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熱演が作り出す疎外感


秋のスペシャル番組が編成される時期が来た。
どれをとってもあまり面白いとはいえない番組が編成されている。
もうこんなスペシャル枠の編成期間はなくしてもよいのではないか、と思ってしまうほど興味をそそる番組が少ない。

そんな中、ちょっと気になるドラマがあった。
テレビ朝日の「だましゑ歌麿」だ。

このドラマの原作は高橋克彦氏の同名小説。
歌麿は謎のベールに包まれた絵師で、その分作り手の側がいくらでも創作することができる。
どんな風に歌麿を創るのかと興味を惹かれた。

ストーリーは、愛妻を殺された歌麿が、その犯人を突き止め復讐を遂げるまでを描くサスペンス。
敵を討ち取るまで、歌麿が準備した用意周到な計画を『だましゑ』だとしている。
主人公の喜多川歌麿を水谷豊さんが演じた。

結論は、残念ながら食い足りない作品だった。
サスペンスというにはあまりに薄いつくりだったし、歌麿という人物像が描ききれていたとも思えない。
彼を取り巻く人々の描きこみも希薄だ。
松平定信が推し進めた寛政の改革が巨悪のような設定だが、そうした時代背景の描き方も不明瞭だった。
唯一、捜査にあたる同心(中村橋之助)の母(市原悦子=さすがの存在感)の台詞の端々にちりばめられているに過ぎない。

映像についても、特に歌麿にアップが多用されていたが、それも理解に苦しむ。
叫び声をあげる歌麿のアップは、ホラーと勘違いしそうなサイズで、ハッキリいって気持ちがいいものではなかった。
全体的に詰まったサイズの映像は作品の価値を下げる以外に効果はなかった。

何より水谷豊の時代劇というのが、まだ体に馴染んでいない。
立ち姿や、所作に美学がないし、殺陣にしても格好良くない。

役作りに対しても疑問が湧く。
「相棒」で作り上げた沈着冷静な杉下右京と一線を画したかったのだろう。
この歌麿は悲嘆にくれる感情を露にする。
水谷の熱演といえばそうなのだろう。
だが、私にはこれがどうにも邪魔で、過剰な演技にしか見えなかった。

役者さんは、演ずる際に細かくその人物に対するイメージを作り上げる。
撮影現場でも、監督に役作りについて提案してくることも珍しいことではない。
台詞や脚本についても注文がつくことがよくあるという。

この作品でも、水谷豊の演技プランが色濃く反映していたのではないか。
だが、ある意味役者エゴが、または主役に対する制作や演出の心遣い(?)がこの作品の価値をより一層低くしているように思えてならなかった。
監督の確固たる演出プランにすべて従って作り上げるのか。
それとも、役者と監督の間の鬩ぎ合いによって、イメージを作り上げてゆくのか。
どちらがよいかは一概にいうことはできない。
ただ、その両方がない作品を見せられる視聴者は不幸だ。

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