけれど櫻井淳子さんが、いかにも石ノ森章太郎の原作にでてくる女性を髣髴とさせて存在感を出している。 実年齢はもう30代も半ば過ぎのはずだが、結婚適齢期の年頃の役を若々しく、そして無理なく演じている。 他のドラマなどではおとなしい役であったり、影のある役が多いようだが、これらよりずっと七尾洋子役のほうが私は好きだ。 そういえば、鑑識役の七瀬なつみさんも実は相当な年だったはずなのに、おみやさんを片思いする女性をコミカルに演じているのも楽しい。 視聴率も、シリーズを繰り返すごとに上がっているようだが、残念ながら今シリーズはちょっと盛を過ぎてしまったような感を受ける。 制作側も、演じる側もどうも勢いというか、昂揚感が薄れてきているように感じられるのは私だけだろうか。 マンネリを回避するための策がうまく生きていないように思う。 それでも、「相棒」ほど末期的な症状にはなっていないようなので、まだ出直しは効くかもしれない。 ただ、渡瀬恒彦さんが未だに「坊ちゃん」と呼ばれるのは、どうにも視ている方が面映く感じてしまうと思うのだが…。 題材的にはきっとおもしろいネタなので、もう一度原点を見直して、犯人探しというより今回前田吟さんが演じたような人間ドラマとしての位置づけをして欲しいように思う。 続いて9時からは「 小児救命 」。 小西真奈美さん演じる青山宇宙が理想とする小児科病院を開業する小児科医を熱演している。 始めのうちは、彼女の理想やスタッフとの軋轢が通り一遍で、なんとも安直なドラマだなと思っていた。 小西真奈美が熱演するほどストーリーの薄さが目立ってしまっていたといわざるを得なかった。 10時からの「風のガーデン」までのつなぎで見るとはなしに、テレビがついていたという程度のものだった。 ところが、ここ1~2回で主人公のそれまでの人生が詳らかになることで、ようやく宇宙の思いに真実味がでてきた。 なぜ宇宙がコンビニのように、いつでも開いている病院を目指すのかという理想の裏にあるものが見えてきた。 番組も終盤にきてのことで、もったいないという思いが強い。 全体の構成が違っていたらもっと分かりやすく、共感を集めることができたのではないか。 ただ、大上段に振りかぶった感があるタイトルに対して社会性が感じられ

報道について怒りと共に考えた

ここ数日、タイでの反政府運動が各局のニュースを飾っている。 この騒動の直接の発端は、6月に始まった民主主義市民連合(PAD)の座り込みによる首相府占拠だった。 その頃はほとんど扱われることはなかったのに、空港を占拠するにいたって急に大きく取り上げるようになった。 日本人観光客も足止めを食うなど直接的に被害にあったのだから当然といえば当然だ。 この騒動で帰国が遅れるなど、迷惑を受けた方々、そしてその関係者にはお見舞いを申し上げたい。 ただ、これを機にまた報道というものの姿勢というか、あり方に大きな疑問を感じてしまったのだ。 その対象は広くジャーナリズムといってもよい。 ジャーナリズムは事件や事故が起こった際、危険情報を発してそこへは行くなという。これはとても重要だ。 ところが、その一方で、その危険がなくなったからもうそこへいっても安全という情報は流されることはほとんどない。 実はそんな姿勢が、どれほど多くの人々を巻き込んで、その被害を大きくしているかということには見向きもしない。 ジャーナリズムが、ニュースが、実はその事件・事故の第三次、第四次被害を生んでいるという自覚がないとしか思えない。 そんな報道・ジャーナリズムの傲慢を私は大きな疑問と共に、憤りを感じる。 実際に報道の誤った姿勢に出くわしたことがある。 2004年暮のインド洋大地震の時だ。 このときの津波はインドシナ半島の西側からモルディブ、スリランカなどに大きな被害を与えた。 タイでもプーケットは大被害を受け、多くの死傷者が出た。 日本のテレビは連日迫りくる津波と逃げ惑う人々をコレデモカ!とばかり見せつけた。 毎日「新しい映像を入手しました」とキャスターが、気のせいか自慢げにいってその映像が流された。 実はこの被害のすぐ後に私はマレーシアのペナンに行くことになっていた。 ペナンもまた大きな被害を受け、70名近い人が亡くなったと報じられていた。 私は行くのを止めようと思い、キャンセルのため宿泊予定のホテルに電話してみた。 すると予想を裏切ってホテルからの返事は「キャンセルの必要はない。ホテルに被害はなく、平常営業している。」とのことだった。 私はその言葉を信じて、また、被害にあった様子を見てみたいという気持ちもあって、ペナンに行った。 ペナンはどこも以前と同じで、行き交う人たちも平穏だった。 このときの ペナン

「セレブと貧乏太郎」と「富豪刑事」

火曜日の夜9時からフジテレビで放送されている「 セレブと貧乏太郎 」というドラマがある。 7兆円の資産を持つ大富豪の令嬢に上戸彩、極貧で3人の子持ちに上地雄輔が出演。地位も価値観も正反対で、住む世界が違う2人のどたばたコメディーだ。 今人気絶頂の2人が主演している割に、どうやらスタート直後に比べてこのところ視聴率的に苦戦しているようである。 ところで、このドラマを見るたびにANBで放送していた深田恭子の「富豪刑事」を思い出す。 こちらも想像を絶する大富豪の令嬢がこともあろうに刑事になり、祖父の金を惜しげもなく使って事件を解決するというものだ。 どちらも大富豪の令嬢を主人公にしたドラマなのだが、その面白さについては「富豪刑事」に軍配を上げたい。 その理由の最大のものは「セレブ…」の金持ち振りが、私たち貧乏人にも想像できる範囲だからということではないだろうか。 上戸演ずる美田園アリスのわがまま振りに対して、深きょんの神戸美和子の天然ボケ振りと礼儀正しい言葉遣いをするところからして私たちの想像の外にあるではありませんか。 「たった○億円ぽっちのために人を殺すなんて…」という決まり文句も悔しいけれど脱帽。 何より記憶に残っている名台詞がある。 聞き込みに行った先で相手から「森の中にお家があるなんていいわね~」といわれて真顔で応えた言葉。 「森の中に家があるのではなく、家の中に森があるんです」 こんな洒落た台詞は「セレブ…」には出てこない。 そうした台詞から美田園アリスからは成金的なイメージが感じられてしまう。 ストーリー展開にも同様のことがいえて、先の展開が読めてしまうのだ。 「富豪刑事」は筒井康隆の原作で、「セレブ…」は原作がないようだ。 原作がある作品だからそのキャラクターのバックボーンに重みがあるということなのだろうか。 同じようなことが、同じANBのドラマ「おみやさん」で櫻井淳子が演じる七尾洋子にもいえる。 このドラマは石ノ森章太郎の原作である。 だから、七尾洋子のキャラクター付けがしっかりしているのだ。 だから視ていて安心できる。 以前はテレビドラマなど見ることはなかったが、最近は良く見るようになった。 ガッカリするものが多いけれど、よく視てみるといろいろと面白みが感じられるものもあるんだな。