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12月, 2009の投稿を表示しています

漫才を楽しんだ

漫才の番組が相次いで放送された。 一つは今や恒例となったテレビ朝日(朝日放送)の「 M-1グランプリ 」。 もう一つは23日の昼間にNHKで放送された「 年忘れ漫才競演 」。 M-1グランプリは今年も高視聴率をおさめ、パンクブーブーが完全優勝した。 若い漫才としては十分に練りこまれたやり取りは高いレベルにあった。 ネタの展開はいわゆる言い換えなのだが、なんといってもテンポがよい。 ボケに対するツッコミの内容がありきたりではなかったのが印象に残った。 この先、安易なバラエティー番組にでないで、漫才としての芸を磨いて欲しいコンビだ。 『よしもと』パワーが席巻する漫才界で、ハライチやナイツなど東京漫才が決勝進出を果たしたのも興味を惹かれた。 ただ、決勝に出場した9組のネタのバリエーションがパターン化している感じがした。 昨年優勝したNON STYLEのような「○○をやってみたいから一緒にやってくれる?」から始まる展開だ。 「 爆笑オンエアバトル 」などでは半分以上がこのパターンだ。 これをモチーフにしているから漫才にしてもコントにしても構成がパターン化するし、笑いのポイントも限られる。 もうこのパターンから抜け出さないと、漫才の将来は暗いと思うのだが…。 パンクブーブーやナイツのような、ボケの言い換えで笑いを取るパターンも多い。 そんな中、笑い飯のようにダブルボケのようなコンビもでてきて、そうした形を打ち破ろうとして入るようだったけれど、不完全という印象を受けた。 ハライチのパターンは、話芸としてはまだまだという印象は強いが、若々しさと新鮮味には好感が持てた。 一方、「年忘れ漫才競演」は、東京漫才が浅草公会堂に集った東京漫才の品評会的な番組。 ダイジェスト的に編集されていたため、一組ごとの演目についてはしっかりとは伝わらなかった。 けれど、話芸としてのバリエーションの多さや、オリジナリティーを生かして磨きこまれたベテランと呼ばれるコンビの芸に敬服した。 中でも青空球児・好児さんの「ゲロゲ~ロ」や、おぼん・こぼんさんの芸域の広さと軽快な展開。 東京太さんのぼやきなどもっともっと見ていたい珠玉の芸だった。 そこで見ることができたのはステレオタイプ化した笑いのパターンではなく、それぞれの個性をいかした笑いの数々だった。 東京の笑いの殿堂・浅草を舞台に東京漫才も着実に盛り上がりを

今年最悪の駄作

12月24日テレビ東京の「 山口智子の 時を旅し時を奏でる 」を視た。 メンデルスゾーン生誕200周年を記念した音楽紀行特別番組で、山口智子がヨーロッパ各地を訪ね、彼の波乱の生涯や数々の名曲を紹介するという番組だ。 この番組にチャンネルを合わせた理由は、15年ほど前にメンデルスゾーンをテーマにした番組を企画したことがあったからだ。 それはスピルバーグが「シンドラーのリスト」でオスカー7部門を獲得したのに合わせて企画したのだった。 音楽に限らず多くの分野で卓越した才能をもったメンデルスゾーンはユダヤ人だった。 そのためにその業績や作品も含め、正当な評価を受けることは少なかった。 「シンドラーのリスト」の波に乗って、ユダヤ人迫害の不条理や愚かさ、悲惨さを番組にしようと考えたのだった。 残念ながら、私の企画は陽の目を視ることはなかった。 そのメンデルスゾーンが生誕200年に合わせて番組になるという。 まして、その案内役としてあの山口智子さんが出演する。 大いに期待を持ってチャンネルを合わせた。 しかしその結果は惨憺たるものだった。 演出、構成、撮影、編集どれをとってもプロの作品とは思えないレベルの低さだった。 メンデルスゾーンの何を見せるのか。 メンデルスゾーンを通して何を訴えかけるのか。 その作品を名演奏で聞かせるのか。 そうした絞込みもなく、ドイツ、スイス、スコットランドを山口智子が訪れるだけの番組となっていた。 そこで辿られるメンデルスゾーンの人生や業績は散漫となり、各種のインタビューで語られる内容も希薄になっていった。 インタビューにしても字幕スーパーにするのか、吹き替えにするのかその統一性すら感じられない。 こんな番組に満足して放送しているという神経が理解できない。 撮影も番組の内容を把握しているとはとても思えない貧弱な映像しか見せていない。 まさにカメラ番の仕事そのものだった。 編集にいたっては、その役割の大切さを放棄しているかのような安直なつなぎに終始。 単に放送時間に押し込めるだけの作業しかしていなかった。 ただひたすら山口智子さんが取材ノートを手に彼の足跡を辿る。 そこには蛍光ペンでいくつもラインが引かれていていたように見えた。 そんな思い入れの強さは、クレジットで企画・取材山口智子となっていたので理解することができた。 しかし、そうした思いが邪魔になっ

新政権報道の質に疑問符

ジャーナリズムは体制に厳しい目を向けるべきものである。 そうすることで時代が一つの方向に流れていってしまうことを防ぐ役割がある。 だから、多くの場合体制からは目の上のタンコブのように扱われる。 テレビもまさにそうした役割を担っている。 1992年にルーマニアを訪れた。 あのルーマニア革命から約3年が経っていた。 しかし、首都ブカレストの街には弾痕が残り、ストリートチルドレンがあふれていた。 革命の最激戦地となった放送局の周りには、それこそ蜂の巣のように銃弾の痕が残された家が建っていた。 ルーマニア革命はテレビ史の中でも特筆される事件だ。 テレビが実際に進行する革命の一部始終を世界に発信し、オピニオン形成に果たす役割の大きさを知らしめた。 当然、当時のチャウシェスク政権からは敵視され、放送局の占拠をめぐって激しい攻防が繰り返された。 それ程、テレビ報道は時代を左右する力を持っているはずだ。 ところが、昨今のテレビ報道に目を向けると、その質の低さに呆れてしまう。 今年は政権交代の年。 民主党を中心とした連立政権の動向に目を光らすのは当然のことだ。 なのに、今テレビニュースでの取り上げられ方は、新聞でいえばタブロイド版のような低レベルのものばかり。 その最たるものが、事業仕分けに対する報道だ。 スーパーコンピューター関連費用について「なぜ2番目ではいけないのか」のみを繰り返し取り上げている。 そこでは蓮舫議員の質問に答える官僚の発言はない。 これでは、こんな質問を投げかける蓮舫議員の非常識さしか伝わってこない。 本来問題なのは、この質問に明確に答えられない文部科学省の官僚ではないのか。 1番を目指すしっかりとした理由を主張できないのに数百億円の税金を請求する無神経さだと私は思うのだが、それは取り上げられない。 もっといえば、そうした官僚のいうがままに金を使ってきた過去の政権に目を向けないのはなぜだろうか。 私には意図的な作為にすら思える。 鳩山首相の優柔不断ぶりを挙げ諂い、小沢幹事長が豪腕を振るって政権に干渉していると煽り立てる。 内閣の支持率の低下を喜ぶかのように各社で取り上げる。 その取り上げ方には、ワイドショーでゴシップを取り上げるのと差がない。 ただひたすら小沢幹事長を悪役に仕立てているだけでよいと考えているのだろうか。 ニュースを見るたびに、故筑紫哲也氏が生きて