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ニュースの浅薄さを晒した高速代値下げ


3月28日から期間限定で高速料金が値下げされたという。
ETCでの支払いに限定されているというが、どこまで走っても1,000円。
都心部など一部の路線は対象外だというが、ずいぶん思い切った政策だ。

テレビのニュースでは値下げスタート以前から、ETCを購入者が増え、品薄状態になっていること。
渋滞が頻発する路線や、サービスエリアの駐車場などの対策が急がれていること。
利用者減が予想されるフェリーを運航している会社の不満の声。
また、マイカー利用者達の旅行の予定のインタビューなどによって期待感を募らせていた。

値下げ当日は、ヘリまで飛ばして東名高速の混雑状態をレポートし、アクアラインを使ってドライブして「本当に1,000円だった!」と大きな声を張り上げていた。
海ホタルでは利用者の声。
「行動半径が広がって、これからもマイカーを利用することが多くなりそう」。
黒磯・板室ICオープンに観光客が増えると喜ぶ黒磯市長の談話。
真に値下げ万歳!ナイスな経済効果政策!の空気に満ちていた。

私は元は大の車マニアだったのだが、今は売ってしまったのでこの恩恵を受けることはできない。
だから、というわけでもないのだが、この値下げについては冷静に見つめている。
そうすると、いろいろなことが「それでいいのだろうか?」と思えてくる。

第一に、ETC装着車が伸び悩んでいたことの打開策ではないかという疑念。
国土交通省がETC導入後ずいぶん長い間利用率が上がらなかった。
いまはようやく75%くらいまでになっているというが、それもいろいろな割引制度を乱発したことの所産だ。

ETCは単に料金支払い時の渋滞緩和が目的とされているが、それだけで国土交通省が普及に躍起になるはずはない。
その先の狙いは、物流システムの再構築と効率化の推進だ。
そのためにはどうしても利用率を上げなければならないわけだ。
今回の値下げがその最終手段なのではないか。

それから、気になるのはテレビや新聞の取り上げ方だ。
いずれも観光や行楽という視点からばかり取り上げていた。
だが、そもそも道路、なかでも高速道路というのは狭義の物流をベースに考えるべきではないのか。
だから、今回の値下げもそうしたところから見つめてゆく必要があったはずだ。
それでこその経済効果策なのではないか。
単に行楽のメリットというだけではそれ程の経済効果があるとは思えない。
現に、鉄道やバスなど公共交通機関の利用者が減り、行楽地の旅館やホテルは宿泊客が減っているというではないか。
一方、物流における輸送費の減少はもっともっと大きな効果が期待できるはずだ。
例えば、スーパーの野菜が10円安くなる…というような。

こうしたこと以上に大きな問題を含んでいるということを不安に思う。
それは地球温暖化問題。
昨日まで、炭酸ガスの削減問題をことあるごとに取り上げていた。
なのに、今回の値下げによってもたらされる炭酸ガス排出量の増加についてはNHKすら言及していない。
例えば、どこかの局のニュースで、ある場所での炭酸ガスの排出量の比較などしているところがあったか。

京都議定書による日本の削減義務の達成が疑問視される中、この値下げによる増加はどれほどなのか。
そうしたことを一般の人につきつけるという発想はないのだろうか。
ついこの間まで未来の子供達のためになんていっていたのはどこに行ったのだろう。
未来の子供より今の快楽を優先したということなのだろうか。

テレビに限らず、ジャーナリズムが視聴者に伝え、訴えるべきことは事象の表面だけでよいはずはない。
その真の狙いや、それがもたらす根本的な問題から目をそらせているのならメディアとしての責任を果たしていないのではないか。
もし、そうしたことにすら思いが至らないのであれば、それはメディアではない。
本当にジャーナリズムが充実しているのであれば、高速料金の値下げがもたらす問題のあれこれをはっきりと明らかにするべきではないか。
それと同時に、高速代は本来無料になってよいはずというところにも立ち戻って考えるのも良いのでは…?、とさえ思う。

事象の本質を伝えないメディアにこの先どれほど期待してよいのか。
心配になってしまったのは私だけだろうか。
単に私がそうしたニュースに出会っていないだけなら良いのだが…。

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