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制作陣がダメにした秀作


番組づくりで、ほんの小さなこだわりの欠如が全体に悪影響を与えるということは良くあることだ。
私もそうした苦い経験が何度もある。
あるときはOAまで気がつかなかったり、またあるときは分かっていながら妥協してしまったことだったり。
そんな時は立ち直れないほど自分に失望した。
他のスタッフ、出演者、視聴者に申し訳ないと思ったものだ。
もちろん100%満足、というようなものが作れたという思いはない。
しかし、小さな綻びが番組全体をダメにするということはまた別のレベルのことだった。

最近、そうした番組に出会い、憤りを感じることが多い。
12月17日フジテレビの「目線」はそうした番組の一つだった。
この仲間由紀恵主演のサスペンスドラマは、演出チームの稚拙さ、こだわりのなさが全てをぶち壊しにしてしまっていた。

仲間由紀恵が演じる主人公は、子供の時のケガが原因で車椅子を使用している。
それはこのドラマで大きな意味を持っている。
反面、ストーリーづくりではそのことが大きな制約になる。

ところが、脚本はそうした制約などお構いなしにストーリーを作り、演出は無神経に映像にしていた。
「そんなバカな~」と声をあげたくなるようなシーン、カットが繰り返されるお粗末。
まったく工夫のないシーン設定は、本来描くべき登場人物たちの関係や葛藤を見せる時間を切り捨てさせた。
なにより、仲間由紀恵の内面まで描き出した好演も、最後の謎解きの見事さも、全て台無しにした。

それだけではない。
そうしたところが気に障ると、いらぬところまでも気になる。
必要以上のアップでは女優のメイクの粗を浮き立たせ、中途半端な引き絵ではセレブの家とは思えない安っぽさが見えてしまう。
そうして駄作への道をまっしぐらに走ることになった。

きっとこの原作は秀作といえるレベルのものだったのだろう。
結末がそれを物語っている。
この制作者たちは何度でもこの作品を視て、猛省するべきだ。

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