久々のブログ更新だ。 年齢を重ねて、ブログというのが億劫になったこともある。 だが、それ以上に、ここで取り上げたいような番組に出会わなかったのが最大の理由。 それは当然と言えば当然で、ここ数年、スポーツ中継とごく一部のドキュメンタリー以外の番組はほとんど視ていない。 スポーツ中継が下手になったということを書いてしまったし、 ぜひ見たいと思う番組は一週間で5本もない状態では、書くネタがないのも致し方ない。 今日、2014年の大晦日。 我が家で考えられないことが起こった。 なんと まだ一度もテレビのスイッチが入っていない。 実際には30日の夜からだから、優に24時間以上テレビが写っていないことになっている。 今日はもうテレビをつけたくなるような番組がないから、このままおやすみなさいとなるに違いない。 我が家では、どんな時でも、テレビがついているのは当たり前。 どんなにつまらない番組ばかりとしても、テレビは点いていたのだ。 音は生活ノイズと化し、画面は眼に映る景色の一部のように、私が家にいる間はスイッチはONになっていた。 それがついに究極の事態に陥ってしまった。 見たい番組がない。 地上波はもちろん、BSでも…。 こんな日が来るとは思ってもいなかった。 私にとって、テレビが死んだ日になった。 これは大ショックなことだ。 なぜこんなことになったのだろう。 番組が面白くない、見たいと思わない、レベルが低い…。 その責任は誰にあるのだろう。 そこのところを、この正月休みにじっくりと考えてみよう。 次回のブログのテーマとなるかも知れない。 ともあれ、明日元旦は実業団駅伝。 2日と3日は箱根駅伝があるから、我が家のテレビもすぐに生き返ってくれるだろう。 でも、きっと実業団駅伝はTBSの中継の下手さに、またイライラが募るに違いないな。
ワイドショーのコメンテイターとして評価を下げていた市川森一氏が、やはり脚本家としては巨匠だと納得させる作品を書いた。 NHKの土曜ドラマスペシャル「 蝶々さん~最後の武士の娘~ 」がそれだ。 オペラ「蝶々夫人」を題材にした自らの原作を、しっとりとしたドラマに仕上げた。 日本女性の真の美しさを、明治という時代の長崎を舞台に、物悲しく、ロマンティックに描き出した。 この作品のキーワードは『葉隠』という、日本伝統の武士道の根幹となった哲学だ。 宮﨑あおいが演ずる主人公の伊東蝶(蝶々さん)は、祖母から教え込まれたこの精神をよりどころとして生きている。 フランクリンを愛するようになったのも、最後に自害したことも『葉隠』に従ったとして必然性を持たせている。 そして何より、『葉隠』に従いながら、アメリカに憧れる蝶に、古い伝統と国際化という波が鬩ぎ合う明治20年代半ばの時代を象徴させている。 さすがだ。 宮﨑あおいは、しっかりと安定した表現でこの難しい役を演じきっていた。 若いが、演技派として高い評価を得ているだけの充実感があった。 特に、ふと垣間見せる艶やかな表情は、「篤姫」からの成長を感じさせるものだった。 この作品が「篤姫」から続く宮﨑あおいの続編、あるいは一つの集大成の作品という見方もあるかもしれない。 時代に翻弄される女性を演じるという点では「篤姫」と共通する。 しかし、それはNHKの広報戦略に乗せられている様で少し悔しい。 また、田渕久美子の大河ドラマ「 江 」と同列に扱われるのはもっと口惜しい。 田渕脚本は、あからさまな二番煎じのドラマで私たちを幻滅させた。 演出陣は上野樹里という稀有な才能を引き出すどころか、見殺しにした。 そうした駄作とこの作品は決定的に異なる、質的に対極にある秀作だ。 演出も激しい感情表現を避け、しっかりと蝶の心象を描くことに専心していた。 アップの多用は多少気になったものの、煩わしいものではなかった。 セットやCGとの合成など物理的な制約と、作品のテーマを考えれば納得できる範囲。 バックに流れる音楽にも好感が持てた。 作品全体に『葉隠』の精神が流れていることが伝わってきた。 この作品を視て、早坂暁脚本、深町幸男演出、吉永小百合主演の『夢千代日記』がオーバーラップした。 作品の底辺に...