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3月, 2009の投稿を表示しています

スペシャルの季節で省エネ

3月もあっという間に過ぎ去ろうとしている。 民放各局では先週からゴールデンタイムにスペシャル番組を編成している。 全く困ったものだ。 というのも、なぜこの時季にこの番組を3時間以上も見せられなくてはいけないのか。 その根本的なところが見えてこない。 どの特番を見ても、出演者達の顔ぶれは同じで、座っている位置が違うだけ。 リアクションにしても案の定のボケと突っ込み。 ただスタジオが騒然としているだけのバカ騒ぎだ。 自分もそうした番組も作っていたが、今の特番よりはましだったように思う。 歳のせいかな? 何もスペシャル番組を作ってはいけないというわけではない。 でも、作るのなら放送するだけのスタンスがほしいと思うのだ。 例えば「全日本仮装大賞」。 放送回数が減ったけれど、仮装大賞は正月、GW、9月の連休と放送時期が決まっていた。 最近これに近いといえば、TBSのマラソンやゲームをちりばめた島田紳助さん司会のクイズ番組。 これは次のクールの番組をPRするための番組だから、期末期首に制作される必然性がある。 他局でも同じコンセプトの番組を制作しているけれども、この番組ほどのインパクトはなく、視聴率につながらないのが実情だ。 最も理解できないのは《警視庁24時間密着》的な番組。 日本テレビが、かれこれ20年近く前に放送して数字が良かったものだから、今や民放各局で同様の番組を作っている。 なんで警察官の活動を1年間に20回(民放5局が年4回放送だから)も見せられなくちゃいけないんだろう。 確かに制作サイドもこうしたレギュラー的な番組を作りたいと思っているはずだ。 ただなかなか高視聴率を記録できないから、あんな企画こんな企画と模索している。 そんな状態だから、ただ時間ばかり長く、内容は騒がしいというものばかりになる。 演出の方法にも目覚しいものはない。 特に今年はCXとテレ朝が開局50周年で、テレビ東京が45周年を迎えるから年がら年中スペシャルばかり。 もはや食傷状態だ。 そんなことなら「ヘキサゴン」のようにレギュラー番組をベースにスペシャルにした方が良いのではないか。 先日放送されたのは宮古島合宿だったけれど、それなりに楽しむことはできた。 レギュラーで慣らされている分、多少ダレてきても付き合ってゆくことはできた。 以前はそうした番組がいくつもあったはずだ。 もうちょっとレギュラ

見やすかった「黒部の太陽」

フジテレビ開局50周年を記念するスペシャルドラマ「 黒部の太陽 」はテレビ朝日の「 落日燃ゆ 」と同様、2夜連続5時間の大作だ。 記念番組という割りに出演者は「落日燃ゆ」ほどキラ星のごとく豪華俳優が顔をそろえているという感じはしない。 それでも演技に定評のある俳優が脇を固めて、名よりも実を取ったという印象が強い。 とはいえ、香取慎吾、小林薫、ユースケサンタマリアが鎬を削っているっているわけだから十分豪華出演陣であることは間違いない。 ストーリーは、黒部第四ダム建設の中でも最大の難工事といわれた大町トンネル掘削工事に苦闘する男達がトンネル貫通に成功するまでを描いている。 真に希望に向かって苦難に立ち向かう男のドラマを予想していた。 だが、いわゆる男臭さ120%というものではなかった。 主人公を取り巻く工夫たちも荒くれ男という印象はほとんど感じられなかった。 関西電力の滝山(小林薫)の家庭の事情や、熊谷組の木塚(ユースケ・サンタマリア)と倉松(香取慎吾)の滝山の長女(綾瀬はるか)を挟んでの確執などしっかり描きこまれていた。 また、沢井甚太(勝地涼)と工事現場近くの食堂で働く文子(深田恭子)との純愛と悲劇も、エピソードの域を超えて重要なストーリーのアクセントとなっていた。 さすが、女性層の支持が多いフジテレビならではのドラマといえるだろう。 ただ、そうしたストーリーの膨らみの全てが番組全体に好影響を与えているかというと、それは疑わしい。 破砕帯と呼ばれる脆弱な土壌にぶつかって、徹夜での掘削作業を続けても作業がはかどらない。 この最も大きな山場でもある困難に立ち向かう倉松たちのドラマが希薄になった感があるのだ。 山を去ってゆく男達の心の動きが伝わりきらないし、だから、そうした彼らが再び山に戻ってきた時の感動も、もう一つ盛り上がりに欠けた。 なんとなく、棘のない薔薇、種のないスイカのような印象を受けたことは否めない。 主役の倉松仁志を演じた香取慎吾さんは男達の上に立つ若き親方という役を無難にこなしていた感じ。 ただ、優しい一面を見せる演技や台詞回しの端々に、「薔薇のない花屋」で見せたようなところがあったのが惜しまれる。 小林薫さんもユースケサンタマリアさんも、これまで培ってきた演技力を遺憾なく発揮していた。 目の動きはもちろんのこと、酒を飲むときのちょっとした仕草にも配役の設

“開かれたNHK”を気取る愚挙

3月21日NHKの「 日本の、これから 放送記念日特集「テレビの、これから」-第1部- 」を視た。 民放連の会長や、NHKの副会長、嶌信彦氏、糸井重里氏などが顔を連ねていた。 それに現在テレビ番組を制作している各局のプロデューサー、放送作家もパネリストとして出演していた。 こうした人達が市民と《徹底討論》するという謳い文句の番組だ。 番組の中では、スタジオに参加している視聴者代表(どうやって選ばれたのかは分からない)の発言や、メールなどで送られてきた意見について討論が行われた。 こんな形でテレビの現在を見つめ、将来像を模索すると胸を張るNHKの姿勢にまず呆れてものがいえない。 テレビ局、中でも番組制作者は視聴者の意見を取り入れて番組作りなどするか? また、そんなことで面白い番組が作れるか? 考えてほしい。 WBCの日本代表チームを原監督は一般市民の声を基につくっただろうか。 サッカーの日本代表だって同じことがいえる。 世界一を目指すにあたり、監督が目指すチーム像があって、それを実現できる人を選んだはずだ。 そこに一般市民の声など入る余地はない。 テレビもそれと同じことがいえる。 テレビ局には、厳しい就職戦線の中からテレビ番組制作に向いた人を厳選している。 そうした選りすぐりの人達が、日夜番組つくりの現場でどうしたら面白くなるかを考え続け、研鑽しているはずだ。 いわば番組つくりのプロの集団だ。 だからそこに市民の批判の声など介入させる必要はない。 それよりも、テレビ局がやるべきことは、もっと徹底的に自分達の今作っている番組を検証することではないか。 あの吉田直哉が演出した「源義経」とタッキーの「源義経」を徹底比較し、局内で議論を戦わせ、検証するべきだろう。 その方がずっとテレビの質は高くなるはずだ。 また、視聴者からの意見に、どの面下げてそうした発言ができるのか?というように理解に苦しむものが多かった。 例えば、「視聴率に縛られた番組つくりがテレビ番組をつまらなくしている」なんていう声があった。 一度もテレビ局の実情を見たこともなく、番組つくりを経験したこともない人がどうしてこんなことがいえるのだろう??? また野球を例に取るが、北京オリンピックで日本チームがメダルが取れなかったとき。 何人かのパネリストと呼ばれる人達が星野采配を批判した。 「あそこはバントでランナー

40オヤジが綴る理想の娘の物語

3月20日テレビ朝日で「 ゴーストタウンの花 」を視た。 2009年・テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞ドラマだ。 受賞者は40歳の派遣工場作業員だそうで、シナリオを専門に学んだこともないという。 それにしては出演者達のキャラクター付けや環境など細かいところまでしっかりと書きこまれた作品だった。 最近のテレビドラマでは忘れられた感のある、高校生達の日常生活を淡々と素直に描いているドラマだ。 ストーリーの舞台は寂れたニュータウン。 そこに暮らす複雑な家庭に育つ女子高生の日常を描く。 父親はバツイチの派遣労働者で、再婚した継母とその2人の連れ子と住んでいる。 素直で明るい性格の主人公しおり(桜庭ななみ)は、学力優秀だけれども貧しさのため私立の進学校には進めず、将来は奨学金で大学に進学を目指す生徒会長だ。 学校が終わればコンビニでバイトをし、血の繋がらない妹や弟を親に代わってかいがいしく面倒を見る。 そんな彼女が親友のリナ(波瑠)から1歳年上で私立の名門校に通う従兄弟・啓(永山絢斗)を紹介される。 二人はすぐに意気投合、付き合い始める。 そしてちょっとした紆余曲折がありながらも、若い愛を育むであろう二人…。 見はじめて、どうもどこかで見たことがあるような気がした。 そう、NHKの「 アグリー・ベティー 」だ。 ちょうどの主人公のベティーと同じようなメガネをかけていて、しっかり者で家族思い。 いわゆる見てくれはパッとしないが、その性格のよさから友人達からは嫌われていない、そんなキャラクター設定。 家庭も、メキシコからの違法移民で、貧しいというところも共通している。 この番組を見終わって、50歳も半ばを過ぎたオヤジにはなんとも気持ちがよく、知らぬ間に笑みがこぼれてしまっているのに気がついた。 その理由は明確。 だって、この主人公の女の子はオヤジ達の理想像だ。 頭が良くて勉強もできる。 性格も明るく、素直で劣等生といわれるような同級生とも仲良くしている。 生活を助けるためにバイトをし、血の繋がらない妹や弟の面倒を見るのも厭わない。 ボーイフレンドとの恋だって、しっかりと節度を守っていて親にも秘密にしていない。 唯一、容姿が… と思っていたら、メガネをはずしたときの可愛いことといったらない。 こんな娘を持ちたいと全ての親が願っているはずだ。 主人公の桜庭ななみは番組途中で見せるコ

美形女優はコミカルに!

ここ数年、とても可能性を持った役者さんの充実ぶりが気になっている。 宮﨑あおい、瑛太をはじめ、上野樹里、石原さとみ、田畑智子、本仮屋ユイカ、黒木メイサ、志田未来、成宮寛貴、水嶋ヒロ、二宮和也など枚挙に暇がない。 若い芽が次々とその素質を開花させていっている。 これから作品に恵まれればもっともっと大きく開花するに違いない。 本当に楽しみだ。 ただ、今注目しているのは30代後半から40代の女優達だ。 中でも、麻生祐未さんの活躍に心が惹かれている。 元々、カネボウのキャンペーンガールで世に出て、それからは美しさだけで(といっては失礼だが)数々のドラマに出演していた。 それが、2001年NHKの連続テレビ小説「ほんまもん」で池脇千鶴と競演したあたりから転機が訪れたのではないか。 このドラマでは、日本料理店のしっかり者だがどこか“天然”の年増女中を演じていた。 あの美しさが売り物の女優がメガネをかけ、コミカルなキャラクターに挑戦していた。 昨年末から着物の着付け教室のCMで「特別じゃない日なんてないのよ」と妖しげな空気を孕みつつ少年に諭す演技はこうした流れの結実したものといえる。 それが、今年になって一層輝きを持った演技を見せてくれるようになっている。 それはシリアスな役割で光を放った作品だ。 テレビ朝日の「 警官の血 」で、内縁の夫の暴力に虐げられながらも、その男から離れられない女性。 ここでは精神的に傷を負い暴力を振るう主人公の妻(貫地谷しほり)と対比する意味があり、見事にその役割を果たしていた。 一度も表現などされていないけれど、その女性と夫の過去の生活や、女性の性のようなものさえ感じさせる名演だった。 何しろ殴られて吹っ飛んでゆくときの迫力。 ほんの数シーンだけの出演だったが、貫地谷との経験の差を見せ付けていた。 そして、先日放送されたフジテレビの「 VOICE 」では、末期がんの夫の死の原因が医療ミスではないかと疑う妻を演じた。 圧巻は、結局医療ミスではなく、実は尊厳死を望んだ夫と院長の友情によることが解き明かされた場面。 彼女の嗚咽にはそうした死を望んだ夫への愛情と、友情を全うした院長への感謝の気持ちまで凝縮されていた。 美形女優から見事に演技派女優へとステップアップしていることが伝わってくる。 それはちょうど、ハリウッドでミシェル・ファイファーのポジションに良く

もったいないよ関テレさん

3月17日フジテレビ系で放送されていた「 トライアングル 」がようやく終わった。 関西テレビの50周年記念番組ということで超豪華な出演者を揃えた。 主役の江口洋介に始まって、稲垣吾郎、広末涼子、相武紗季、堺雅人、谷原章介、佐々木蔵之介、小日向文世、大杉漣、風吹ジュン、北大路欣也という名前を見れば、つまらない作品になるはずはない。 加えて、パリや上海にロケを敢行するなどたいへんな力作というのは伝わって来る。 残念ながら、彼ら全てが好演というわけには行かなかったが、それでも他のドラマに比べれば十分魅力的な演技を繰り広げてくれた。 この出演者達の熱の入った演技に惹かれて毎週視ていたのだが、最終回が終わってなぜかホッとした。 その理由は簡単。 長いのだ。 そういえば、前作の「 チームバチスタの栄光 」も長ったらしい作品だった。 この作品と作りが似かよっていると思っていた人も少なくはないのではないだろうか。 ストーリーの核心に近づいたように思わせながら、別の殺人が起こって、作品の求める犯人ではない人が逮捕されたりするところなどそっくりだ。 「チームバチスタ…」も「トライアングル」も小説が原作だ。 きっとそれを忠実に脚色したのだろうが、テレビドラマとしてはまだるっこしかった。 また、こ全ての配役がをいかにも犯人のように描くなどというところも似ていた。 ストーリーを膨らましているつもりだろうが、逆効果だったように思えてならない。 こんな風にしているから、主人公が「なぜそこまでこだわるのか」という点がくどく感じられ、テーマが濁ってくる。 もっと原点から構成を見直す必要があるのではないか。 今、民放ドラマは10本が1クールとして構成されている。 そこで思うのだが、10本まで構成できないのなら5本完結のドラマにしたらどうだろう。 今、ほとんどのサスペンスドラマが1時間か2時間の単発だ。 そのテンポに比べて、全10時間というのはいかにも長い。 もちろん読み物として緻密に作られた原作のことを考えれば2時間というわけには行かないというのは理解できる。 ならば、5本完結にしたらどうだろう。 そうすれば、きっと無理やり引き伸ばしているような印象はなくなると思うのだが。 同じようなことは「 ありふれた奇跡 」にもいえる。 5回完結なら余分とも思えるストーリーの膨らましを排除することができる。 山田

重厚さが決め手のドラマが続いた

NHKの「 白洲次郎 」とANBの「 落日燃ゆ 」と太平洋戦争を挟んで比較的近い時代に生きた人のドラマが相次いで放送された。 「白洲次郎」は、戦後吉田茂首相の側近として日本国憲法の制定にかかわり、通産省を創設した人。 対して「落日燃ゆ」の主人公は廣田弘毅。 東京裁判でA級戦犯として唯一処刑された文民として歴史に名を残している。 この二つのドラマにはいくつもの共通するところがある。 第一は、どちらも事実をベースにしたフィクションであるということ。 第二は、戦争を回避することに尽力したものの、結果として力及ばなかった人間のドラマであること。 第三は、外国生活を経験したジェントルマンであり、背広が似合う宰相であった人間を描いていること。 第四に、スタイルと方法に違いがあるものの、GHQに対して従順でない人間の物語であること。 そして第五に、吉田茂がキーマンとして重要な役割を演じていること。 ただ、これほどの共通項を持ちながら、その内容には大きな差がある。 「白洲次郎」では(多分)35mmのフィルムによる映像が美しく、時に緊迫した空気感を切り取っていた。 その効果は、常にピリピリとした緊張感を漂わせる主人公の演技にもよくマッチしていたと思う。 ただ、こうした緊張感が主人公を演じる伊勢谷裕介さんの演技だけでなく、番組全体に流れすぎていて視ていて疲れる。 きっと映画であれば耐えられるのだろうが、テレビというメディアではその空気がドラマに入り込めない壁のようにも感じられた。 この作品を視ていて、「ゴッドファーザー」が知らぬ間に思い浮かんでいた。 そして無意識のうちに比較していた。 そこで気付いたのは、フィルム(的処理?)の割に室内のシーンなどで重厚感がないことだ。 「ゴッドファーザー」や「ラストエンペラー」のような深みは感じられなかった。 照明がとてもよい仕事をしていたので惜しい気がしてならない。 演技に関しては、主人公がいかにも鋭利な刃物のようで、なぜかずっと全力疾走しているような印象だ。 それは激動の時代とそこに生きた人を描くための演出だったのかもしれない。 だが、鋭利過ぎてすぐに刃こぼれしそうなもろさが感じられてしまった。 頭が切れる人というより、単にわがままな人というような印象しか伝わってこない場面もあったのは残念だ。 この点でも「ゴッドファーザー」のアル・パッチーノとの

テレビの原点を再発見

NHKの看板番組の一つ「 その時歴史が動いた 」が来週で終了するらしい。 そのせいだろうか、3月11日の放送分のテーマは「 歴史とテレビ 」。 テレビの開発から本放送開始、そして現代まで3つの『その時』を設定して、時代ごとのテレビの果たした歴史的な役割を見直していた。 その時1.1953年2月1日、NHK本放送開始 その時2.1969年7月21日午前2時56分20秒 アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記した時 その時3.現代 1.では、開発の歴史。 19世紀末、夢の機械として想像されたテレビが、髙橋健次郎による《イ》の文字の伝送によって現実性を持ったこと。 最初に実用化されたナチスドイツではプロパガンダの手段として活用されたこと。 日本では米ソの冷戦構造からアメリカの政治戦略の一端として開発が進んだこと。 それが経済復興を目指す産業界の思惑と合致、テレビの歴史の第一ページを拓いた、という流れを振り返っていた。 2.では、《テレビならではの表現》を作り上げた足跡を紹介。 当時の皇太子ご成婚パレードで、現場では体験できない臨場感を茶の間に届けることに成功した。 そして通信衛星の開発によって実現した月面からの生中継。 6億人が同時に見たこの映像は、テレビ表現の可能性を模索した時間の結実として捉えられていた。 3.ではその後の歴史とテレビのかかわりを見つめた。 ベトナム戦争の現地報道が生み出した反戦活動の高まり。 1989年のルーマニア革命では、チャウシェスク体制の崩壊の過程を刻々と報道。 この革命はテレビというメディアを挟んでの攻防という側面を持っていた。 その後、イラク戦争でのメディア規制や、9.11の同時多発テロの映像がテレビにつきつけた問題を今後の課題として取り上げていた。 私は、ルーマニア革命から3年ほどしてルーマニア各地をを取材のため旅した。 そのときにはまだ首都ブカレストや地方都市のいたるところに弾痕が残っていた。 中でも最大の激戦地といわれた放送局周辺では、蜂の巣のように銃弾の穴が残された住宅の塀が当時の闘いの激しさを物語っていた。 銃撃戦の間、ここに住んでいる人達はどうしていたのだろう。 そしてチャウシェスクの作った《国民の館》へ続く、広くて豪華な道路の荒廃。 デパートでは広い店内に売るべきものがなく、当然客もほとんどいない。 工事現場のよ

心休まるKFCのCM

「♪ママの手作りもいいけど~ ケンタッキーの手作りもおいしいよ~」 昼の時間帯に流れているケンタッキーフライドチキンのCMだ。 ちょっとおかあさんのお料理の腕前を立てつつ、KFCのおいしさを訴える。 その謙虚さが気に入っている。 映像は、お買い物帰りのママがKFCの匂いに引かれたのだろう、ふと店を覗く。 どちらかといえばインパクトの弱い部類に属するものだ。 ただママ役の女性の何気ないしぐさなど、細部の演出に作り手のセンスのよさが感じられる。 さすがCMを作り慣れている企業の作品だと納得させられる。 昨年の食品偽装騒動以来、キッチン用品の売れ行きが好調だそうだ。 外食を避けて、安全な食品を使って自宅で食事をする人が増えているため、と分析されているらしい。 それに追い討ちをかけるようにこの不況だ。 外食産業には厳しい時代が続くことが予想される。 そんな切羽詰った状況で作られたとは思えないような、ほのぼのとした空気感のCMはとても好感がもてる。 ところで、こんな時代になるとテレビのCMにも変化が起こる。 バブルが弾けたころだったか、サラ金のCMが民放各局にも広まった。 それまではサラ金のCMが流れるのはテレビ東京くらいだったはずだ。 それが、バブルが弾けて収入減が目前に迫ると、どの局も独自のCM規定を改めてまでして、そうした企業のCMを流すようになった。 今回の不況でも既に影響がでている。 サブプライムローンの破綻が叫ばれ、いくつもの大手企業が危機感を募らせ始めてから目立ってきたCMがある。 パチンコの新機種のCMだ。 ギャンブルの一翼を担う、パチンコ機器の会社が新作を次々とPRしている。 金のあるところには必ず擦り寄ってゆく広告代理店のしたたかさと、テレビ各局のスポット営業の悪化が同調したのだろう。 それまでの大手企業からの出稿料が減った間隙を縫って、その露出量は大躍進を続けている。 こうした傾向は、テレビがどんどん堕落してゆく兆候のように思えてならない。 このままで行くと各局のCMの倫理規定などどこへやら。 いつか風俗やソープランドなどの業界にも手を出すようになるかもしれない。 テレビが高尚なものだなどとはいうつもりは毛頭ないが、守るべき一線はあると思う。 それは外から持ち込まれる素材であったとしても越えてはならないもののはずだ。 民放も一つの企業である以上、利潤追求

果てしなく募る危機感

昨年あたりからずっと感じていたことが、この金融恐慌で危機感にまでなった。 それは、今の日本が置かれている状況が80年前と酷似しているということにある。 1929年ニューヨークのウォール街の株価の大暴落に端を発した世界恐慌。 それはサブプライムローンによる金融破綻による今の不景気とシンクロする。 他にも、最近起こっている政治・経済・社会の動きの一つひとつが、戦争へと突き進んでいった過去の歴史を思い起こさせられるのだ。 まさにあの時代をトレースしているように思えてならなかった。 それが3月4日のNHKの「 そのとき歴史が動いた 経済危機、世界を揺るがす 」で世界恐慌を取り上げていたのを視て、はっきりと具体的な危機感として捉えるようになったのだ。 世界恐慌の後、日本は軍部が暴走して中国へ進出。 太平洋戦争へと突入していったという悲惨な歴史を持っている。 もちろん、私達はそうした繰り返してはならない歴史を知っているし、その頃とは比較にならないほど平和を望む大衆のアイデンティティーは高い。 しかし、忘れてはいけない。 当時、軍部が中国へ進出することを歓迎したのは国民だった。 何十万という日本人が中国や満州に進出して行ったのではなかったか。 あの時代、新聞は昭和恐慌によって勢いづかされた戦争へ流れを食い止めることができなかった。 それに対して現代。 あの時代にはなかったテレビというメディアは国の暴走を止めることができるだろうか。 インターネットは心から平和を求める大衆の声を集約し、増幅して世界の平和を維持することができるだろうか。 ひつだけ確信ともいえるような思いがある。 それは、現在のテレビ報道がイエロージャーナリズム紛いの行動しかとらない状況では、それは叶わないのではないかということだ。 インターネットはまだジャーナリズムとしてのスタンスを取り得ていない。 メディアとして未成熟の状況では、テレビに期待せざるを得ないのが悲しい現実だ。 これから先、テレビの役割は新たな重要度を課せられるようになると思うのだが、どうだろうか。

時間無駄遣いの「50す」

フジテレビの50周年特番が3夜連続で放送された。 いずれも4時間を超える枠で、音楽、笑い、事件というくくりで50年の足跡を振り返っていた。 私の年齢とほぼシンクロする音楽や、ギャグ・コント、出来事の数々は懐かしくもあり、時間の経つのを忘れてしまうほど。 分からない内容のものがでてくることで、自分の年齢さえ感じさせてくれるものだった。 さすがコンテンツの豊富なフジテレビとの感を強くした。 ただ、その演出はどうなのだろう。 スタジオ展開の部分だ。 スタジオに集まったとても50年の音楽史なり、お笑いの流儀など語れないタレント達。 それらがタレントの性だろう、テーマとさほどかかわりがあるとも思えないことでもしゃべりだしてくる。 それが分け知り顔だったりするから、イライラを通り越して怒りすら感じた。 華やかさを見せたいという狙いもあるのかもしれないが、それなら別の方法があったのではないか。 全くの時間と金(出演料)の無駄。 当然ダイジェストになるのは理解できる。 だったら、はたしてスタジオが必要だったのか。 テーマを考えればそうした考えがあっても良かったのではないか。 そんなスタジオ展開などブチ切って、1曲につき5秒でも10秒でも長く聴きたい。 さもなければ、選から漏れた楽曲やギャグを見たい。 テレビ世代の人達はそんな思いを強くした人も多いのではないか。 VTRを見て、スタジオにいるタレント達がまるで説得力のない感想をいうという演出手法が流行りのようだ。 いつの間にかコメンテイターなんていわれるようなタレントも増えている。 どの局の番組を見てもこんな構成をしているものがある。 まだ若くて、人生経験さえなさそうな女の子が老夫婦のエピソードなどに、したり顔でコメントする。 これってどうなのだろう。 バラエティーの演出手法として正しい道であるとは思えない。 もっとテーマに向き合って、スタジオ部分が必要なのかどうか思い返す必要があると思っている。 どうしても必要ならば、出演する人を厳選して、テーマにふくらみを持たせることを狙うべきだ。 制作者側がどうも安易な道を歩き出しているように思えてならない。 そんなどうしようもない演出手法を、せっかくのハーフセンテニアルの番組にとった、フジテレビの制作陣にちょっと失望してしまった。 バラエティーのCXだけに、もうちょっとオシャレな演出を期待して