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漫才を楽しんだ

漫才の番組が相次いで放送された。 一つは今や恒例となったテレビ朝日(朝日放送)の「 M-1グランプリ 」。 もう一つは23日の昼間にNHKで放送された「 年忘れ漫才競演 」。 M-1グランプリは今年も高視聴率をおさめ、パンクブーブーが完全優勝した。 若い漫才としては十分に練りこまれたやり取りは高いレベルにあった。 ネタの展開はいわゆる言い換えなのだが、なんといってもテンポがよい。 ボケに対するツッコミの内容がありきたりではなかったのが印象に残った。 この先、安易なバラエティー番組にでないで、漫才としての芸を磨いて欲しいコンビだ。 『よしもと』パワーが席巻する漫才界で、ハライチやナイツなど東京漫才が決勝進出を果たしたのも興味を惹かれた。 ただ、決勝に出場した9組のネタのバリエーションがパターン化している感じがした。 昨年優勝したNON STYLEのような「○○をやってみたいから一緒にやってくれる?」から始まる展開だ。 「 爆笑オンエアバトル 」などでは半分以上がこのパターンだ。 これをモチーフにしているから漫才にしてもコントにしても構成がパターン化するし、笑いのポイントも限られる。 もうこのパターンから抜け出さないと、漫才の将来は暗いと思うのだが…。 パンクブーブーやナイツのような、ボケの言い換えで笑いを取るパターンも多い。 そんな中、笑い飯のようにダブルボケのようなコンビもでてきて、そうした形を打ち破ろうとして入るようだったけれど、不完全という印象を受けた。 ハライチのパターンは、話芸としてはまだまだという印象は強いが、若々しさと新鮮味には好感が持てた。 一方、「年忘れ漫才競演」は、東京漫才が浅草公会堂に集った東京漫才の品評会的な番組。 ダイジェスト的に編集されていたため、一組ごとの演目についてはしっかりとは伝わらなかった。 けれど、話芸としてのバリエーションの多さや、オリジナリティーを生かして磨きこまれたベテランと呼ばれるコンビの芸に敬服した。 中でも青空球児・好児さんの「ゲロゲ~ロ」や、おぼん・こぼんさんの芸域の広さと軽快な展開。 東京太さんのぼやきなどもっともっと見ていたい珠玉の芸だった。 そこで見ることができたのはステレオタイプ化した笑いのパターンではなく、それぞれの個性をいかした笑いの数々だった。 東京の笑いの殿堂・浅草を舞台に東京漫才も着実に盛り上がりを

今年最悪の駄作

12月24日テレビ東京の「 山口智子の 時を旅し時を奏でる 」を視た。 メンデルスゾーン生誕200周年を記念した音楽紀行特別番組で、山口智子がヨーロッパ各地を訪ね、彼の波乱の生涯や数々の名曲を紹介するという番組だ。 この番組にチャンネルを合わせた理由は、15年ほど前にメンデルスゾーンをテーマにした番組を企画したことがあったからだ。 それはスピルバーグが「シンドラーのリスト」でオスカー7部門を獲得したのに合わせて企画したのだった。 音楽に限らず多くの分野で卓越した才能をもったメンデルスゾーンはユダヤ人だった。 そのためにその業績や作品も含め、正当な評価を受けることは少なかった。 「シンドラーのリスト」の波に乗って、ユダヤ人迫害の不条理や愚かさ、悲惨さを番組にしようと考えたのだった。 残念ながら、私の企画は陽の目を視ることはなかった。 そのメンデルスゾーンが生誕200年に合わせて番組になるという。 まして、その案内役としてあの山口智子さんが出演する。 大いに期待を持ってチャンネルを合わせた。 しかしその結果は惨憺たるものだった。 演出、構成、撮影、編集どれをとってもプロの作品とは思えないレベルの低さだった。 メンデルスゾーンの何を見せるのか。 メンデルスゾーンを通して何を訴えかけるのか。 その作品を名演奏で聞かせるのか。 そうした絞込みもなく、ドイツ、スイス、スコットランドを山口智子が訪れるだけの番組となっていた。 そこで辿られるメンデルスゾーンの人生や業績は散漫となり、各種のインタビューで語られる内容も希薄になっていった。 インタビューにしても字幕スーパーにするのか、吹き替えにするのかその統一性すら感じられない。 こんな番組に満足して放送しているという神経が理解できない。 撮影も番組の内容を把握しているとはとても思えない貧弱な映像しか見せていない。 まさにカメラ番の仕事そのものだった。 編集にいたっては、その役割の大切さを放棄しているかのような安直なつなぎに終始。 単に放送時間に押し込めるだけの作業しかしていなかった。 ただひたすら山口智子さんが取材ノートを手に彼の足跡を辿る。 そこには蛍光ペンでいくつもラインが引かれていていたように見えた。 そんな思い入れの強さは、クレジットで企画・取材山口智子となっていたので理解することができた。 しかし、そうした思いが邪魔になっ

新政権報道の質に疑問符

ジャーナリズムは体制に厳しい目を向けるべきものである。 そうすることで時代が一つの方向に流れていってしまうことを防ぐ役割がある。 だから、多くの場合体制からは目の上のタンコブのように扱われる。 テレビもまさにそうした役割を担っている。 1992年にルーマニアを訪れた。 あのルーマニア革命から約3年が経っていた。 しかし、首都ブカレストの街には弾痕が残り、ストリートチルドレンがあふれていた。 革命の最激戦地となった放送局の周りには、それこそ蜂の巣のように銃弾の痕が残された家が建っていた。 ルーマニア革命はテレビ史の中でも特筆される事件だ。 テレビが実際に進行する革命の一部始終を世界に発信し、オピニオン形成に果たす役割の大きさを知らしめた。 当然、当時のチャウシェスク政権からは敵視され、放送局の占拠をめぐって激しい攻防が繰り返された。 それ程、テレビ報道は時代を左右する力を持っているはずだ。 ところが、昨今のテレビ報道に目を向けると、その質の低さに呆れてしまう。 今年は政権交代の年。 民主党を中心とした連立政権の動向に目を光らすのは当然のことだ。 なのに、今テレビニュースでの取り上げられ方は、新聞でいえばタブロイド版のような低レベルのものばかり。 その最たるものが、事業仕分けに対する報道だ。 スーパーコンピューター関連費用について「なぜ2番目ではいけないのか」のみを繰り返し取り上げている。 そこでは蓮舫議員の質問に答える官僚の発言はない。 これでは、こんな質問を投げかける蓮舫議員の非常識さしか伝わってこない。 本来問題なのは、この質問に明確に答えられない文部科学省の官僚ではないのか。 1番を目指すしっかりとした理由を主張できないのに数百億円の税金を請求する無神経さだと私は思うのだが、それは取り上げられない。 もっといえば、そうした官僚のいうがままに金を使ってきた過去の政権に目を向けないのはなぜだろうか。 私には意図的な作為にすら思える。 鳩山首相の優柔不断ぶりを挙げ諂い、小沢幹事長が豪腕を振るって政権に干渉していると煽り立てる。 内閣の支持率の低下を喜ぶかのように各社で取り上げる。 その取り上げ方には、ワイドショーでゴシップを取り上げるのと差がない。 ただひたすら小沢幹事長を悪役に仕立てているだけでよいと考えているのだろうか。 ニュースを見るたびに、故筑紫哲也氏が生きて

新感覚を謳うレプリカ番組

テレビ各局とも秋の編成がスタートした。 ただ、今のところ新番組でこれは!と注目するようなものは見当たらない。 そんな中で、ちょっと気になる動きが違う局で編成されている。 一つはNHKの「 ママさんバレーでつかまえて 」。 もう一つはCXの「 東京DOGS 」だ。 前者はワンシーンの公開コメディー。 後者は小栗旬と水嶋ヒロのイケメン俳優が主演している刑事ドラマだ。 この二つの番組に共通するのは、表題にも掲げたレプリカ番組ということだ。 「ママさん~」は『さまざまなトラブルがコミカルに展開していくライトでポップな舞台仕立ての新感覚コメディー』(番組サイトより)と謳っている。 だが、こうした観覧客を前にノンストップで収録するスタイルは、もうテレビ発生の頃に既に視た経験がある。 例えば、「ルーシーショー」や「奥様は魔女」などがそれで、子供の頃とても楽しみにしていたアメリカのテレビ番組だ。 だから私にとって、ワンシーンのコメディードラマという設定に新鮮味はない。 「東京DOGS」もイケメンコンビのコミカルなやり取りは舘ひろしと柴田恭兵の「あぶない刑事」を髣髴とさせる。 二人の刑事の活躍するドラマとしては1979年~1981年に放送された「噂の刑事トミーとマツ」にその基を辿ることができるだろう。 そしてこうした番組は、アメリカの刑事ドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』や『特捜刑事マイアミバイス』に大きな影響を受けているということを忘れることはできない。 二番煎じ、三番煎じだから悪いといっているわけではない。 前作以上のクォリティーで見せてくれれば文句はない。 だが、残念ながらいずれもそのレベルには達していない。 「ママさん~」では出演者全員に細かいキャラクター設定がされているようだ。 しかし、今までのところそれらが生かされているとは思えない。 舞台感覚のライブということで出演者のドタバタコメディーの面ばかりが前に出る。 演技にしても、台詞回しにしてもテンポが一定なのだ。 「ルーシーショー」のビビアンのような存在感を持った出演者は今のところいない。 黒木瞳は今までにないコメディーということで熱演しているが、全員が同じテンションで熱演するからただ喧しいだけのコメディーになっている。 もう少し台詞回しなどにメリハリがあってもよいのではないか。 「東京DOGS」は『人間くさい刑事2

告知なしでは成立しない対談番組

ようやく期末期首のスペシャル期間が終わった。 新番組もほぼスタートしたようだ。 少し前、朝日新聞に萩本欽一さんが告知番組の氾濫に苦言を呈していたという記事があった。 確かに、昼の時間帯の番組表を見ると、その局の新番組のPR番組だらけだ。 新シリーズとなる同じ番組の再放送であったり、同じ俳優の出演番組だったり。 加えて、本編を放送する前にメイキング番組を制作してまでPRに努めるという節操のなさだ。 本編の前にメイキングを見せるというということが、どれほど本編の興味を削ぐことなのか理解しているのだろうか。 NHKまでもが、民放に負けじと、どぎつく同様の番組を作るのだから悲観的な状況だ。 そうした局の姿勢を、醜いととさえ感じている。 8月に亡くなった山城新伍さんは、以前「作品のNG集は見せるものではない」と主張していた。 役者も制作陣も、できあがった作品で勝負するもので、いくらPRのためとはいえそうしたものを見せるのは恥だというのだ。 私が30そこそこの頃のことだったが、その意見には賛成だった。 テレビ局が搾り出す制作費削減策と、視聴率獲得へのアイデアには恐れ入る。 だが、残念ながらその努力は正の方向に向かっているとは思いにくい。 実際、そうしたPR番組がどれ程の効果を挙げているのかは疑問だ。 冒頭の欽ちゃんの記事では、売れた番組ほどPRはしなかったという。 テレビのPRに躍起となっている姿勢が見て取れるのはそればかりではない。 いわゆる対談番組に出演するタレントはほとんどがPRが目的だ。 それは私が総合演出をしていた昼前の番組にも同じことが起こっていた。 タレントの対談コーナーの出演者探しが難航していたのだ。 タレントの側としては、対談番組に出演して自分の素顔まで晒すのは御免だという思いがある。 そこで、番組側としては何か出演してもらえるメリットを作らなければならない。 そこで、新番組や彼らの仕事のPRをさせるからというのが交換条件となった。 今はそうした裏事情はどこへやら。 もっと直接的にプロモーションが展開される。 最近ではニュースの企画コーナーとして公然と映画や新番組のPRをする。 ジャーナリズムとして取り上げなければならない現実は山ほどあるというのに…。 こうして自らメディアとしてのテレビの首を絞めている。 そうした番組を視るたびに、それがテレビの発する断末魔の

自ら閉ざす可能性

「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」 桂歌丸師匠がNHKのスタジオパークで日本テレビの長寿番組「笑点」について語っていた。 数年前、局側から1時間番組するか、30分番組にするかと打診されたという。 出演者たちの一致した選択は30分だった。 そして冒頭の言葉につながる。 「笑点」の出演者たちは高齢化し、人気芸人の出演も少ない。 内容もマンネリといわれてもおかしくない。 そんな「笑点」だが、長寿なだけでなく今も高視聴率を保っている。 ある意味お化け番組だ。 その理由の一端を、芸の世界に生き、客の空気を読みきった落語家たちはしっかりとつかんでいたということだろう。 それに反するのが今のスペシャル期間の長時間番組化の傾向だ。 3時間ドラマなんていうのは当たり前。 ところが、大作という謳い文句のわりに薄っぺらな内容にガッカリさせられるのが常だ。 そもそも今のテレビマンたちは、3時間を超えるドラマがテレビというメディアに適合していると思っているのだろうか。 映画でさえ3時間なんていう作品はほとんどないというのに…。 コレデモカとばかりにCMが入るのに、実質2時間以上の番組に視る側のテンションが保たれるはずもない。 一方バラエティーもまったく新鮮味がない。 4時間以上も若い人気タレントたちのワンパターンのバカ騒ぎを見せられる。 そうした、視聴者がもう辟易している演出手法をNHKを含む各局で繰り返している。 それはある意味タレントの浪費でしかない。 そうしてどこにでも顔を出すタレントたちは、歌丸師匠が言った「もうちょっと視たいと思わせるとことで終わるのが長寿の秘訣」の対極にある。 テレビは自らの可能性を放棄し、タレントを浪費してまでしてなぜスペシャルにこだわるのか。 あくまで邪推だが、昨今の春夏秋冬の期末期首スペシャル枠の長時間化の狙いは制作費の削減だろう。 そうした経営戦略によって、つまらない番組を編成するテレビ局。 それを平然と受け入れるテレビマンたちに疑問を感じるのは私だけだろうか。 今のテレビが視聴者の求めるところと相反した番組を平然と作っていることに危惧をいただいている。 テレビというメディアがそのメディアの特性を放棄しているように思えてならない。 以前私が現役だった頃、ある経営者が言った言葉がある。 「現行番組の制作費の削減はしない。でも、新番組

スターは老いてもオーラを放つ

NHKスペシャルで2週にわたり「 ONの時代 」を放送した。 戦後最大のヒーローといわれる長嶋茂雄氏と王貞治氏にスポットを当てた番組だ。 長時間のインタビューをベースに当時の映像や、二人を見つめ続けた人たちの証言で綴っていた。 第一回「 スーパーヒーロー 50年目の告白 」は現役時代の二人。 天才長嶋と努力の王といわれた二人の現役時代の栄光と、その影に隠れた並々ならぬ努力が語られていた。 第二回目「 スーパーヒーロー 終わりなき闘い 」は現役引退後監督となった二人の苦悩を見つめた。 二人共通するのは、日本中の人々の「期待」に応えようと、懸命に努力してきた姿だ。 当時の人々にとって、長嶋氏の天真爛漫な明るさに夢と希望の象徴だった。 そして王氏の真摯なまでに打撃に向き合う努力に生き方を学んだ。 対照的な二人だが、人々の期待は高まってゆく。 長嶋氏は一般の人にはボロボロになる程の練習を見せることはなかった。 しかし、人々の高まる「期待」に常に応えるべく、血みどろの努力を怠らなかったという。 それは二人が金字塔を築き上げた現役時を過ぎ、監督となってからも形を変えて彼らに圧し掛かっていた。 私たちには想像もできない重圧と苦悩がそこにあったことが語られていた。 そして互いに病に倒れる。 そんな状況にあっても彼らは人々の「期待」を担い、それが自分たちの存在価値であるかのように受け入れていた。 「期待」に応える。 そのことの重さを知っているのはきっと歴史上でもこの二人だけだったろうとさえ思う。 私は真にON時代に成長した。 王氏のような努力タイプではなく、長嶋氏の天才的なプレーと、明るさに憧れた。 自分も同じようにできるものだと、いつしか勘違いをしていた。 だが、光のあたらない部分で、長嶋氏だって辛い練習に耐えていた。 ただ、彼はそれを人々に見せてはいけないと自らを律し続けた。 脳梗塞による後遺症でしゃべることにさえ苦労する長嶋氏。 だが、その目は、過去の栄光を語る時、低迷するチームの監督として苦悩したことを語る時、彼の気持ちを雄弁に語っていた。 50年前に二人が共に泥にまみれた多摩川グラウンドに立ったときの目には、あの時に近い輝きが蘇っていた。 そして、長嶋氏がサードの定位置に立ったとき。 そして、二人揃ってバッターボックスに立った姿。 それは単に回顧というレベルではなく、様々な

絶叫がぶち壊す作品の空気

TBSの2時間スペシャルドラマ「 母の贈物 」を視た。 向田邦子さんの生誕80年を記念して企画された番組だという。 原作は故向田邦子さん、プロデューサーは石井ふく子さん、演出は鴨下信一さん。 いずれもテレビドラマの世界で大きな金字塔を築き上げた人達だ。 向田邦子さんは独特の人間模様を描き出す脚本家として高い評価を得ている。 しかし、私にとっては、若い頃楽しんでいた「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の脚本を書いた人。 強い印象があるのは、NHKで「阿修羅のごとく」という作品くらいで、今のような評価を受けるほどの人だとは思わなかった。 鴨下氏は、「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」を演出したことで知られるが、いずれもそれ程好きなドラマではなかった。 石井ふく子さんはいわゆるホームドラマというスタイルを作り上げた人。 数々のヒット作を世に出したのと同時に、多くの脚本家を育て上げた。 確かに実績のある先輩達ではあるが、個人的にはさほど影響を受けたというわけではない。 「母の贈物」は「阿修羅…」に近いタイプのドラマで、向田邦子独特の人間模様が繰り広げられていた。 家族とは…、親子とは…と問い直してくるのも末期の向田作品に通じるテーマだ。 スペシャルというには、華のある出演者が出ているわけではない。 それよりも難しい背景を持った人物像を演じきれる人を選んだのはさすが石井プロデュース。 若い2人はともかく、竹下景子さん、石坂浩二さん、萬田久子さんもしっかりした役作りでそれに応えていた。 演出も、いまのドラマの作りとは一線を画すものだった。 たとえば、主な舞台を引越しが終わった娘のアパートと、結婚相手の家にしていた。 多分、番組の70%以上はこの2箇所だったのではないだろうか。 こうした変化のない場面設定でも閉塞感を感じさせないところ。 それに、突拍子もないことが起こったにもかかわらず、淡々と、しかしメリハリの利いたストーリーを展開ていたところに、この作品の質の高さを感じさせた。 これは演出と脚本の綿密に編上げたプランの勝利だといえると思う。 ただ、終盤に入り、母から長い間恋人がいたことを知った息子が絶叫するシーンでそれまでの空気をぶち壊した。 「ワ~ァッ!!!」という絶叫はテレビというメディアに相応しい表現だとは思えない。 それが舞台や、映画と違うメディアとしての特性のひと

熱演が作り出す疎外感

秋のスペシャル番組が編成される時期が来た。 どれをとってもあまり面白いとはいえない番組が編成されている。 もうこんなスペシャル枠の編成期間はなくしてもよいのではないか、と思ってしまうほど興味をそそる番組が少ない。 そんな中、ちょっと気になるドラマがあった。 テレビ朝日の「 だましゑ歌麿 」だ。 このドラマの原作は高橋克彦氏の同名小説。 歌麿は謎のベールに包まれた絵師で、その分作り手の側がいくらでも創作することができる。 どんな風に歌麿を創るのかと興味を惹かれた。 ストーリーは、愛妻を殺された歌麿が、その犯人を突き止め復讐を遂げるまでを描くサスペンス。 敵を討ち取るまで、歌麿が準備した用意周到な計画を『だましゑ』だとしている。 主人公の喜多川歌麿を水谷豊さんが演じた。 結論は、残念ながら食い足りない作品だった。 サスペンスというにはあまりに薄いつくりだったし、歌麿という人物像が描ききれていたとも思えない。 彼を取り巻く人々の描きこみも希薄だ。 松平定信が推し進めた寛政の改革が巨悪のような設定だが、そうした時代背景の描き方も不明瞭だった。 唯一、捜査にあたる同心(中村橋之助)の母(市原悦子=さすがの存在感)の台詞の端々にちりばめられているに過ぎない。 映像についても、特に歌麿にアップが多用されていたが、それも理解に苦しむ。 叫び声をあげる歌麿のアップは、ホラーと勘違いしそうなサイズで、ハッキリいって気持ちがいいものではなかった。 全体的に詰まったサイズの映像は作品の価値を下げる以外に効果はなかった。 何より水谷豊の時代劇というのが、まだ体に馴染んでいない。 立ち姿や、所作に美学がないし、殺陣にしても格好良くない。 役作りに対しても疑問が湧く。 「相棒」で作り上げた沈着冷静な杉下右京と一線を画したかったのだろう。 この歌麿は悲嘆にくれる感情を露にする。 水谷の熱演といえばそうなのだろう。 だが、私にはこれがどうにも邪魔で、過剰な演技にしか見えなかった。 役者さんは、演ずる際に細かくその人物に対するイメージを作り上げる。 撮影現場でも、監督に役作りについて提案してくることも珍しいことではない。 台詞や脚本についても注文がつくことがよくあるという。 この作品でも、水谷豊の演技プランが色濃く反映していたのではないか。 だが、ある意味役者エゴが、または主役に対する制作や演出の心遣

懐メロになったニューミュージック

先日NHKで「 究極ヒットパラダイス~アラフォー・エンドレス・サマー~ 」を視た。 杉山清貴、稲垣潤一、中村あゆみ、スターダストレビュー、山下久美子という1980~1990年代を賑わしたアーティスト達が、その代表曲を歌うライブ番組だ。 番組サイトによると『アラフォー世代の心揺さぶる、「胸キュン名曲」を織り連ねた音楽番組。』だそうだ。 演奏されたのは「翼の折れたエンジェル」、「赤道小町ドキッ!」など。 この番組の視聴者ターゲットより一世代以上も年上の私でさえ知っているヒット曲ばかりだった。 でも、ちょっと待って!Play Back、Play Back!!(古いかなー) どうも熱い思いが滾らないのはなぜ? 『青春時代をプレイバックしながら(中略)、ときには思い出にひたって涙する…』ことにならないのはなぜ? この番組と前後して、「 SONGS『中森明菜・歌姫スペシャル 」が放送された。 1970年代から80年代にヒットした名曲をカバーした彼女の最新アルバムから数曲を歌った番組だ。 特に、尾崎豊の「I LOVE YOU」は、40歳を過ぎた中森明菜の感性のフィルターを通って、まさに「胸キュン名曲」として私の心に響いた。 何が違うのだろう…? そんなことを漠然と考えながら、番組を視ているうち、終了時間が近づいてきた。 トリは山下久美子だった。 彼女は昔と同様「From Bathroom With My Love」を、相変わらず「♪フロム・バスルーム・ウィズ・マイ・ラブ」とカタカナ英語で歌っていた。 そのとき、私の中の違和感の理由が分かった。 これは「懐メロ」なんだ。 今ここで歌っている人達には《今》がない。 過去の遺産を引きずっている彼らは、懐メロ番組で過去の栄光にすがるオジサンやオバサン歌手と同列なのだ。 キーが下がり、音域は狭くなる。 声量も唖然とするほど衰えてゆく。 それは年齢の宿命だ。 そこに活動の場の減少が拍車をかける。 でも、人間としての年輪が楽曲の深みを作り出すことは十分できるはずだ。 例えば、忌野清志郎は「雨あがりの夜空に」でギラギラしたパワーの発散から、歳とともに愛情表現へと深みを持っていった。 明菜は過去の名曲たちに、オリジナルとして初めて聞いた時とは違う、年齢なりの高揚を映じていた。 そうした変化こそがミュージシャンが《今》を生きている証しだと思う。 全盛

制作会社が直面する厳しい現実

今、番組制作会社にかつてないほどの危機が迫っている。 それはテレビの破綻にも通じかねない危険性を含んでいる。 その脅威は、実は制作会社とテレビ局との関係が生み出しているとしか考えられない。 根本的な原因はテレビ局にある。 ほとんど全てのテレビ局は、企画に関して表向き門戸を開放している。 編成局が中心となって、良い企画があればどんどん採用すると明言しているのだ。 ところが、現実は制作会社にとってそれ程恵まれたものではない。 仮に企画書を受け取ってくれたとしても、読んではくれないという。 制作局のプロデューサーにせよ、編成局にせよ、企画を受け付けるのは実績のある制作会社だけだというのだ。 だから中小の制作会社は、何とかして局のプロデューサーと人的交流を作ろうとする。 その第一歩はADの派遣だ。 私達がテレビに入った頃とは比較にならないほど人気がなくなっているAD。 そんな今でも消耗品であるということは変わらない。 1週間と持たずに辞めて行くなんていうことはさほど珍しいことではない。 常に人材不足、というより人員不足。 そこにせっせと人を供給することで、プロデューサーとの関係を構築しようというのだ。 少しでも恩を売る形になれば番組制作のチャンスが生まれるかもしれない。 ようやく制作のチャンスが生まれると、AD派遣の投資分も取り返そうと思って利潤追求を狙うから、余計品質が下がる。 ところが局の方は制作会社を出入りの業者程にも見ていない。 だから制作費は出さないくせに要求だけは山ほど出してくる。 この要求を呑まなければもう次のチャンスはないから、赤字覚悟で現場をころがすしかない。 そうしたことから倒産する制作会社が5年ほど前からどんどん増えているという。 もう一つ大きな脅威となっているのがプロダクションの制作部門や関連会社の進出だ。 吉本興業や渡辺プロ、ホリプロなど大手のプロダクションが所属する人気タレントの出演を条件にした番組を企画し、制作するのだ。 その分かりやすい例は、CXで渡辺プロが制作しているの「 ウチくる!? 」だ。 中山秀征はじめ、青木さやか、ビビる大木と渡辺プロのタレントが顔を連ねる。 制作力や演出力はさておき、実績のあるタレントや今ノッテいる人気者が出演するのだから、それなりのクォリティーは確保できる。 テレビ局にとってはとっても安心できる番組となるわけだ。

4~6月の番組をザッとレビュー
ドキュメンタリー篇

NHKがドキュメンタリー・教養というジャンルに特に力を傾けている印象を受ける。 「 追跡!A to Z 」や「 ワンダー×ワンダー 」など番組数も増えているようだ。 それぞれ、どうだ!とばかりの取材力を駆使したものあり、CGや特殊機材を駆使した謎解きありと、良きにつけ悪しきにつけNHKらしい番組となっている。 そんな中で私が注目している番組が3つある。 その一つは木曜日の23時から放送されている「 大人ドリル 」だ。 これは加藤浩次と渡辺満里奈に、各回のテーマにあわせたスペシャリストであるNHKの解説委員陣が解説してゆくという番組。 こう書くととても堅苦しそうな番組思えるけれど、実はそんなことはない。 いってみれは大人のための「子供ニュース」のように、身近な大問題をとても分かりやすく解説してくれる。 何より解説委員たちの表情が「 時論公論 」のように、いかにも「私はNHKの解説委員ダカンネ!」となっていないのが良い。 時に解説委員同士の見解の違いがあると、しっかりやりあってくれたりして、それはそれで楽しい。 こうした空気を導き出す2人のMCの力も侮れない。 教養番組という範疇でありながら、高尚な娯楽番組を視るような気分で楽しみながら視る事ができる。 40人も解説委員をかかえているNHKならではの番組として光を放っている番組だ。 もう一つは「 チェンジメーカー 」という番組。 しっかりお金儲けをしながら世の中を変えていく社会起業家たちを紹介している。 貧困、環境、紛争などの問題を独自のアイデアで解決し、市場システムを利用して利潤をあげ、活動を維持、発展させていく人たちの物語だ。 私達が発展途上国への貢献ということを考える時すぐに思い浮かぶのはボランティアだったり、寄付だったりする。 それはどこか面映ゆい思いをすることも否めない。 それが本当に現地の人達のために役立っているか疑問に思うこともある。 だが、世界的な難題にビジネスという観点から立ち向かうという発想はちょっと驚き。 潔く思える。 もちろん起業家といってもビルが建つような巨万の富を狙うというわけではない。 その活動を続けるための収入の道を確保するというレベルのことだ。 こうした活動を維持し、発展させてゆくところにまで視野に入れている姿は頼もしささえ感じさせてくれる。 新たな海外協力の形を提示してくれる番組として

4~6月の番組をザッとレビュー
ドラマ篇

4月以来ジックリとテレビに向き合うことがなかったため、暫く休眠状態にしていた。 ちゃんと視てもいないのに、批評めいたことを書くことが僭越なことと思ったからだ。 ただ、何もしないというのもどこか寂しい気がする。 ということで、6月も終わろうとしているところで、4月からの1クールをトータル的に振り返ることにした。 今日はちょっと心惹かれたドラマについて。 CXの「 BOSS 」は映像処理と天海祐希さんの魅力で存在感を持った番組だった。 個人的には戸田恵梨香さんと吉瀬美智子さん目当てでチャンネルを合わせた。 スタート当初は明らかに「24」に影響を受けた映像に対してストーリーに物足りなさを感じていた。 キャストの顔ぶれや、そのキャラクター付けがいかにも《狙いました》という感じであることもその要因だったろう。 ストーリー展開のテンポも空回りしているような感があった。 ところが、6話で志田未来さんが演じる高校生が犯人となった回でこの番組の目指すところがハッキリしたようだ。 卓越した能力で捜査陣の大人たちを手玉に取る女子高生を演じた志田未来さん。 その天才的な演技力を引き出したストーリーはこのシリーズの中でも高いレベルにあったに違いない。 天海祐希さんと志田未来さんのやりとりは、二人の歳の差を感じさせない白熱した空気を画面から発散していた。 きっとこの作品で作り手側が狙っていたのは、こうした心理戦だったと思う。 そこには林宏司脚本の煌きがあった。 彼の作品で記憶に残るのは、同じCXの「コードブルー」だ。 この作品では若い救命救急医の心の葛藤=静と、ヘリで出動し災害現場で働く動の切替を巧みに編上げられていた。 そしてちょっとした笑いを誘う部分も隠し味として効いていた。 それこそが林宏司さん脚本の世界ということなのだろう。 このドラマが目指したのは、映像処理と同様に「24」が作り上げたような緊迫の心理戦の時間だったのだろう。 ただ、緊迫した容疑者と主人公の捜査に対して、レギュラー陣の日常やキャラクターづけなどにくどさを感じた。 とはいうものの、最近もう食傷気味になっているテレビ朝日的サスペンスとは違う新しい刑事ドラマを作り上げたのは、高く評価したい。 そのテレビ朝日の2本のドラマにも注目したが、残念ながら健闘どまりの作品だった。 それは「 臨場 」と「 夜光の階段 」だ。 「臨場」

ニュースに不満と不信が増幅中!

今月始め、高速料金が特別料金を設定した際のテレビニュースについて書いた。 その後テレビをしっかり見る時間がなく、ニュースさえも見る機会がなかった。 先日、SMAPの草彅剛が公然わいせつ罪で逮捕が各局で取り上げられた。 NHKをはじめ民放各局がトップニュースとして取り上げていたが、その内容がどうにも気に入らない。 草彅君の酒癖の悪さは聞いていた。 だから、とうとうやっちゃったか、というのが率直な感想だった。 これが彼でなかったらこれほどの騒ぎにはならなかったろうにとさえ思った。 ただ、草彅君の謝罪会見が事実上の幕引きで、その先の報道は一切ない。 SMAPではこれで2度目の不祥事だというのに、事務所からの釈明は、あのジャニーズ事務所には不釣合いな総務部長のコメントだけ。 前回も今回も犯罪というには確かに軽い部類に入るものだ。 ただ、大相撲ではマリファナを吸引していた形跡だけで解雇だった。 それに対して、活動自粛というのは重いのだろうか、軽いのだろうか。 ジャニーさんの管理責任など言及したのが微塵もなかったのも疑問が残る。 同じ事務所の、同じグループのメンバーが犯罪を犯したことを、個人の問題と無視してよいことなのだろうか。 そこをこそ、報道はつくべきなのではないか。 もし、ジャニーズ事務所の影響力を意識して追及の矛先が鈍ったのだとしたら大きな問題だ。 そんな不満が募っている中で今度は豚インフルエンザの問題だ。 最初、テレビのニュースでは「熱して食べれば安心」と国民の不安を解消するためのコメントが目立った。 次いで、各国の患者発生数に集中して、今はWHOの警戒レベルが「フェーズ4」から「フェーズ5」に上がるかどうかに集中している。 羽田空港の検疫体制が杜撰だったというのをすっぱ抜いたのが唯一の『でかした報道』だった。 だが、今回の豚インフルエンザの巻き起こす問題点の本質をしっかりと捉えた報道はまだ目にしていない。 メキシコの養豚業に従事する人達の切実な現実もまだ私達の目に届いていない。 日本とメキシコはFTA(自由貿易協定)を締結していて豚肉はその中でも重要な品目の一つだ。 メキシコで発生したこの病気は瞬く間に世界、なかでも先進国といわれる国々に飛び火している。 各国は、当然ウィルスの侵入を防ぐことに必死になるはずで、現に日本でも海外からの物流を4空港と3港に限定する策まで

低調の度を増す新ドラマ

このところ仕事の関係からテレビを見る機会が極端に減っている。 とはいうものの、テレビが点いている時間は他の人より長いに違いない。 そんな中、今日22日の夜は久々にテレビドラマを視た。 そして、残念ながらガッカリした。 夜9時からはテレビ朝日の「 臨場 」。 主演は内野聖陽さんで、倉石義男という鑑識課の検視官を演じている。 他人の見立てに対して「俺のとは違うな」が口癖で、上司にも平気で盾を突く。 その設定にまずガッカリ。 役作りに厳しいといわれる内野さんに主演してもらうためとはいえ、設定自体に首をかしげるようではドラマの世界に入り込むこともできない。 大体、上司や捜査一課の刑事達にも楯を突くというのはどうなんだろう。 せめて、沢口靖子さんの「科捜研の女」のような独自のこだわりを持った検視官という設定でドラマにできなかっただろうか。 それに、検視官とか鑑識課という設定にももう飽きてきた。 検死については以前高く評価したCXの「VOICE」があっただけに、もうできったという感は否めない。 また、内野聖陽さんの演技も前作の「 ゴンゾウ~伝説の刑事~ 」の黒木とあまり変化がない。 彼ほどの役者であれば、もっとオリジナリティーのある役柄を要求しても不思議ではないと思うし、その分新たな役作りにもチャレンジして欲しいと思う。 続いて、日本テレビの「 アイシテル 」を視た。 今注目している稲森いづみさん主演のドラマだ。 5年生の少年が子供を殺害したというショッキングな事件を通して、加害者と被害者の家族を描いてゆくという。 番組サイトによると、ヒューマンドラマで、家族の愛の物語だそうだ。 そして見た人に家族のあり方や子供との向き合い方を考えてほしいという。 ところが、ショッキングなテーマと設定を捉えたにもかかわらず、描き方は平板。 ストーリー展開にしても、予想を裏切ることなく進む。 そして、それぞれの出演者の演技も単調で“いかにも”というありきたりなものだった。 第2話までのところでは、君塚良一監督作品の映画「 誰も守ってくれない 」が描いてみせたほどの緊迫感もなく、リアリティーもない。 社会の矛盾という面にも切り込めていない。 二番煎じといわれても、「誰も守ってくれない」が見せてくれたドキュメンタリータッチの映像化という手法をとっても良かったのではないか。 その中でテレビ的な表現を見

ユーミンの優しさに震えた

「 SONGSスペシャル「松任谷由実 part1」 」がNHKで放送された。 2週連続の1回目だ。 今回は、ヒット曲や代表曲を網羅したというより、一般の若者からの要望に応えたドキュメントが中心となって構成されていた。 ユーミンは偶然にも私と同い年で、同じ八王子出身。 母は、彼女の実家の呉服店とも付き合いがあった。 そんなせいだろうか、彼女が鮮烈にデビューした時、妙にライバルのような意識でそのヒットを見つめていた。 その後、彼女はそのもてる才能を発揮して音楽界の新たなページを創りだし、不動の地位を築き上げた。 私の見る目はライバル視からジェラシーへと変わっていった。 だから、彼女の活躍をあえて見ないようにしていたところもあった。 テレビ番組に出演しないというのも好都合とさえ思っていた。 まったく、私の一方的な思いからだ。 今回の「SONGS」で見せてくれたユーミンの素顔は、それまでの私の松任谷由実感を一変させた。 長崎の高校生から寄せられた投書に応えて作った愛唱歌が石碑になって、その除幕式で垣間見せた涙。 蓼科の中学生の卒業式に来賓として招かれ、母親のような優しい眼差しで見つめていたその表情。 そしてそれぞれの場で述べた祝辞の飾らない、そして「人を想う」心をこめた言葉は、これまでの私の勝手な誤解を瓦解させた。 ふとした出会いから始まった蓼科の中学生達と『卒業写真』を合唱したときの彼女の真剣さは心を打つものだった。 全員でユーミンの弾くピアノにあわせて合唱したのだが、そのとき彼女はとても暖かく、そして真剣に中学生の指揮者を見つめながら演奏した。 その目は単に番組が仕組んだ演出ではありえない、ぬくもりがあふれていた。 一つの時代を築き、もはや揺らぐことのない地位にあるユーミンの心の平安がそこに感じられた。 そのとき、音楽番組である「SONGS」はドキュメンタリーとしての存在感を持って私達に迫ってきた。 そんなユーミンが、深夜、フジテレビの音楽プロモーションの番組に出演していた。 その中で、最近発表した楽曲のダウンロード数がすごいけれど、CDは一向に売れないと嘆いていた。 あー、あのユーミンでさえプロモーション番組にでて、PRに努めなければならない時代かと、ちょっと寂しさを感じてしまった。 ただ、売れないという事実を平然と語る彼女に、若かりし頃のパイオニア的なギラギラした

期待倒れの歴史秘話

姉からNHKの「 NHK歴史秘話ヒストリア 」が見やすくて面白かったといわれた。 「その時歴史が動いた」の後継番組で、歴史の裏にあるエピソードを取り上げる番組だそうだ。 ナビゲーターは渡邊あゆみアナウンサーが務める。 姉の意見を尊重したわけではないが、今真に歴史ブーム。 「その時…」からどのように模様替えしたのか、楽しみにしながら視ることにした。 結論からいうと、取り上げている題材や着目点は確かに面白い。 歴史マニアにも十分納得できる内容だと思う。 ただ、今回の改編の主眼点は、今の歴史ブームにのるところにあったのではないか。 というのも、このブームは女性が牽引している。 だからこその渡邊アナの起用だったはず。 「その時…」の松平定知キャスターと比べれば比較にならないほど柔らかい印象はついている。 だが、やっぱりNHKの女子アナウンサーの顔は拭いえていない。 渡邊アナの素顔は“天然”の部分もあり、とても楽しい人だと聞いたことがある。 以前は、失言スレスレの発言もあったらしい。 だけれど、この番組においてはそうした彼女の持つ素の面は影を潜め、やっぱりNHKのアナウンサーか…、という域で止まってしまっている。 番組では随所に美人アナウンサーとしてならした渡邊アナに衣装や動きに演出を加えている。 だが、そうした制作サイドの狙いが生きるほどまでに渡邊アナが消化しきれていないのは残念だ。 同じ、隠されたエピソードを解き明かす番組なら、「 クラシックミステリー名曲探偵アマデウス 」が面白い。 筧利夫が探偵・天出臼夫として番組をナビゲーションしている。 クラシックの名曲の真髄を見つめながら、その曲が生まれるまでの隠されたエピソードを解き明かしてゆく。 毎回探偵事務所に調査依頼に来るという設定には評価が分かれるかもしれない。 しかし、名曲誕生の裏にある秘められたストーリーと、それを踏まえての演奏はクラシックファンならずとも楽しめる。 なにより筧の演技が制作サイドが狙っている探偵というスタンスを演じきっているところにこの番組のオリジナリティーを感じる。 その点が、渡邊アナとの明確な違いだ。 どちらの番組も膨大な資料と、綿密な調査と取材をベースに成立している、ある意味レベルの高い番組だ。 それだけに、しぐさやコメントの細かい表現についても、重箱の隅をつつくように修正をはかってもらいたいと

疑わしい「ケータイ大喜利」

NHKの「 ケータイ大喜利 」という番組がどうしても気に入らない。 毎月第一と第三土曜日の深夜に放送されている。 内容は、生放送中に出題される大喜利のお題に、視聴者が思いついた「答え」を携帯電話からメールで投稿するというもの。 実は私もテレビ屋時代に「うるとら7:00」という投稿で成り立つ番組を演出していた。 そうした経験からいわゆる投稿番組というのは嫌いではない。 一般の視聴者から寄せられるアイデアというのは、プロの作家が作るネタにはない笑いを提供してくれる。 実際、「ケータイ大喜利」にも数多くの笑いの種が集まって来る。 ではどこが気に入らないのか。 それは番組の最期に発表される応募数だ。 この数字がどうにも胡散臭い。 4月4日の応募総数は420,712本だったという。 これはたいへんな数字だ。 大体、視聴率1%は約60万人の人が見ていることになるといわれている。 ということは、この応募数は視聴率では0.7%に匹敵する。 この番組を見ている人全員が投稿するとは思えない。 その逆に1人で何回も投稿する人はいるかもしれない。 そうしたことを相殺して、どんなに多く見積もっても見ている人の約2~3%程度が投稿していると考えるのが一般的だろう。 ということは42万人の50倍近い人が見ているということになるわけで、それはなんと視聴率35%ということになる。 土曜日の深夜に視聴率35%というのはありえない数字だ。 仮に見ている人の10人に一人が投稿したとしても、視聴率7%ということになる。 何より信じられないのは、この応募総数が、放送時間が短かった時を除いて一度も(少なくとも私が視たとき)数が減らないのだ。 真にうなぎのぼり。 現実に、そんなことってあるのだろうか。 違う視点から見てみよう。 これは45分番組で、投稿可能な時間は40分を切るだろう。 ということは、1分間に1万件以上の投稿があるわけだ。 これをどうやって種別、選考しているのか想像すらできない。 作家を何人集めているというのだろうか。 送られてくる内容の99%は駄作だろうが、その中から秀作を探し出すというのは人間技ではない。 結局、この数字はウソだとしか思えない。 現実的には、40分間でに500本の投稿でさえ処理しきれないと思う。 そんなウソをベースに成り立っている番組を許すわけにはいかない。 特にこの応募数はNH

ニュースの浅薄さを晒した高速代値下げ

3月28日から期間限定で高速料金が値下げされたという。 ETCでの支払いに限定されているというが、どこまで走っても1,000円。 都心部など一部の路線は対象外だというが、ずいぶん思い切った政策だ。 テレビのニュースでは値下げスタート以前から、ETCを購入者が増え、品薄状態になっていること。 渋滞が頻発する路線や、サービスエリアの駐車場などの対策が急がれていること。 利用者減が予想されるフェリーを運航している会社の不満の声。 また、マイカー利用者達の旅行の予定のインタビューなどによって期待感を募らせていた。 値下げ当日は、ヘリまで飛ばして東名高速の混雑状態をレポートし、アクアラインを使ってドライブして「本当に1,000円だった!」と大きな声を張り上げていた。 海ホタルでは利用者の声。 「行動半径が広がって、これからもマイカーを利用することが多くなりそう」。 黒磯・板室ICオープンに観光客が増えると喜ぶ黒磯市長の談話。 真に値下げ万歳!ナイスな経済効果政策!の空気に満ちていた。 私は元は大の車マニアだったのだが、今は売ってしまったのでこの恩恵を受けることはできない。 だから、というわけでもないのだが、この値下げについては冷静に見つめている。 そうすると、いろいろなことが「それでいいのだろうか?」と思えてくる。 第一に、ETC装着車が伸び悩んでいたことの打開策ではないかという疑念。 国土交通省がETC導入後ずいぶん長い間利用率が上がらなかった。 いまはようやく75%くらいまでになっているというが、それもいろいろな割引制度を乱発したことの所産だ。 ETCは単に料金支払い時の渋滞緩和が目的とされているが、それだけで国土交通省が普及に躍起になるはずはない。 その先の狙いは、物流システムの再構築と効率化の推進だ。 そのためにはどうしても利用率を上げなければならないわけだ。 今回の値下げがその最終手段なのではないか。 それから、気になるのはテレビや新聞の取り上げ方だ。 いずれも観光や行楽という視点からばかり取り上げていた。 だが、そもそも道路、なかでも高速道路というのは狭義の物流をベースに考えるべきではないのか。 だから、今回の値下げもそうしたところから見つめてゆく必要があったはずだ。 それでこその経済効果策なのではないか。 単に行楽のメリットというだけではそれ程の経済効果があると

スペシャルの季節で省エネ

3月もあっという間に過ぎ去ろうとしている。 民放各局では先週からゴールデンタイムにスペシャル番組を編成している。 全く困ったものだ。 というのも、なぜこの時季にこの番組を3時間以上も見せられなくてはいけないのか。 その根本的なところが見えてこない。 どの特番を見ても、出演者達の顔ぶれは同じで、座っている位置が違うだけ。 リアクションにしても案の定のボケと突っ込み。 ただスタジオが騒然としているだけのバカ騒ぎだ。 自分もそうした番組も作っていたが、今の特番よりはましだったように思う。 歳のせいかな? 何もスペシャル番組を作ってはいけないというわけではない。 でも、作るのなら放送するだけのスタンスがほしいと思うのだ。 例えば「全日本仮装大賞」。 放送回数が減ったけれど、仮装大賞は正月、GW、9月の連休と放送時期が決まっていた。 最近これに近いといえば、TBSのマラソンやゲームをちりばめた島田紳助さん司会のクイズ番組。 これは次のクールの番組をPRするための番組だから、期末期首に制作される必然性がある。 他局でも同じコンセプトの番組を制作しているけれども、この番組ほどのインパクトはなく、視聴率につながらないのが実情だ。 最も理解できないのは《警視庁24時間密着》的な番組。 日本テレビが、かれこれ20年近く前に放送して数字が良かったものだから、今や民放各局で同様の番組を作っている。 なんで警察官の活動を1年間に20回(民放5局が年4回放送だから)も見せられなくちゃいけないんだろう。 確かに制作サイドもこうしたレギュラー的な番組を作りたいと思っているはずだ。 ただなかなか高視聴率を記録できないから、あんな企画こんな企画と模索している。 そんな状態だから、ただ時間ばかり長く、内容は騒がしいというものばかりになる。 演出の方法にも目覚しいものはない。 特に今年はCXとテレ朝が開局50周年で、テレビ東京が45周年を迎えるから年がら年中スペシャルばかり。 もはや食傷状態だ。 そんなことなら「ヘキサゴン」のようにレギュラー番組をベースにスペシャルにした方が良いのではないか。 先日放送されたのは宮古島合宿だったけれど、それなりに楽しむことはできた。 レギュラーで慣らされている分、多少ダレてきても付き合ってゆくことはできた。 以前はそうした番組がいくつもあったはずだ。 もうちょっとレギュラ

見やすかった「黒部の太陽」

フジテレビ開局50周年を記念するスペシャルドラマ「 黒部の太陽 」はテレビ朝日の「 落日燃ゆ 」と同様、2夜連続5時間の大作だ。 記念番組という割りに出演者は「落日燃ゆ」ほどキラ星のごとく豪華俳優が顔をそろえているという感じはしない。 それでも演技に定評のある俳優が脇を固めて、名よりも実を取ったという印象が強い。 とはいえ、香取慎吾、小林薫、ユースケサンタマリアが鎬を削っているっているわけだから十分豪華出演陣であることは間違いない。 ストーリーは、黒部第四ダム建設の中でも最大の難工事といわれた大町トンネル掘削工事に苦闘する男達がトンネル貫通に成功するまでを描いている。 真に希望に向かって苦難に立ち向かう男のドラマを予想していた。 だが、いわゆる男臭さ120%というものではなかった。 主人公を取り巻く工夫たちも荒くれ男という印象はほとんど感じられなかった。 関西電力の滝山(小林薫)の家庭の事情や、熊谷組の木塚(ユースケ・サンタマリア)と倉松(香取慎吾)の滝山の長女(綾瀬はるか)を挟んでの確執などしっかり描きこまれていた。 また、沢井甚太(勝地涼)と工事現場近くの食堂で働く文子(深田恭子)との純愛と悲劇も、エピソードの域を超えて重要なストーリーのアクセントとなっていた。 さすが、女性層の支持が多いフジテレビならではのドラマといえるだろう。 ただ、そうしたストーリーの膨らみの全てが番組全体に好影響を与えているかというと、それは疑わしい。 破砕帯と呼ばれる脆弱な土壌にぶつかって、徹夜での掘削作業を続けても作業がはかどらない。 この最も大きな山場でもある困難に立ち向かう倉松たちのドラマが希薄になった感があるのだ。 山を去ってゆく男達の心の動きが伝わりきらないし、だから、そうした彼らが再び山に戻ってきた時の感動も、もう一つ盛り上がりに欠けた。 なんとなく、棘のない薔薇、種のないスイカのような印象を受けたことは否めない。 主役の倉松仁志を演じた香取慎吾さんは男達の上に立つ若き親方という役を無難にこなしていた感じ。 ただ、優しい一面を見せる演技や台詞回しの端々に、「薔薇のない花屋」で見せたようなところがあったのが惜しまれる。 小林薫さんもユースケサンタマリアさんも、これまで培ってきた演技力を遺憾なく発揮していた。 目の動きはもちろんのこと、酒を飲むときのちょっとした仕草にも配役の設

“開かれたNHK”を気取る愚挙

3月21日NHKの「 日本の、これから 放送記念日特集「テレビの、これから」-第1部- 」を視た。 民放連の会長や、NHKの副会長、嶌信彦氏、糸井重里氏などが顔を連ねていた。 それに現在テレビ番組を制作している各局のプロデューサー、放送作家もパネリストとして出演していた。 こうした人達が市民と《徹底討論》するという謳い文句の番組だ。 番組の中では、スタジオに参加している視聴者代表(どうやって選ばれたのかは分からない)の発言や、メールなどで送られてきた意見について討論が行われた。 こんな形でテレビの現在を見つめ、将来像を模索すると胸を張るNHKの姿勢にまず呆れてものがいえない。 テレビ局、中でも番組制作者は視聴者の意見を取り入れて番組作りなどするか? また、そんなことで面白い番組が作れるか? 考えてほしい。 WBCの日本代表チームを原監督は一般市民の声を基につくっただろうか。 サッカーの日本代表だって同じことがいえる。 世界一を目指すにあたり、監督が目指すチーム像があって、それを実現できる人を選んだはずだ。 そこに一般市民の声など入る余地はない。 テレビもそれと同じことがいえる。 テレビ局には、厳しい就職戦線の中からテレビ番組制作に向いた人を厳選している。 そうした選りすぐりの人達が、日夜番組つくりの現場でどうしたら面白くなるかを考え続け、研鑽しているはずだ。 いわば番組つくりのプロの集団だ。 だからそこに市民の批判の声など介入させる必要はない。 それよりも、テレビ局がやるべきことは、もっと徹底的に自分達の今作っている番組を検証することではないか。 あの吉田直哉が演出した「源義経」とタッキーの「源義経」を徹底比較し、局内で議論を戦わせ、検証するべきだろう。 その方がずっとテレビの質は高くなるはずだ。 また、視聴者からの意見に、どの面下げてそうした発言ができるのか?というように理解に苦しむものが多かった。 例えば、「視聴率に縛られた番組つくりがテレビ番組をつまらなくしている」なんていう声があった。 一度もテレビ局の実情を見たこともなく、番組つくりを経験したこともない人がどうしてこんなことがいえるのだろう??? また野球を例に取るが、北京オリンピックで日本チームがメダルが取れなかったとき。 何人かのパネリストと呼ばれる人達が星野采配を批判した。 「あそこはバントでランナー

40オヤジが綴る理想の娘の物語

3月20日テレビ朝日で「 ゴーストタウンの花 」を視た。 2009年・テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞ドラマだ。 受賞者は40歳の派遣工場作業員だそうで、シナリオを専門に学んだこともないという。 それにしては出演者達のキャラクター付けや環境など細かいところまでしっかりと書きこまれた作品だった。 最近のテレビドラマでは忘れられた感のある、高校生達の日常生活を淡々と素直に描いているドラマだ。 ストーリーの舞台は寂れたニュータウン。 そこに暮らす複雑な家庭に育つ女子高生の日常を描く。 父親はバツイチの派遣労働者で、再婚した継母とその2人の連れ子と住んでいる。 素直で明るい性格の主人公しおり(桜庭ななみ)は、学力優秀だけれども貧しさのため私立の進学校には進めず、将来は奨学金で大学に進学を目指す生徒会長だ。 学校が終わればコンビニでバイトをし、血の繋がらない妹や弟を親に代わってかいがいしく面倒を見る。 そんな彼女が親友のリナ(波瑠)から1歳年上で私立の名門校に通う従兄弟・啓(永山絢斗)を紹介される。 二人はすぐに意気投合、付き合い始める。 そしてちょっとした紆余曲折がありながらも、若い愛を育むであろう二人…。 見はじめて、どうもどこかで見たことがあるような気がした。 そう、NHKの「 アグリー・ベティー 」だ。 ちょうどの主人公のベティーと同じようなメガネをかけていて、しっかり者で家族思い。 いわゆる見てくれはパッとしないが、その性格のよさから友人達からは嫌われていない、そんなキャラクター設定。 家庭も、メキシコからの違法移民で、貧しいというところも共通している。 この番組を見終わって、50歳も半ばを過ぎたオヤジにはなんとも気持ちがよく、知らぬ間に笑みがこぼれてしまっているのに気がついた。 その理由は明確。 だって、この主人公の女の子はオヤジ達の理想像だ。 頭が良くて勉強もできる。 性格も明るく、素直で劣等生といわれるような同級生とも仲良くしている。 生活を助けるためにバイトをし、血の繋がらない妹や弟の面倒を見るのも厭わない。 ボーイフレンドとの恋だって、しっかりと節度を守っていて親にも秘密にしていない。 唯一、容姿が… と思っていたら、メガネをはずしたときの可愛いことといったらない。 こんな娘を持ちたいと全ての親が願っているはずだ。 主人公の桜庭ななみは番組途中で見せるコ

美形女優はコミカルに!

ここ数年、とても可能性を持った役者さんの充実ぶりが気になっている。 宮﨑あおい、瑛太をはじめ、上野樹里、石原さとみ、田畑智子、本仮屋ユイカ、黒木メイサ、志田未来、成宮寛貴、水嶋ヒロ、二宮和也など枚挙に暇がない。 若い芽が次々とその素質を開花させていっている。 これから作品に恵まれればもっともっと大きく開花するに違いない。 本当に楽しみだ。 ただ、今注目しているのは30代後半から40代の女優達だ。 中でも、麻生祐未さんの活躍に心が惹かれている。 元々、カネボウのキャンペーンガールで世に出て、それからは美しさだけで(といっては失礼だが)数々のドラマに出演していた。 それが、2001年NHKの連続テレビ小説「ほんまもん」で池脇千鶴と競演したあたりから転機が訪れたのではないか。 このドラマでは、日本料理店のしっかり者だがどこか“天然”の年増女中を演じていた。 あの美しさが売り物の女優がメガネをかけ、コミカルなキャラクターに挑戦していた。 昨年末から着物の着付け教室のCMで「特別じゃない日なんてないのよ」と妖しげな空気を孕みつつ少年に諭す演技はこうした流れの結実したものといえる。 それが、今年になって一層輝きを持った演技を見せてくれるようになっている。 それはシリアスな役割で光を放った作品だ。 テレビ朝日の「 警官の血 」で、内縁の夫の暴力に虐げられながらも、その男から離れられない女性。 ここでは精神的に傷を負い暴力を振るう主人公の妻(貫地谷しほり)と対比する意味があり、見事にその役割を果たしていた。 一度も表現などされていないけれど、その女性と夫の過去の生活や、女性の性のようなものさえ感じさせる名演だった。 何しろ殴られて吹っ飛んでゆくときの迫力。 ほんの数シーンだけの出演だったが、貫地谷との経験の差を見せ付けていた。 そして、先日放送されたフジテレビの「 VOICE 」では、末期がんの夫の死の原因が医療ミスではないかと疑う妻を演じた。 圧巻は、結局医療ミスではなく、実は尊厳死を望んだ夫と院長の友情によることが解き明かされた場面。 彼女の嗚咽にはそうした死を望んだ夫への愛情と、友情を全うした院長への感謝の気持ちまで凝縮されていた。 美形女優から見事に演技派女優へとステップアップしていることが伝わってくる。 それはちょうど、ハリウッドでミシェル・ファイファーのポジションに良く

もったいないよ関テレさん

3月17日フジテレビ系で放送されていた「 トライアングル 」がようやく終わった。 関西テレビの50周年記念番組ということで超豪華な出演者を揃えた。 主役の江口洋介に始まって、稲垣吾郎、広末涼子、相武紗季、堺雅人、谷原章介、佐々木蔵之介、小日向文世、大杉漣、風吹ジュン、北大路欣也という名前を見れば、つまらない作品になるはずはない。 加えて、パリや上海にロケを敢行するなどたいへんな力作というのは伝わって来る。 残念ながら、彼ら全てが好演というわけには行かなかったが、それでも他のドラマに比べれば十分魅力的な演技を繰り広げてくれた。 この出演者達の熱の入った演技に惹かれて毎週視ていたのだが、最終回が終わってなぜかホッとした。 その理由は簡単。 長いのだ。 そういえば、前作の「 チームバチスタの栄光 」も長ったらしい作品だった。 この作品と作りが似かよっていると思っていた人も少なくはないのではないだろうか。 ストーリーの核心に近づいたように思わせながら、別の殺人が起こって、作品の求める犯人ではない人が逮捕されたりするところなどそっくりだ。 「チームバチスタ…」も「トライアングル」も小説が原作だ。 きっとそれを忠実に脚色したのだろうが、テレビドラマとしてはまだるっこしかった。 また、こ全ての配役がをいかにも犯人のように描くなどというところも似ていた。 ストーリーを膨らましているつもりだろうが、逆効果だったように思えてならない。 こんな風にしているから、主人公が「なぜそこまでこだわるのか」という点がくどく感じられ、テーマが濁ってくる。 もっと原点から構成を見直す必要があるのではないか。 今、民放ドラマは10本が1クールとして構成されている。 そこで思うのだが、10本まで構成できないのなら5本完結のドラマにしたらどうだろう。 今、ほとんどのサスペンスドラマが1時間か2時間の単発だ。 そのテンポに比べて、全10時間というのはいかにも長い。 もちろん読み物として緻密に作られた原作のことを考えれば2時間というわけには行かないというのは理解できる。 ならば、5本完結にしたらどうだろう。 そうすれば、きっと無理やり引き伸ばしているような印象はなくなると思うのだが。 同じようなことは「 ありふれた奇跡 」にもいえる。 5回完結なら余分とも思えるストーリーの膨らましを排除することができる。 山田

重厚さが決め手のドラマが続いた

NHKの「 白洲次郎 」とANBの「 落日燃ゆ 」と太平洋戦争を挟んで比較的近い時代に生きた人のドラマが相次いで放送された。 「白洲次郎」は、戦後吉田茂首相の側近として日本国憲法の制定にかかわり、通産省を創設した人。 対して「落日燃ゆ」の主人公は廣田弘毅。 東京裁判でA級戦犯として唯一処刑された文民として歴史に名を残している。 この二つのドラマにはいくつもの共通するところがある。 第一は、どちらも事実をベースにしたフィクションであるということ。 第二は、戦争を回避することに尽力したものの、結果として力及ばなかった人間のドラマであること。 第三は、外国生活を経験したジェントルマンであり、背広が似合う宰相であった人間を描いていること。 第四に、スタイルと方法に違いがあるものの、GHQに対して従順でない人間の物語であること。 そして第五に、吉田茂がキーマンとして重要な役割を演じていること。 ただ、これほどの共通項を持ちながら、その内容には大きな差がある。 「白洲次郎」では(多分)35mmのフィルムによる映像が美しく、時に緊迫した空気感を切り取っていた。 その効果は、常にピリピリとした緊張感を漂わせる主人公の演技にもよくマッチしていたと思う。 ただ、こうした緊張感が主人公を演じる伊勢谷裕介さんの演技だけでなく、番組全体に流れすぎていて視ていて疲れる。 きっと映画であれば耐えられるのだろうが、テレビというメディアではその空気がドラマに入り込めない壁のようにも感じられた。 この作品を視ていて、「ゴッドファーザー」が知らぬ間に思い浮かんでいた。 そして無意識のうちに比較していた。 そこで気付いたのは、フィルム(的処理?)の割に室内のシーンなどで重厚感がないことだ。 「ゴッドファーザー」や「ラストエンペラー」のような深みは感じられなかった。 照明がとてもよい仕事をしていたので惜しい気がしてならない。 演技に関しては、主人公がいかにも鋭利な刃物のようで、なぜかずっと全力疾走しているような印象だ。 それは激動の時代とそこに生きた人を描くための演出だったのかもしれない。 だが、鋭利過ぎてすぐに刃こぼれしそうなもろさが感じられてしまった。 頭が切れる人というより、単にわがままな人というような印象しか伝わってこない場面もあったのは残念だ。 この点でも「ゴッドファーザー」のアル・パッチーノとの

テレビの原点を再発見

NHKの看板番組の一つ「 その時歴史が動いた 」が来週で終了するらしい。 そのせいだろうか、3月11日の放送分のテーマは「 歴史とテレビ 」。 テレビの開発から本放送開始、そして現代まで3つの『その時』を設定して、時代ごとのテレビの果たした歴史的な役割を見直していた。 その時1.1953年2月1日、NHK本放送開始 その時2.1969年7月21日午前2時56分20秒 アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記した時 その時3.現代 1.では、開発の歴史。 19世紀末、夢の機械として想像されたテレビが、髙橋健次郎による《イ》の文字の伝送によって現実性を持ったこと。 最初に実用化されたナチスドイツではプロパガンダの手段として活用されたこと。 日本では米ソの冷戦構造からアメリカの政治戦略の一端として開発が進んだこと。 それが経済復興を目指す産業界の思惑と合致、テレビの歴史の第一ページを拓いた、という流れを振り返っていた。 2.では、《テレビならではの表現》を作り上げた足跡を紹介。 当時の皇太子ご成婚パレードで、現場では体験できない臨場感を茶の間に届けることに成功した。 そして通信衛星の開発によって実現した月面からの生中継。 6億人が同時に見たこの映像は、テレビ表現の可能性を模索した時間の結実として捉えられていた。 3.ではその後の歴史とテレビのかかわりを見つめた。 ベトナム戦争の現地報道が生み出した反戦活動の高まり。 1989年のルーマニア革命では、チャウシェスク体制の崩壊の過程を刻々と報道。 この革命はテレビというメディアを挟んでの攻防という側面を持っていた。 その後、イラク戦争でのメディア規制や、9.11の同時多発テロの映像がテレビにつきつけた問題を今後の課題として取り上げていた。 私は、ルーマニア革命から3年ほどしてルーマニア各地をを取材のため旅した。 そのときにはまだ首都ブカレストや地方都市のいたるところに弾痕が残っていた。 中でも最大の激戦地といわれた放送局周辺では、蜂の巣のように銃弾の穴が残された住宅の塀が当時の闘いの激しさを物語っていた。 銃撃戦の間、ここに住んでいる人達はどうしていたのだろう。 そしてチャウシェスクの作った《国民の館》へ続く、広くて豪華な道路の荒廃。 デパートでは広い店内に売るべきものがなく、当然客もほとんどいない。 工事現場のよ

心休まるKFCのCM

「♪ママの手作りもいいけど~ ケンタッキーの手作りもおいしいよ~」 昼の時間帯に流れているケンタッキーフライドチキンのCMだ。 ちょっとおかあさんのお料理の腕前を立てつつ、KFCのおいしさを訴える。 その謙虚さが気に入っている。 映像は、お買い物帰りのママがKFCの匂いに引かれたのだろう、ふと店を覗く。 どちらかといえばインパクトの弱い部類に属するものだ。 ただママ役の女性の何気ないしぐさなど、細部の演出に作り手のセンスのよさが感じられる。 さすがCMを作り慣れている企業の作品だと納得させられる。 昨年の食品偽装騒動以来、キッチン用品の売れ行きが好調だそうだ。 外食を避けて、安全な食品を使って自宅で食事をする人が増えているため、と分析されているらしい。 それに追い討ちをかけるようにこの不況だ。 外食産業には厳しい時代が続くことが予想される。 そんな切羽詰った状況で作られたとは思えないような、ほのぼのとした空気感のCMはとても好感がもてる。 ところで、こんな時代になるとテレビのCMにも変化が起こる。 バブルが弾けたころだったか、サラ金のCMが民放各局にも広まった。 それまではサラ金のCMが流れるのはテレビ東京くらいだったはずだ。 それが、バブルが弾けて収入減が目前に迫ると、どの局も独自のCM規定を改めてまでして、そうした企業のCMを流すようになった。 今回の不況でも既に影響がでている。 サブプライムローンの破綻が叫ばれ、いくつもの大手企業が危機感を募らせ始めてから目立ってきたCMがある。 パチンコの新機種のCMだ。 ギャンブルの一翼を担う、パチンコ機器の会社が新作を次々とPRしている。 金のあるところには必ず擦り寄ってゆく広告代理店のしたたかさと、テレビ各局のスポット営業の悪化が同調したのだろう。 それまでの大手企業からの出稿料が減った間隙を縫って、その露出量は大躍進を続けている。 こうした傾向は、テレビがどんどん堕落してゆく兆候のように思えてならない。 このままで行くと各局のCMの倫理規定などどこへやら。 いつか風俗やソープランドなどの業界にも手を出すようになるかもしれない。 テレビが高尚なものだなどとはいうつもりは毛頭ないが、守るべき一線はあると思う。 それは外から持ち込まれる素材であったとしても越えてはならないもののはずだ。 民放も一つの企業である以上、利潤追求

果てしなく募る危機感

昨年あたりからずっと感じていたことが、この金融恐慌で危機感にまでなった。 それは、今の日本が置かれている状況が80年前と酷似しているということにある。 1929年ニューヨークのウォール街の株価の大暴落に端を発した世界恐慌。 それはサブプライムローンによる金融破綻による今の不景気とシンクロする。 他にも、最近起こっている政治・経済・社会の動きの一つひとつが、戦争へと突き進んでいった過去の歴史を思い起こさせられるのだ。 まさにあの時代をトレースしているように思えてならなかった。 それが3月4日のNHKの「 そのとき歴史が動いた 経済危機、世界を揺るがす 」で世界恐慌を取り上げていたのを視て、はっきりと具体的な危機感として捉えるようになったのだ。 世界恐慌の後、日本は軍部が暴走して中国へ進出。 太平洋戦争へと突入していったという悲惨な歴史を持っている。 もちろん、私達はそうした繰り返してはならない歴史を知っているし、その頃とは比較にならないほど平和を望む大衆のアイデンティティーは高い。 しかし、忘れてはいけない。 当時、軍部が中国へ進出することを歓迎したのは国民だった。 何十万という日本人が中国や満州に進出して行ったのではなかったか。 あの時代、新聞は昭和恐慌によって勢いづかされた戦争へ流れを食い止めることができなかった。 それに対して現代。 あの時代にはなかったテレビというメディアは国の暴走を止めることができるだろうか。 インターネットは心から平和を求める大衆の声を集約し、増幅して世界の平和を維持することができるだろうか。 ひつだけ確信ともいえるような思いがある。 それは、現在のテレビ報道がイエロージャーナリズム紛いの行動しかとらない状況では、それは叶わないのではないかということだ。 インターネットはまだジャーナリズムとしてのスタンスを取り得ていない。 メディアとして未成熟の状況では、テレビに期待せざるを得ないのが悲しい現実だ。 これから先、テレビの役割は新たな重要度を課せられるようになると思うのだが、どうだろうか。

時間無駄遣いの「50す」

フジテレビの50周年特番が3夜連続で放送された。 いずれも4時間を超える枠で、音楽、笑い、事件というくくりで50年の足跡を振り返っていた。 私の年齢とほぼシンクロする音楽や、ギャグ・コント、出来事の数々は懐かしくもあり、時間の経つのを忘れてしまうほど。 分からない内容のものがでてくることで、自分の年齢さえ感じさせてくれるものだった。 さすがコンテンツの豊富なフジテレビとの感を強くした。 ただ、その演出はどうなのだろう。 スタジオ展開の部分だ。 スタジオに集まったとても50年の音楽史なり、お笑いの流儀など語れないタレント達。 それらがタレントの性だろう、テーマとさほどかかわりがあるとも思えないことでもしゃべりだしてくる。 それが分け知り顔だったりするから、イライラを通り越して怒りすら感じた。 華やかさを見せたいという狙いもあるのかもしれないが、それなら別の方法があったのではないか。 全くの時間と金(出演料)の無駄。 当然ダイジェストになるのは理解できる。 だったら、はたしてスタジオが必要だったのか。 テーマを考えればそうした考えがあっても良かったのではないか。 そんなスタジオ展開などブチ切って、1曲につき5秒でも10秒でも長く聴きたい。 さもなければ、選から漏れた楽曲やギャグを見たい。 テレビ世代の人達はそんな思いを強くした人も多いのではないか。 VTRを見て、スタジオにいるタレント達がまるで説得力のない感想をいうという演出手法が流行りのようだ。 いつの間にかコメンテイターなんていわれるようなタレントも増えている。 どの局の番組を見てもこんな構成をしているものがある。 まだ若くて、人生経験さえなさそうな女の子が老夫婦のエピソードなどに、したり顔でコメントする。 これってどうなのだろう。 バラエティーの演出手法として正しい道であるとは思えない。 もっとテーマに向き合って、スタジオ部分が必要なのかどうか思い返す必要があると思っている。 どうしても必要ならば、出演する人を厳選して、テーマにふくらみを持たせることを狙うべきだ。 制作者側がどうも安易な道を歩き出しているように思えてならない。 そんなどうしようもない演出手法を、せっかくのハーフセンテニアルの番組にとった、フジテレビの制作陣にちょっと失望してしまった。 バラエティーのCXだけに、もうちょっとオシャレな演出を期待して

伊藤さんの遺産が残したもの

2月23日のNHKスペシャル「 菜の花畑の笑顔と銃弾 」を視た。 昨年8月にアフガニスタンで殺害された伊藤和也さんの活動を描いた番組だ。 伊藤さんの遺した写真とメール、現地で共に働いた人たちのコメントで彼の足跡を辿っていた。 彼は写真という道具と手段によって現地に溶け込んでいった。 子供たちを写した写真はその過程を物語る。 最初に作った水路に水が通った時、同僚と喜ぶ伊藤さんの笑顔に日本人とアフガン人の差はなくなっていた。 サツマイモを作るための試行錯誤、不作の報告はアフガン人以上に切迫した状況と焦り伝えていた。 それは、ひとりの青年の活動の軌跡だけでなく、アフガンの過酷な自然と戦争が生み出す悲惨な現実を描き出していた。 番組の終盤。 伊藤さんの墓を掘るアフガンの人々。 一面の菜の花畑を背景にした子供達の笑顔。 そんな一つひとつのカットに伊藤さんと現地の人々との心の交流が感じられた。 そして新たな農場で現場監督となった、伊藤さんと働いたアフガン人を紹介するときの言葉。 「彼はイトーと一緒に働いていた人だ」 その一言が現場で作業するアフガン人たちの信頼を得る最も簡単で、確実なものだったことになぜか安堵した。 最後にそのアフガン人が語った言葉。 「イトーはいろいろなことを教えてくれた。学んだことはみんなに広めてゆく」。 力強く語った彼の表情に伊藤さんの生きた証しを見た。 アフガニスタンに対して本当にしなければならないことは何か。 軍事的な圧力によるゲリラやテロの根絶という方法は本当に正しいのだろうか。 伊藤さんと働いたアフガン人たちが語ったいくつかの言葉が印象に残る。 「作物ができればこの国のほとんどの問題は解決する」 「日本軍が来れば、日本人が狙われる」 これは伊藤さんが現地の厳しい自然に立ち向かい、苦闘した成果と、銃弾による非業の死の無念さを自問したものに感じられた。 そして、伊藤さんが築き上げつつあったアフガン人たちとの信頼関係と乖離した国際政治に対するメッセージとして私の心に響いた。 日本は、日本人は何をすべきか…

続・最近のテレビは面白くないという声に

以前に触れた「最近のテレビは面白くない」というブログについて、もう1点、最も大切なことを書くのを控えていた。 それは、テレビがつまらなくなっている原因は視聴者にもあるということだ。 テレビの歴史で、主婦連などの団体からの圧力に怯えながら番組を作っているという面を無視することはできない。 テレビが表現の自由を楯にそうした圧力に抗っても、スポンサーがその圧力に屈する。 昭和40年代から50年代にかけて「低俗番組」というレッテルを貼られて消えていった番組がいくつあったことか。 それが、次第に斬新な企画は採用されないようになり、「常識」の枠を外れた演出は今や処分の対象にさえなるようになっている。 そうしたテレビ局の姿勢は『視聴者サービス』という部署のポジションの変転が明確に語っている。 私がテレビの世界に入った頃、視聴者からの問合せや、苦情・クレームの電話は番組のデスクにかかってきた。 その後、視聴者サービスという名のクレームや問合せを受付ける部署ができた。 そこは定年を目前にした人たちの最後の働き場所だった。 視聴者から寄せられた電話を受け付けて、その内容を担当部署にまわすのが主な仕事だった。 今は担当部署を経ることなく、即役員会にかけられるようになっている局もある。 厳しい苦情やクレームがついた番組のスタッフは担当番組を変えられたり、配置転換など処分を課せられることも少なくない。 視聴者の声にビクビクしながら番組を作っているのがテレビの現状だ。 その証しに今はもう「低俗番組」なんていう言葉が新聞などで躍ることはない。 そしてそれと引換えに、テレビをベースにした大衆文化は盛り上がりを失い、とても常識的なお笑いタレントばかりが登場してくるようになったといえなくもない。 消費者団体はもとより、日本人はいろいろなものをジャンル分けしてレッテルをつけるのが好きだ。 「低俗番組」というのもその一つだ。 そのジャンルに括られた作品がどんなに優れた表現をしていても、そこに出演する役者がどれほど素晴らしい演技をしても、正当には評価されない。 先日、映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞した。 この作品の監督、滝田洋二郎氏はピンク映画出身だ。 滝田監督は蛍雪次郎さんと組んで「痴漢電車シリーズ」をはじめ、コミカルでユーモラスなピンク映画を数々世に出していた。 軽妙で洒脱なタッチの演

マラソン・駅伝中継に危機感

今日、日本テレビで「横浜国際女子駅伝」を視た。 駅伝ブームを作り上げてきたこの大会も今年で最終回だという。 このイベントのスタート当時、私は開会式などイベントの方の制作に携わっていた。 今回出場した選手のコメントに「私が生まれる前から行われている大会」というのがあり、時の流れを実感させられた。 日本テレビでは正月の看板番組「箱根駅伝」などがあり、マラソンや駅伝の中継は常に高いレベルの番組を作ってきた。 毎年、準備段階から電波障害の起こる場所を詳細に確認し、万が一のトラブルも回避できる態勢を作り上げた。 筋書きのないドラマを余すことなく見せるという姿勢は、制作技術陣も含めどの局よりも高い完成度を保っていた。 ところが、久々に視た今回の番組はどうしたことだろう。 実況をしているアナウンサーたちがこの番組を台無しにしてしまっていた。 センターに対して、第一中継車、第二中継車、バイクレポート、中継地点間の連絡がボロボロで、何度もコメントがぶつかった。 その責任は制作陣にもある。 センターでの交通整理ができていなかったし、アナウンサーとセンターの間に入るフロマネも素人並の仕事だった。 その連携の悪さは往時の日本テレビでは考えられないひどいできだった。 オンエアーモニターをつけていれば避けられたことだと思うのだが、どうしたことだろう。 そんなボロボロの中継に加えて、実況されるコメントが全くどうしようもない。 現場の臨場感を伝えるなんていうことはそっちのけで、事前に準備した原稿を読むのに必死。 これではナレーションだ。 第一中継車に乗っていたランナーズの金さんの解説などほとんど入る余地がなく、何のために乗っていたかとさえ思ってしまう。 女子駅伝ということから女子アナウンサーを起用したのはもう数年前のことだ。 女性だから理解度が低いとはいいたくないが、勉強不足ということは随所で自ら暴露してしまっていた。 中継地点でも、駅伝独特の緊迫感や期待感は全く伝わってこなかった。 私が視ることができなくなっていた間、ずっとこんな放送をしていたのかと悔しささえ感じさせられた。 何のための実況生中継なのか原点から見つめ直した方がよい。 マラソンや駅伝は高視聴率を期待できるため、毎年各局で放送される。 元々マラソンや駅伝をテレビ観戦するのが大好きな私は、そのほぼ全てを視ている。 ただ、どの局の放送か

お父さんの復権に引きずられるCM界

少し前に上田義彦氏のCMに疑問を投げかけた。 そこでCMを意識的に視ていると、いろいろと細かいところが気になってくる。 その一つの傾向が大人気のSoft BankのCMだ。 好評の要因は父親役の犬にあることは間違いない。 なんといっても、北大路欣也さんの吹き替えが素晴らしい。 バンバン更新されるどの作品においても、短い言葉の中に父の威厳を表現し、ありえない設定を見る人たちに感じさせない力をもっている。 大俳優を起用しただけの効果が十分に発揮されているということだろう。 こうした効果的な作品が好評だと同じようなものが次々制作されるのはCMの常だ。 これは前回にも書いた。 案の定、最近有名俳優がナレーションをしているCMが目立ってきた。 北大路欣也さんの吹き替えが作り出した一つの流れといえるだろう。 柳葉敏郎さんなど、普通なら画面に出てきても十分訴求力をもった、ビッグネームといわれるレベルの俳優さんたちだ。 それぞれが一般的なCMよりも深みを作り出していて、作品として高い完成度を感じさせてくれる。 映像も商品一点張りというより詩情あふれるものが多く、落ち着いたナレーションと調和して私たちの心に残る作品となっているものが多い。 ただ、CMとして考えた時それでよいのだろうかという思いが頭をもたげる。 「CMは後の世に名作だと評価されても意味がない。今、そのCMで物が売れるかどうかが大切だ。」 Soft BankのCMを作った電通のクリエーターが朝日新聞に語った言葉だ。 この点にSoft BankのCMとその後の秀作CMとの差があるように思えてならない。 単に商品名を連呼したり、押し付けがましいイメージばかりのCMはごめんだ。 一日に何度も見せられるCMだから、少しでも良い作品を視たいと思うのは私だけではないだろう。 でも、CMのクリエーターたちはそんなところでは勝負していない。 私はCMのディレクション経験はそれ程多くはないが、テレビの番組の演出に比べてCMのクリエーターという仕事の厳しさを実感させられた。 まあそうはいっても、どうせなら質の高いCMというのは視ていて気持ちが良い。 誰だって、Greeの歌より、サントリーの石川さゆりさんが歌うブルースの方が心地よいはずだ。 質も、実績もというのは厳しい要求かもしれないが、全体のレベルアップを期待してしまうのは私だけではないと

最近のテレビは面白くないという声に

「最近のテレビは面白くない」というブログに多くの注目が集まっているようだ。 私も、偶然そのサイトを訪れた。 残念ながら、批判の内容も具体性は乏しく、評価する目もしっかりした規準があるようには思えなかった。 それと、2チャンネルで展開されているような記事とコメントのやり取りなのもちょっとガッカリした。 テレビを見なくてもYou Tubeで視ればよいという意見にはガッカリを通り越した失望を感じた。 テレビとYou Tubeとは全く別物だと思うのだが…。 もう少し内容が充実していたら…というのが率直な感想。 批判するだけでなく、「テレビを面白くするにはどうしたらよいか」という見る側からの建設的な意見交換の場であって欲しいと思ってしまった。 そんな中で視聴者からテレビ局を突き動かすようなアイデアが出てくる可能性だってあるのだから。 そして、そうした中でテレビが良い形に変革していったらそれにこしたことはない。 ところで、テレビが面白くないのは今だけだろうか。 テレビの世界に憧れ、そこで30年に亘って生きた立場からいうと、それは今だけのことではない。 過去の名作やテレビの世界のエポックメーキングとなった番組でさえ、本当に面白かったのかどうか疑問だ。 仮にそれが面白かったとしても、それは毎日24時間ひっきりなしに流れる番組のほんの一つか二つでしかないはずだ。 年間に5本も面白い番組に出会えれば儲けものかもしれない。 テレビというのはそんなもののように思うのだがいかがだろうか。 はっきりいって、昔の番組は面白かったと思うのは単なる郷愁ではないか。 さもなければ、その頃は見る目が無いほど幼かったということではないだろうか。 試しに、そうした番組を今もう一度見直して見ると良い。 きっとその頃視て感じたほど面白くは感じないはずだ。 ただ、今の技術の発展がテレビのクォリティーに必ずしも寄与していないというのは実感できる。 以前、日本テレビで「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 」を作っていた菅賢治さん(現在制作局次長らしい)がいっていた言葉を思い出す。 彼はテレビのデジタル化が決まった頃、私に「ハイビジョンでバラエティーなんか撮る気になりません」といっていた。 16:9という画角の中でのバラエティーはそれまでの作りでは笑えない。 それと、笑いは広い画面の中では成立しにくいという現実も

いつまで続く「篤姫」の遺産

NHKの大河ドラマ「 天地人 」の視聴率が好調のようだ。 妻夫木聡さんの爽やかな演技が好感を持って受け入れられているのだろう。 いくら歴史ブームとはいえ、樋口(直江)兼続という一般的な知名度がない人を描いているのにしては予想外の好成績といえるのではないか。 ただこの高視聴率、どうしてもあの「篤姫」の影響のように思えてならない。 というのも、冒頭に書いたように妻夫木聡さんの爽やかさ以外に、好評の要因が見当たらないからだ。 例えば出演者たちの顔ぶれをみても、例年のように演技派といわれるような名脇役が名を連ねているわけではない。 だからシーンごとに閉まった感じがしない。 台詞もなく、ただいるだけの俳優がどれだけいることか。 そうした場面でも良い役者はしっかりと空気を作ってくれるのだが…。 唯一、これまで目を惹かれたのは玉山鉄二さんと長澤まさみさんくらいか。 相武紗季さんの美しさはオヤジとしては嬉しいところではある。 ついでにいえば、常盤貴子さんが18~19歳を演じているのは視る側に苦痛で、作品では主人公の年齢を不明確にしている以外にない。 脚本も、随所に時代性を取り違えたような部分が気になる。 また、言葉使いも取って付けたようで聞きづらい。 頻繁に使われる「義」という言葉を定義づけるような説明臭さは特に気になる。 もっと女性脚本家らしさが前面に出てもよいのではないか。 それと、兼続がでしゃばるシーンも鼻につく。 もう少し工夫があっても良いのではないか。 そして、なんといっても演出だ。 CGを多用している映像は、その処理が主張しすぎていて違和感を覚える。 加えて、最近随所に舞台演出的な手法をとっているが、これがまったく効果的でない。 美術セットを廃して、サス照明だけで見せるのだが、これが幻想シーンなのか現実なのか不明瞭。 カット割にしても、イマジネーションラインを分かりにくくする映像が多いし、アップの多用も閉塞感しか伝わってこない。 だから位置関係が分からなくなることもしばしばだ。 ロケーションでは美しい映像を見せてくれているのだから、もっと引き画を見せてくれても良いと思う。 スタートしてから2ヶ月足らず。 まだ、主人公は16歳だ。 今月中には上杉謙信が死んで、新たな展開となるはず。 そうなってからに期待したいところだ。 ただ作品として良くなるのかどうか、そしてそこまで視聴

消化不良の「沸騰都市TOKYOモンスター」

相当高い期待感を持ってNHKの「 沸騰都市 TOKYOモンスター 」を視た。 NHKスペシャルの枠で8回シリーズの最終回。 しかし残念ながら、有終を飾るというにはなんとも物足りない内容でちょっとガッカリしたというのが本音だ。 それまでのシリーズ各回では、高いレベルでグローバル化する都市の現状と将来を見つめていた。 しかし、本拠地である東京ではそうしたところまでの掘り下げはされていなかったというのがその理由だ。 日本経済の中心地として発展を続ける東京の今と将来像があまりにも中途半端。 どこに焦点を当てるのかが不明確で分散された感が強い。 人口の流入によって新たに開校した江東区の小学校と、そこに通う子供たちが超高層マンションに住むという現実。 そこから空に向かって広がってゆこうとしている東京の超高層ビル都市化を紹介。 丸の内の再開発を主導する三菱地所と六本木の超高層化を目指す森ビルの計画にも言及する。 丸の内では外国資本の集中も取り上げられていた。 そして、次に東京が拡大するのは地下だという。 山手トンネルのルートまでCGを駆使して見せていた。 オマケに、未来の東京を描いたアニメまで登場する。 はっきりいって、この演出には大きな疑問を感じた。 このアニメのできがよいというのならまだ許せるのだが、なんとも消化不良で東京の未来像というには説得力がなさ過ぎた。 何より、都市としての具体的な未来「像」が描かれていない。 はっきりいって時間の無駄遣いだったように私には感じられた。 余談だが、刑事二人が語り合うシーンが大衆食堂で、二人の背景には定食580円、お酒100円…などとメニューがかかっていた。 これってどうなのでしょう。 単に作り手の遊び心ということなのでしょうか??? それに、取り上げた内容についても、もっと問題点なり課題なりといったところが描かれても良かった。 民間のデベロッパーが主導する再開発にある問題。 こうした大手デベロッパーが手をつけた後に虎視眈々と次の展開を目論む準大手の暗躍はあるのか、ないのか。 拡大する都市機能についても、もっと掘り下げるべきところがあったのではないか。 例えば、先日ニューヨークであったような、1羽の鳥のおかげでジェット機が奇跡の不時着をさせられるようなことは考えられないのか。 など、今動き出している開発についてだけでもいくつもの疑問が湧き

どうなんだろうと思うCM

自分でもCMのディレクションをしているからあまり大きなことは言えないのだが、最近どうなんだろうと考えさせられるCMが目立つ。 最近CM業界では上田義彦さんというカメラマンが引っ張り凧だそうだ。 サントリーの烏龍茶や伊右衛門、資生堂など大企業の中でも、CMの質にこだわる会社のCMやポスターを手がけているという。 その映像の最大の特徴は光の柔らかさにある。 照明であれ、太陽光であれ、直接光を受けて撮影されたものは、発色が綺麗で強い印象を与える。 しかし度が過ぎると、刺々しいイメージになる場合が多い。 上田氏の作品は、たとえ外光を使っている場合も、極力直接光を使っていないように思われる。 それもレフ板などという強い反射光ではなく、壁などに反射した光をうまく捉えている。 だからその映像は柔らかくなる。 また、想定されているキャラクターの設定に、モデルの気持ちがギリギリまで昂まるまでカメラを回さないということも聞いた。 その結果、伊右衛門の本木雅弘と宮沢りえの2ショットに、良いお茶つくりにこだわる夫と、それを見守る妻。 二人の間にある、若い二人の愛とは違う、空気のように当たり前になっている夫婦愛さえも、たった15秒間で描き出している。 こうした徹底したイメージ化が彼のCMの真骨頂だ。 ところが、最近これに似た作品ばかりが目に付くようになった。 AFLACのCMは宮﨑あおいさんの魅力を引き出した上田作品だが、彼女の梅酒や東京メトロのCMでも同じような映像がつくられている。 多分上田氏の手によるものだろう。 宮﨑あおいさんのCMは上田カメラという不文律ができあがっているのではないかとさえ思えてくる。 さもなければ、最近注目のクリエイターがキャラクターは宮﨑、カメラは上田と指名しているのか…。 どれほど上田氏が企業や代理店の信望を得ているかの証左だが、CMの存在価値としては疑問を感じないわけにはいかない。 CMは何より企業や商品のイメージを浸透させる手段だ。 それだけにオリジナリティーが何より要求されるはずで、それによって他社との差別化をはかっているはずだ。 ところがこれほど上田作品が巷にバンバン流れるようになると、それがどれほど高品質のものだとしても、そのオリジナリティーが失われるわけだ。 AFLACのCMなのか、梅酒のCMなのか。 映像の質を見る限りその差は限りなく少ない。 そ

金こそが全てという日本社会の病理

2月9日NHKのドキュメンタリー「 職業“詐欺”~増殖する若者犯罪グループ~ 」を視た。 依然として減少の気配すら見せない『振り込め詐欺』の実態を追った番組だ。 なによりこの制作チームの取材に脱帽した。 多分街に出て地道な聞き込みから、詐欺グループのトップにまで辿り着いた。 警察の捜査陣は何をしているのだろうと思わざるをえない。 番組の中で、一人の詐欺師が「携帯電話に警察から電話が入った」とさえいっていたのだから、ザル捜査といわれても仕方がない。 捜査の方法を根本的に見直したほうがよいとさえ思える。 それはさておき、その内容だ。 番組では振り込め詐欺グループの組織と手口を解明している。 実行犯は20代の若者がほとんどで、有名大学や一流企業の出身者さえいる。 詐欺を「仕事」、実行犯を「従業員」と呼ぶなど組織化している。 決まった時間に出勤し、遅刻には厳しいという。 売上ノルマも設定されていて、その金額は200万円というから、並みの企業より余程厳しい。 彼らの業務は毎日バンバン電話をかけ続けること。 犯行に使われた携帯電話はすぐに捨てるという。 こういった事実を、実際に詐欺を働いている「犯人」たちから聞き出している。 その内容には驚きと同時に、警察への不信感を募らせざるをえない。 番組では、詐欺師たちの生活にも立ち入っている。 彼らは高級マンションに住み、外車を乗り回し、キャバクラで豪遊するという毎日を送っている。 彼らの口からは「金が全て」という言葉が頻繁に吐き出される。 そこに日本の社会の歪みの一側面を見た。 20代の若者たちの快楽を追い求める短絡的な志向に、呆れるより恐怖さえ覚えた。 それにも増してこの犯罪の根の深さを痛感させられたのは、社会とのつながりだ。 逮捕される可能性が高い金の引き出し役(出し子)は街で金に困った若者をスカウトする。 使い捨ててゆく携帯電話の名義人も、同じように職を失って町にあふれている人だ。 この犯罪は今の日本社会が生み出し、増殖させたものということを私たちにつきつけている。 これではこの先減るということは考えられない。 こうして振り込め詐欺が詳らかにした、今の日本社会の歪みこそがこの番組のテーマだ。 番組の終わり近く、金のために切羽詰った彼はまた出し子の道に戻ろうかと口にする。 金がなくなって2日間飲まず喰わずの生活をしていた元出し子だ

「警官の血」に欲求不満

2月7日、8日と二夜にわたってテレビ朝日のスペシャルドラマ「 警官の血 」を視た。 50時間テレビの一環として制作された、合計5時間にも及ぶスペシャルドラマだ。 脚本・演出は鶴橋康夫さん。 読売テレビの木曜ゴールデンドラマで、大阪に鶴橋ありと謳われた名ディレクターだ。 昨年には同じテレビ朝日で黒澤明監督の「天国と地獄」をリメイクした作品を演出していた。 これは相当できの良い作品で、鶴橋監督の健在ぶりをアピールする作品だった。 それゆえに、今回の「警官の血」も期待してチャンネルを合わせた。 全体の印象を一言でいうと、ちょっと物足りない作品だった。 それは5時間(2時間半×2回)という放送時間によるものだろう。 実質4時間程度で戦後間もない頃から現代まで60年以上を描くのは難しかったのではないか。 シーンごとではしっかりした描き方をしているのに、なぜか駆け足をしているような落ち着きのなさを感じさせられた。 この作品は相当に奥深い人間ドラマである。 そして、その根底に戦争が生み出した悲惨な状況であったり、権力の力であったり、罪とは何かといったことが絡み合ってくる。 だから、全部のシーンがとても意味があり、重要な構成要素だ。 全部が重要なものだから、逆に作品全体に棘がなくなったような感じがしてならない。 1時間の10回放送ならば、もっとしっかりと時代性や心理描写、権力の裏側の力など、鶴橋演出を楽しむことができたように思えてならない。 ただ、鶴橋演出の特徴であるカットバックの手法は随所に生かされていた。 繰り返し使われることで、親・子・孫という三代の警察官の、真に「血」を感じさせられたし、精神的な重圧や葛藤といった心理描写にも意味があった。 最も象徴的なのは日本軍が玉砕したレイテ島での戦いで、精神的に極限に追い込まれた早瀬少尉(椎名桔平)が男色に流されてゆくシーン。 このドラマの最後に語られる部分だ。 それが、この長大なストーリーの底辺に流れる異常性を描き出していた。 番組サイトによると、この作品は150人ものキャストが出演しているそうだ。 普段のドラマならこれほどの役者を起用しただろうかと思えるほど、ビッグネームが顔を揃えていた。 泉谷しげるさん、伊武雅刀さん、奥田英二さん、髙橋克典さん、麻生祐未さん、佐藤浩市さん、寺島しのぶさんなど実力派といわれる演技陣が脇を固めた。 さ

山田太一ドラマにさよなら

以前、フジテレビの「 ありふれた奇跡 」が低調な作品だということを書いた。 設定やら台詞回しに疑義を唱えた。 とはいえ、巨匠の作品だからというので新しい動きが起きるだろうと半ば期待して見続けていた。 しかし、もう限界。 山田太一さんの作り出す世界についていけなくなった。 まず、山田作品独特のあの台詞の展開。 A 「(断片的な短い台詞)」 B 「はい」 A 「(前の台詞に続く短い台詞)」 B 「はい」 という繰り返しのことだ。 それが山田作品全てに流れる独特のオリジナリティーなのだといわれればそうなのだが、私にはこのテンポは耐えられない。 まだるっこしくてイライラしてくる。 Bの「はい」に意味があるのだろうか。 テンポは壊すし、キャラクターの存在感にもなんら貢献しているわけではないと思うのだがどうだろう。 どなたかこのやり取りの意味を教えて欲しい。 頻繁に繰り返されるこの掛け合いに気がとられてストーリーに気持ちが入らない。 たまには違う描き方というのはできないものだろうか。 それから、前回あたりからストーリーが大きく動き始めた。 だが、これもまた納得がゆかない。 先週は主人公の母親の不倫。 そして今週は父親の女装という隠された趣味が明らかになった。 その女装仲間が偶然主人公と交際するようになった男の父親だというのだ。 そんな不均衡な状況にある家庭が平穏を装っているところを暴いているということなのだろう。 社会派といわれている山田太一作品ならではの、病んだ状況を描き出していると判断しなければならないのだろうか。 ただ、先日も書いたけれどこういう設定ってどうなのだろう。 私にはなんとも古臭いものに思えてならない。 1970年代の学園闘争華やかなりし頃の映画ではこうした展開がよく見られたように思うのだが。 何も恋人の父親同士が女装仲間だなんて…。 設定が苦しくありませんか??? それともう一点。 山田作品にお約束の出演者たちも苦言を呈したい。 橋田壽賀子作品には泉ピン子さんのように、山田太一作品には八千草薫さんと井川比佐志さんが付いてくる。 特に、井川さんは演技派でどんな役でもこなしてしまうから逆に質が悪い。 個人的には昔からとても好きな部類に入る役者さんで、この人が脇を固めていると本当に締まった作品になる。 そのせいもあって、山田作品に頻繁に出演しているということなのだろ

地に堕ちた日テレのドラマ

このblogでほとんど日本テレビの番組について書いていないことにちょっと寂しさを感じていた。 というのも、私がテレビの世界に入ってから27年も日テレの番組を制作してきたから。 いってみれば私の故郷のようなものだ。 それが、これまで取り上げたのは、正月の「全日本仮装大賞」と駄作だったどこかのパクリのようなクイズ番組だけ。 書いているのはNHK、フジテレビ、テレビ朝日が主だ。 日本テレビの番組を批判することを避けているというわけではない。 批判的な内容でも何か書いているというのは視ているからで、ということからすると、私はほとんど日本テレビの番組を視ていないということになる。 なんだか故郷を捨てたような気がしてちょっと心苦しいところもあった。 ただ、視たいと思えるような番組がないのだから仕方がない。 もう少しオヤジたちも視たくなるような番組を編成してくれてもよさそうなものだ。 元々、日テレの視聴者層の年齢は高かったのだから。 そんなこともあって、無理やり日本テレビを視るように努力した。 結果、ガッカリした(>_<)。 水曜日の夜10時から放送している「 キイナ-不可能犯罪捜査官- 」は菅野美穂さんの刑事ドラマ。 この作品は事実をもとにつくられたオリジナルストーリーだということだ。 毎回起こる不可能犯罪事件を、主人公のキイナが世界中の怪奇現象の研究を基に解明してゆくというもの。 どうやら彼女は速読ができるらしい。 番組のサイトでは『類いまれな能力を持つ』といわれているが、この他には一目で書庫の本の数が分かるとか、コップに描かれている星の数が分かるということのようだ。 この番組を視ていて寂しくなってしまうのはその映像化のチープさ。 一晩で何十冊という専門書を読み切ってゆくときの映像は、毎回決まりのパターンらしい。 これが前時代的な映像処理で、その特殊効果の陳腐さは視ている方がつらくなる。 このシーンから、捜査員たちに不思議な現象の謎を解き明かすシーン。 その場を締めくくる沢村一樹さん演ずる係長が「そんなの何の役にもたたねえ」までの数分間は定型。 いってみれば水戸黄門で立ち回りから印籠を出して「下がりおろーッ!」までの流れのようなものだ。 日本テレビには矢追純一さんから始まって小川通仁さんなど超常現象に強いディレクターがいた。 そうした諸先輩に恥ずかしくないのかとさ

丸くなった「疑惑」

テレビ朝日が開局50周年に合わせ、50時間テレビと銘打ってスペシャル番組を編成している。 ただ、内容は人気番組のスペシャル版というもので、日本テレビの24時間テレビのような統一したコンセプトのものではないようだ。 特に興味を惹かれるような番組ではないので今のところ全く視ていない。 こういう編成企画というのはどうなのだろう。 せっかくの周年記念、もうちょっと力を入れて欲しいと期待するのは私だけだろうか。 その50時間テレビに先立って、50周年を記念したドラマが放送された。 松本清張の「 疑惑 」だ。 田村正和さんと沢口靖子さん、室井滋さんの主演。 脚本はこの原作を何度も作品化している竹山洋さん。 野村芳太郎監督の映画「疑惑」でも脚本を書いていた。 映画では佐原弁護士を岩下志麻さん、被告の球磨子を桃井かおりさんが演じていて、二人の火花を散らせるような緊張感あふれるやり取りがとても印象的な作品だった。 「砂の器」をはじめ松本清張の小説を数多く演出している野村芳太郎監督の作品の中でも高い評価を得た作品だったはずだ。 そんな感覚が残っていたせいか、テレビ版の「疑惑」はちょっと物足りないできだった。 田村正和さんの佐原弁護士からは殺人の謎解きでも鋭さや緻密さは感じられなかったし、この仕事に向き合う背景も希薄だった。 事実を追求する姿も熱血というほどでもなく、正義感あふれるというところも感じられなかった。 沢口靖子さんは大熱演で、今までに視たことがないキツくてズルい性格の被告役を作り上げていた。 ただ、どうしても本当に悪い女には見えない。 どこかにやさしさが出てしまって、色と欲で被害者に近付いていったような悪女にはなりきれていなかった。 やっぱり、映画の桃井かおりさんのイメージが残っていたのだろうか。 室井滋さんの白井球磨子を犯人として書きたてる新聞記者はただうるさいだけ。 キャンペーンを展開したプライドや意地といったものはただ空回りするばかりで、残念ながら感じることはできなかった。 映画版との区別化や田村正和の主演ということのためだろう、竹山脚本もほとんどゼロスタートという感じ。 さすがに球磨子の時により豹変する態度やズルさの描きこみは見事だった。 ただ、謎めいた球磨子の生い立ちや、行動がドラマの厚みを作るほどの効果を作り出しているとはいえなかった。 やはり田村正和という個性あ

「女と男」は楽しいドキュメンタリー

NHKの製作したドキュメンタリーの新しい試みの作品をもう1本紹介したい。 「 女と男 」だ。 これは女と男の違いを最新の科学で解き明かしてゆくというのがテーマ。 3回シリーズとして制作されたうちの2本を視た。 2回目は「女は地図が読めない」というところから、脳の使っている部分が男女で異なるということを解明している。 そして、そうした違いはなんと人類が発生した頃の狩猟時代から始まったというのである。 男は空間を認識する力に長け、女は目印をうまく活用する能力を身につけたのだそうだ。 こうした能力の違いが今の私たちにもつながっているのだという。 男女の能力についての研究を基に、医学や教育などではじまっている男女差に注目する新たなムーブメントを紹介していた。 3回目は、近い将来男が消えるという、染色体についての研究を紹介していた。 男性を形作るY染色体は滅びる運命にあるというのである。 それは早ければ来週にも、遅くとも500万年以内に起こるという。 加えて、その染色体を決める精子も劣化しているということをチンパンジーの精子と比較して紹介している。 その原因は一夫一婦制だというのである。 人類はこのまま滅んでゆくのか。 それとも科学の力で子供を産み、種を繋いでゆくのか。 最新の生殖技術などもあわせて見せている。 男女の違いを科学的に解明するというと、どうも難しい内容になると想像される。 ところがこの番組では入り口をとても平易なところに置いている。 だれもが「そうそう!」と納得できるところも親近感が感じられて良い。 それは「 解体新ショー 」がつくりだした手法から導き出されたであろうことは想像に難くない。 それからこの番組では筧利夫と西田尚美のミニドラマが随所に挿入される。 ドキュメンタリー部分を視ている人という設定で、必ずしも内容とは一致しないところがまた良い。 いわゆるドキュメンタリードラマのような手法をとらないところを高く評価したい。 尚、3回目には西田の父親役できたろうさんも出演し、シティーボーイズのコントさながらの独特の雰囲気で空気を和らげていた。 N特の人体を科学するシリーズの番組はこうした工夫をとっている番組が前にもあった。 「病の起源」シリーズでは全6回に樹木希林さんや柄本明さん、渡辺えり子さんら俳優陣が案内役となっていた。 ドキュメンタリーというとどこか堅苦し

本当の自然賛歌と共存の物語

このところNHKのドキュメンタリーに新しいムーブメントが感じられる。 中でも最も感銘を受けたのが、昨年11月30日のNHKスペシャルで放送された「 雨の物語~大台ケ原 日本一の大雨を撮る~ 」だ。 日本一大雨が降る大台ケ原は年間5000ミリを記録するという。 一日で東京の一年分の雨が降ることもあるというから驚きだ。 そこにウルトラハイスピードカメラを持ち込み、落ちてくる雨の滴を捉えた。 そして雨の発生の瞬間を、気象観測用の飛行機にカメラを積んで映像化した。 普段私たちが目にすることのできない雨の姿かたちのドラマティックでさえある映像は、目を惹き付けて離さない強い力を持っていた。 その想像を絶するほど大量の雨がもたらす自然の営み。 雨を利用して生きるカエルやキノコの生態は、微笑ましくもあり、そして力強くもあった。 そこに暮らすほんの少数の人たちは大雨という自然の驚異と向き合いながら生活していた。 それは、自然に対する畏敬の念というよりはやさしく共存しているといった方がよいかもしれない。 危機に瀕している自然との正しい付き合い方を私たちに示してくれているようだった。 以前ここで批判した「エコ大紀行」なんていう下種な自然保護、環境保護を訴える番組とは比較にならない程の説得力を持って私たちの前に表してくれた。 大台ケ原には今も自然の大きな息吹が一つの世界を保っていたことに安堵と喜びさえ感じさせてくれた。 また、美しい地上の映像も見逃せない。 冬。 厳しい寒さと雨がもたらす「雨氷」。 扁平になりながら落ちてくる雨の滴。 そのクローズアップに対して見せられる大ロングの映像の対比は自然そのものが作り出すドラマを感じさせてくれた。 これらは映像詩としての力さえ持って、視るものに自然の美しさを強く印象付けるものだった。 この番組は自然の豊かさへの賛歌であり、自然を守ることの大切さを今までのどの番組よりも饒舌に私たちに教えてくれた。 大絶賛と共に、再放送を願って止まない秀逸な傑作だと思う。

凋落したドラマのTBS

1月24日、TBSの「 RESCURE~特別高度救助隊~ 」を視た。 土曜日のゴールデンタイムだというのにまったく時間の浪費だった。 まあ、この時間帯に視たい番組がなかったから、落胆度は低かったが…。 どうやらスーパーレンジャーに入隊を目指す若者の物語のようだ。 とにかく事前に消防現場を取材したか疑わしいほどのリアリティーのなさ。 ドラマによる事実のデフォルメでは済まされない。 ただ単にストーリーを作るための作り事だ。 この段階でこのドラマの陳腐さをさらけ出してしまっている。 消防という命を懸けた仕事だけに安直なつくりは逆効果だ。 ところで、今年始めにCXで「コードブルー」のスペシャル版を放送していた。 この作品はとてもレベルが高い青春人間ドラマで、レギュラー放送の時から大ファンだった。 登場人物のキャラクター付けが明確で、その背後にかかえているそれぞれの問題もしっかりと描かれていた。 映像はアップが多すぎて息苦しいところもあったが、題材が緊急救命医の活動を扱っているだけに映像化しにくい部分もあったのだろう。 ただ、いつも思うことだが、CXのドラマは若者の心理描写がうまい。 他局であればありきたりの設定で、臭く演出されるところが、CXでは思わず引きずり込まれてしまうことが多い。 気がつけば、いい年をしたオヤジが胸を熱くしていたりすることも珍しくない。 年始のスペシャルは昨年放送していたところの続きからというストーリーで、できは期待していたほどではなかった。 ただ、それは最初からハードルが高かったということで、今年視たドラマの中では十分秀作といえる。 「RESCUE」にもこれに匹敵するような青春ドラマを期待したのだが、全くの期待はずれ。 昔の大映テレビの『チビでノロマな亀』を売り物にしていた「アテンションプリーズ」レベルの滑稽な作品だった。 まあ出演者の顔ぶれを見ればそれも納得できなくはないのだが…。 それにしても、今どきこんなドラマを視て満足する視聴者がいると思っているのだろうか。 こんな作品をあのドラマのTBSといわれた局が製作するというのはどういうことなのだろう。 「渡る世間は鬼ばかり」におんぶに抱っこ状態が続いて、ドラマ班の制作能力が落ちたのだろうか。 あまりのレベルの低さに呆れてスタートして30分ちょっとでチャンネルを替えた。 ところがそこで出合ったのがNH

CXのドラマにハマっている

1月に入ってスタートした話題の力作ドラマが期待倒れの中、CXで若者をターゲットにした作品がおもしろい。 いわゆる月9枠の「 VOICE~命なき者の声~ 」と火曜日の夜9時からの「 メイちゃんの執事 」だ。 「VOICE」は「篤姫」で小松帯刀役を好演した瑛太さnが主演する、法医学教室に学ぶ医学生たちの謎解きドラマだ。 毎週一つの変死体の謎が解明される。 出演者は月9らしく、生田斗真さん、石原さとみさんなど若い視聴者に魅力的なキャストが顔を並べる。 何より瑛太本人のキャラクターそのままのような、飄々とした演技がよい。 それが、細部にこだわりを持ち、それを解決するためにどこへでも行ってしまう。 いつしかまわりの仲間たちを巻き込んで、その変死体が残したメッセージを解き明かしてゆく。 変死体の謎を解明するといっても、犯人探しのサスペンスドラマではない。 彼らが解き明かすのは、死者が死ぬ前の心暖まる行動だ。 そこにこの作品のオリジナリティーがある。 学生たちのキャラクター付けがありきたりという面はあるのは事実。 また、時に安直に見えるシーン設定に満足できない部分はある。 画作りにももっと工夫が欲しいと思うこともたびたびだ。 しかし、それはこのドラマ全体に悪い影響を与えているわけではない。 それらを凌駕するだけのストーリーのオリジナリティーと、時に涙さえ誘う死者の最後の行動が見終わってからも心地よく心に残る。 きっと月9に設定されている視聴率の高いハードルを越えるのは難しいだろう。 しかし、一度視たら、癖になってしまう番組だ。 もう一つ「メイちゃんの執事」は前作の「セレブと貧乏太郎」に続くコメディーだ。 宮城理子さんの同名のマンガが原作になっている。 主演は水島ヒロさんと榮倉奈々さん。 この作品はなんといってもばかばかしいほどの設定と、イケメンの男優陣が執事として大挙出演しているところだ。 番組サイトによると、イケメンブームを作ったプロデューサーの作品らしい。 このドラマのお薦めポイントはなんといっても肩の凝らないばかばかしさ。 舞台は、お嬢様ひとりにつき、超イケメンで優秀な“執事”が付いてくる夢のようなスーパーお嬢様学校。 急にそんな学校に押し込められた東雲メイ(榮倉)が、中でも特に優秀で、超イケメンの執事柴田理人(水嶋)と共に、性格の悪いご学友のお嬢様のイジメを乗り越え、立派

冒険の勇気と失望

NHKの「篤姫」で今も印象に残っている映像がある。 家定と篤姫が寝所で心を通じさせ合う時のカットだ。 見つめあう二人の顔のアップがそれぞれハンディーカメラで撮られていた。 それも、遠めからズームしているので、ペデスタルつきのカメラで撮ったようには映像が安定していない。 その微妙に揺れる映像が、高まってゆく二人の気持ちの心理描写として有効で秀逸なカットだった。 このシーンの最初には固定カメラでアップが撮られていたから、意図的にそうした画作りをしたと思われる。 それも二人のそれぞれのアップをハンディーカメラにしたというののだから、ディレクターには大きな冒険だったことだろう。 だから、新鮮な驚きと共に、そうした映像表現を選択した勇気に感服した。 確か岡田ディレクターだったと思う。 それまでスタジオで収録されるドラマでわざわざハンディーでアップを狙うという不安定な映像を意識したことがなかった。 ひょっとしたらこれまでもそうしたカット割をしていたことがあったのかもしれないが、私の記憶には焼き付けられていない。 ということは、さほどインパクトがなかったということだろう。 これに味を占めたのか、その後「篤姫」で何度か同じようなカメラワークで撮っていたが、このシーンほど印象的なものはなかった。 「篤姫」の後、いくつかのドラマを見ていてこれと同じようなカメラワークが目に付くようになった。 ただこれが全く生かされていない。 篤姫のこのシーンを意識したのかどうかは定かではないが、特にその必要がないと思われるシーンで使ったりしている。 だから、一瞬NGカットを使ったような印象を受け、そのシーン全体を台無しにしていることさえあった。 そんな作品を視るというのは、テレビ屋として部外者であっても辛いものだ。 ドラマのディレクターはバラエティーやドキュメンタリーのディレクター以上に絵作りに拘っている筈だ。 そのこだわりこそがドラマディレクターの生命線といってもよいかもしれない。 それだけに、オリジナリティーの感じられる「いい画」を見せて欲しいと思うのは私だけではないだろう。 冒険というのはうまくハマるとインパクトも強いが、往々にして失敗に終わることの方が多い。 それはこれまでの私の経験が証明している。 ただ、ディレクターたるものやっぱりこの点には徹底的に戦いを挑んで欲しいと思う。

低調な新ドラマにガマン

新年に入ってビッグネームの脚本家によるドラマがスタートしている。 TBSでは野島伸司さんの「 ラブシャッフル 」。 フジテレビでは山田太一さんの「 ありふれた奇跡 」。 主演は、TBSが玉木宏さんと香里奈さん、CXが仲間由紀恵さんという、それぞれの意欲が感じられる顔ぶれだ。 ただ、この2作、どうも好感が持てるできとはいいがたい。 その理由として、この2作に共通するいくつかの要因がある。 第1.設定に一般性がない。 「ラブシャッフル」は高級マンションの同じフロアに住む若い男女が恋人を交換するという。 その出会いが、乗り合わせたエレベーターが停電したことからいきなり始まる。 一方「ありふれた奇跡」は自殺しようとした人を救った二人の男女が、実はそれぞれ過去に自殺を考ええたことがある。 その二人と自殺未遂者(陣内孝則)がどんどん関係を深めてゆく。 ドラマなんてそんなもの、といってしまえばそれまでだが、この物語の入り口ってリアリティーがあるのだろうか??? 第2.台詞がとても唐突に展開する。 そして、その一言一言が噛み合わないというのも似ている。 極端にいってしまえば、言葉がコミュニケーションの手段になっていない。 きっとそれによってそれぞれのキャストのキャラクターを際立たせるためのものだろう。 確かに、それぞれの脚本家らしい切り口で人間の心理を描き分けているというのは理解できる。 ただ、それが果たしてストーリーの展開に効果があるかどうかは疑問だ。 どちらもありえないような奇跡的な出会いから始まるものだけに、どんどん視聴者が置き去りにされているように感じられてならない。 演出もそうした台詞回しに対して効果的な映像を作り出しているとはいえないところに、この懸念が真実味を持っていると思うのだが…。 第3.比較される番組があるということ。 「ラブシャッフル」は野島伸司版の「男女七人夏物語」が企画の元になっているようだ。 視ているだけでそんなイメージは感じられた。 この先いろいろな面で比べて語られることもあるかもしれない。 まだ初回で、いろいろの要素をつめこまなければならず、慌ただしい感じを受けたのかもしれない。 この先、野島伸司脚本ならではの人間性が描き出されることを期待しよう。 できることなら「一つ屋根の下で」のような爽やかな感動を与えてくれるドラマになると、個人的には嬉しいのだ

レベルが下がった仮装大賞

1月8日日本テレビの「 全日本仮装大賞 」を視た。 6年ほど前までこの番組の制作協力会社側の責任者として、制作現場に携わっていた番組だ。 多分7年間ほど担当していた。 その頃は年間3回の放送で、放送が終わるとすぐに地方予選が始まり、毎週土日は地方出張だったことを思い出す。 高速で流れるクレジットを見る限りでは、スタッフの顔ぶれがだいぶ若返ったようだ。 それにあわせてか、審査員も5人になり、余分な彼等の仮装もなくなっていた。 ずいぶん様変わりしたものだ。 ただ、構成作家陣は喰始さんや鈴木しゅんじさんなどなじみの名前が並んでいたのにはチョットホッとした。 それに、梶原君や三井君、松原さん、飯塚さんなど常連といわれる出場者たちも懐かしかった。 ただ、当然のことながら、みな年をとって老け込んでいたけれど。 まあ、時の流れを考えれば当然といえば当然だ。 さて、5年ぶりに番組を視ての第一印象は、作品のレベルが下がったということだ。 私が担当していた頃なら採用されることはなかっただろう作品がいくつも出ていた。 番組サイトの掲示板には「もう少し合格者が多くてもよい」という意見があった。 しかし、レベルが下がった分不合格になるグループが多くなるというのは致し方ないことだ。 それより、満点を取ったグループが少ないということにレベルの低下が表れていると見たほうがよいのではないか。 仮装大賞は、体を使って「何か」に見えるようにすることが基準だ。 だから、人間に仮装するとか、装置や背景などを動かすだけというのは予選段階からもれていた。 それが今回はいくつかそうした作品が登場していた。 制作スタッフの若返りに合わせて、基準も変わったのかもしれない。 それと、以前ほど作品の完成度や演技に番組からの指導が少なくなっているのではないか。 セットや背景などの作りが荒い部分が目立った。 また、演技にしても無駄な動きがあった作品もあった。 もっと動きを細かく指導すればもっとよい作品になるだろうと思われるものもいくつかあった。 私が参加していた頃は、本戦出場が決まってからが最後の追い込みで、演技内容について細部まで指導していった。 それはエキセントリックなほどだった。 地方の出場者の場合、その練習している場所まで行っていたのだが、今回の作品を見る限り、そこまでの完成度を求めた作品は感じられなかった。 これも

伝統が息づく時代劇に期待

1月5日にテレビ東京の「 幻十郎必殺剣 」を視た。 北大路欣也さんの、久々に時代劇の王道を行く作品だ。 死んだことになっている元南町奉行所の同心が、正義を貫き悪と戦うというストーリーだ。 その主人公の「死神幻十郎」を北大路欣也さんが演じている。 番組サイトでは本格痛快娯楽時代劇と謳っているが、どうもそれには肯けない。 死神幻十郎の活躍はけっして痛快ではないし、一概に娯楽作品ともいいかねる。 主人公は死神と自称しているくらいだから、黄門様や遠山の金さんのようにバリバリ問題を解決させてゆくわけではない。 松平定信の密命を帯びて悪を退治する過程は終始暗く、重い空気の中で展開される。 番組を通して、主人公幻十は終始寡黙だ。 それはちょうど、同じ北大路欣也さんの演じた『子連れ狼』の拝一刀に通じる。 しかし、番組終盤の立ち回りでバッサバッサと悪人を斬って捨てるところはさすが!と唸らされる。 役者として生まれ育った、時代劇全盛時代の東映が作り上げた、流れるような、それでいて迫力ある立ち回りだ。 それに、父であり、御大と呼ばれた市川歌右衛門譲りの血もあるのだろうか。 本当に刀が切れそうである。 昨日今日時代劇に出演する俳優とは一味も二味も違う。 刀を振るう一挙手一投足に、そして悪役を斬るときの呼吸までにも北大路欣也ならではの美学があった。 それは、以前幻滅した田村正和さんの「 忠臣蔵 音無しの剣 」とは大違いだった。 「篤姫」の勝海舟役を除いて現代劇での活躍が目立つ感がある北大路さんの本領が発揮された番組だ。 ただ出演者たちの設定が主人公同様難しいので、そのあたりがうまく描けるかどうかが心配ではある。 そんな中で、幻十郎に夫を斬られた志乃を演じる戸田奈穂さんが、綺麗なだけでなく、深みのある演技で魅了してくれている。 どうやらこの番組の成否は脚本や演出の仕事具合にかかっているようだ。 ともかく毎週月曜日の夜7時、ネプリーグを視るのはしばらくお休みすることになりそうだ。 一方、テレビ朝日の「 必殺仕事人2009 」も捨てがたい魅力がある番組だ。 もう設定やら、最後の仕事のシーンでの奇抜な殺人方法はどうでもよいが、東山紀之さんと和久井映見さんに注目したい。 中村主水がもうご高齢で先がないためバトンタッチのシリーズということになるのだろうか。 婿養子で、姑と妻に虐げられるところから、奉行所

テレビニュースが露呈する日本語力低下

麻生首相が「未曾有」を「みぞゆう」といったといって、その国語力に疑問の声が上がっている。 まあそれが即支持率の低下につながっているとは考えづらいが、弱り目に祟り目ということだろうか。 いまだに、いろいろな場面で取り上げられている。 その声はメディアばかりでなく、議員仲間からも出ているという。 まあ、今更政治家の教養のなさを笑っても仕方がない。 問題にしたいのはテレビニュースの原稿だ。 最近、目を覆いたくなるようなことがあった。 今、自民党執行部の方針に造反し、離党騒ぎまで起こしている渡辺喜美氏の発言についてだ。 確か、TBSの夕方のニュースだったと思う。 氏の発言で、「○○に堕するつもりはない」というのがあった。 この発言ビデオでは、なんとスーパーで「○○を出すつもりはない」となっていた。 これでは発言内容まで変えてしまっていることになる。 「て、に、を、は」まで変えてしまったのだから大問題だ。 「堕す」は堕落というように、落ちるという意味。 つまり、氏の発言では、自分をそこまで落としこめるつもりはないという政治姿勢を主張していた。 それが「○○を出すつもりはない」では、前後の発言内容とも繋がらない。 ことによっては「離党届を出すつもりはない」と、氏の発言意図と逆のこととして捉えられる可能性すらでてくる。 そうなると虚偽報道だ。 単に「○○に堕す」という言葉を知らなかったでは済まされない。 ひょっとしたらこの記者、編集室で渡辺氏の「て、に、を、は」の使い方が間違っているなんてスタッフといっていたのではないか。 これほど大きな間違いの例まで行かないレベルでの誤用や言葉の間違いは頻繁にある。 全ての局のほぼ全てのキャスターに共通する傾向がある。 それは、ニュース原稿を読むスピードが早いのだ。 だから、原稿を読んでいてよく突っかかる。 聴覚に障害がある人や、目の不自由な人のことを考えたことがあるのだろうか。 耳から入る情報を大切にするというのはニュースの基本のはずだ。 もう少しゆっくり読めないものだろうか。 決まった時間に一つでも多くのニュースを詰めこもうとしているというのなら、局として再考する必要があるのではないか。 レベルの低さは放送記者が作る原稿の文章力にも表れている。 その一例が、一つの文が長いとい

笑われるタレントの時代がまたやってきた

「 クイズ・ヘキサゴンⅡ 」が絶好調のようだ。 それは視聴率の面からだけでなく、番組の勢いという面、制作サイドと出演者の疎通という面なども含めてのことだ。 それは島田紳助さんがヘキサゴンファミリーと、主なレギュラー出演者たちを呼ぶなどからしても、よい空気感が伝わってくる。 少なくとも今のところは出演者それぞれが存在感を得ている。 その正月特番で、この番組から誕生した羞恥心が音楽活動を休止することになった。 真に2008年を疾風のごとく日本中を席巻し、1年足らずの間で音楽界に一つの足跡を残す活動をしたといえるだろう。 番組が生んだ副産物とはいえ、その勢いはたいしたものだった。 この番組が生み出した『オバカタレント』は芸能界に新たな1ジャンルを築いたことも見逃せない。 今までクイズ番組といえばANBの「 クイズ雑学王 」のように正解率の高いに人にスポットライトが当たるものだった。 しかし、ヘキサゴンではタレントたちの無知さを笑いの種とすることでオリジナリティーを勝ち得ている。 ただ、羞恥心をはじめPaboのメンバーたち、残念ながらオバカのほかにこれといったキャラクターがないようで、他の番組に出てもまったくおもしろくない。 紅白歌合戦でも四文字熟語などいわされていたが、会場から笑いを誘うことはなかった。 やはり島田紳助さんの父親の愛すら感じさせつつの突込みがあってこそ生かされているということだろう。 そんなブームに肖ろうというのだろうか、日本テレビが1月3日に「 おとなの学力検定スペシャル 小学校教科書クイズ!! 」なる番組を放送していたが、これが惨憺たるでき。 単なるパクリで、局の姿勢を疑いたくなるような番組だった。 ヘキサゴンファミリーのメンバーも出演していたが、まったく持ち味が生かされていなかった。 こんな番組を作っていたら、日本テレビはこの先もジリ貧状態が続くに違いない。 ところで、ヘキサゴンファミリーを見ていて思い出すことがある。 だいぶ昔、業界では大御所といわれていた先輩から教えられた。 それは、文化や流行はおよそ18年毎に繰り返すということだ。 そんな面から考えると、確かにオバカタレントといわれる人たちが人気を獲得しているのも理解できる。 彼らはけして視聴者を笑わせているのではなく、笑われるタレントだ。 18年前を振り返ると、確かに同じようなタレントが登場し

「タビうた」というチャレンジ

1月2日11:20からNHKで「タビうた」という番組を視た。 「タビ=旅」とタイトルされているものの、これはいわゆる旅番組ではない。 岩崎宏美さんと平原綾香さんが長崎の町のそこかしこで歌を歌うという番組だ。 そして同行した女性写真家の撮影した写真がそれぞれのシーンを締めくくるという構成だった。 だから、絶景を見て、高級旅館で温泉につかり、地元の味に舌鼓を打ちながら、騒がしくとってつけたような感嘆詞連発なんていうシーンはない。 せいぜい、中華街でちゃんぽんと皿うどんを食べるくらい。 そこでの話題も、平原が岩崎を男っぽい性格で驚いた、というような話だ。 けっして、視聴者に旅する心を喚起し、誘発させる情報を並べ立てるものではない。 それは、私の中では音楽をベースにしたドキュメンタリーとして、そして良質の紀行文を読むような充実感をもたらしてくれた。 番組の中で歌われる二人の持ち歌は、長崎のいくつかの場所で歌われるということで、スタジオやホールで歌われるのとは違った生命を与えられていた。 その、聴く人の心が心地よい潤いで満たされるような歌の世界は、きっと作詞家、作曲家でさえも想定していなかったに違いない。 例えば… 平原の父は長崎の出身だそうで、彼の幼稚園時代の先生のところを平原が訪ねる。 100歳を過ぎて今も現役の園長先生が、平原の父に伝えてほしいと人生の心構えを語る言葉。 その言葉を自分に語られたものとして受け止め、涙するその娘。 そしてその後に長崎美術館の屋上庭園から港を背景にして歌われた「カンパニュラの恋」は、歌詞が本来表現している恋とは違った、もっと深い愛情を感じさせる効果を生み出していた。 また、史跡としての歴史を刻んだ料亭で歌われた岩崎宏美の「思秋期」。 『青春は忘れもの 過ぎてから気がつく』という阿久悠先生の詞と、50歳という節目にある岩崎宏美のこれまでの道のりや今の心情さえも感じさせるように心に響いた。 時を刻んだ建物が、普通の音楽番組のセットでは作れない見事な舞台となって、その詞の世界を広げていた。 番組の最後、二人が平和記念館の原爆で死んでいった犠牲者を象徴する水盤で「Jupiter」をデュエットした。 夜の水盤に浮かぶ7万個のあかりを前に歌われたその歌は、あの山古志村の被災者たちを復興に奮い立たせたものとは明らかに違った印象を私に与えた。 それは、あの

案の定の紅白歌合戦

多分15年以上ぶりに日本で新年を迎えた。 いつもバンコクで新年を迎えていたので、寒い新年というのは本当に久しぶりだ。 バンコクではいろいろなところに出没して、カウントダウンイベントに年甲斐もなく参加していた。 いつも夜通し飲み続けていたのが、今は懐かしい。 というわけで、大晦日は本当に久々にNHKの「紅白歌合戦」を視た。 どうも、視聴率の低下に歯止めがかからないらしい。 新聞や民放などによると、NHKは視聴率獲得に躍起になっているそうだ。 確か一昨年はとうとう40%を割ったと大きく報じられていた。 だが、これほどテレビ離れが進む中、それだけの数字を記録するというのは驚異的だと思う。 だって、15年前20%以上だった野球がシングルになる時代。 20%とったらバケモノとまでいわれるようになっているのだ。 テレビの全体的な趨勢を考えれば、今でも40%というのはその当時の60%くらいの価値は十分あると思うのだが…。 ところが、新聞や民放が指摘しているNHKの焦りというのは本当のようだ。 それは出場歌手の顔ぶれを見れば一目瞭然。 何とか年齢性別に関係なくチャンネルをあわさせようという意図が見え見えだ。 それに輪をかけて、構成も演出も統一性が全くないのもそのプレッシャーによる影響だろう。 あんなに紅組と白組が互いに助け合っているのなら、何が歌合戦かといいたくなる。 それでいてどっちが勝ったと喜ばれたところで真実味もあったものではない。 それでいて強引に今年のテーマと話題を結び付けようとするからおもしろくもなんともない。 それにわけの分からない出演者が賑やかしに出てくるにいたってはまったく時間の無駄以外ではない。 そんな時間があるのなら、歌を1コーラス半にしないでもっとジックリ聞かせて欲しいと思うのは私だけだろうか。 制作担当者は、もう一度紅白歌合戦の原点に戻って向き合うべきだろう。 歌合戦にこだわるなら、シンプルに1対戦ごとにどっちが勝ったくらいの勝負性を持たしてもよいかもしれない。 無責任にいわせてもらえば、構成や演出、カメラ、照明に至まで全て紅白に分けてみたらどうだろう。 出演者も含め全員が「One for All, All for One」の空気の中でより良い物を作り出す努力をする。 徹底的に紅白の違いを際立たせれば、対戦色は強くなり緊張感も高まる。 今年の藤あや子の歌に