スキップしてメイン コンテンツに移動

テレビが伝えるべきこと


まだまだ予断を許さない状況とはいえ、地震と津波は未曾有の爪痕を残して少しづつ平静に向かっているようだ。

テレビは「生」の強みを生かして押し寄せる津波の破壊力を私たちに伝えた。
その映像は自然の力と驚異を私たちの胸に焼付けた。

それに加えて原子力発電所のトラブルという副産物。
刻々と推移する原子炉の状況。
それに対抗するために講じられる対応策。
最近では稀な緊張感を持ってテレビは「今」を伝えている。
これこそが、テレビというメディアの存在感だと久々に感じた。

ところが、収束の動きが見え始めると途端にダメなテレビの顔に戻ってしまった。
一般の人が撮影した、津波が町を破壊する映像。
それを体験した被災者のコメント。
救済活動の際の悲喜こもごものドラマ。
避難場所に集められた被災者の悲惨な姿。
被災前と後との比較で浮き彫りにする津波の爪痕。
まるでコピペのよう専門家の説明。
これらを「モーいいよ!」といいたくなるほど繰り返す。
こうして被害の甚大さを何度も上塗りすることに躍起になっている。

本当にこれでよいのだろうか

そんな涙を誘発しても何も生み出さない。
テレビは過去の出来事を増幅するメディアではないはずだ。
少なくとも私はそうした情報になんらの興味も湧かない。

いくら人の視線に近い映像だとしても、津波の猛威は生で伝えられたほどの力は持っていない。
それはちょうど結果が分かっているスポーツ番組を見るのに等しい。
今回の地震の発生のメカニズムを解説していることすら無意味に感じる。
だから、私たちは何をどうすべきなのか…
そうした方向性は一切見えてこない。

テレビは未来に向けての「今」を伝えるべきではないのか。

被災者の前に横たわる問題は山積している。
被災者やその関係者のために役立つ情報。
ケガ人の治療の現状。
孤立している人たちの救助。
人の命にかける多くの人々の奮闘、苦闘。
小さくなってきているが、油断してはいけない今の津波。
それらは被災するという現実を、見る人に強く訴えるはずだ。

津波がなぎ倒したビニールハウス、破壊した田園風景。
塩水に浸された土壌はどのように復活させるのか。
米や野菜などはまた作れるようになるのだろうか。
分断された物流システムはいつになったら元に戻るのか。
被災していない土地の今は?
こうした問題に目を向けることは、津波を被災地だけの問題に止まらず、日本中の問題として大きな意味を持ってくる。
そこから波及して見る人に起こる「自分に何ができるか」の気持ち。
そうした明日に向けての可能性を広げる動きを提起する報道をもっと意識すべきだ。

テレビの世界にいる者は、テレビというジャーナリズムの原点をもっと突き詰めるべきだと思う。
元テレビ屋として、テレビ報道に大きな疑問を持たずにはいられない。

コメント

このブログの人気の投稿

笑われるタレントの時代がまたやってきた

「 クイズ・ヘキサゴンⅡ 」が絶好調のようだ。 それは視聴率の面からだけでなく、番組の勢いという面、制作サイドと出演者の疎通という面なども含めてのことだ。 それは島田紳助さんがヘキサゴンファミリーと、主なレギュラー出演者たちを呼ぶなどからしても、よい空気感が伝わってくる。 少なくとも今のところは出演者それぞれが存在感を得ている。 その正月特番で、この番組から誕生した羞恥心が音楽活動を休止することになった。 真に2008年を疾風のごとく日本中を席巻し、1年足らずの間で音楽界に一つの足跡を残す活動をしたといえるだろう。 番組が生んだ副産物とはいえ、その勢いはたいしたものだった。 この番組が生み出した『オバカタレント』は芸能界に新たな1ジャンルを築いたことも見逃せない。 今までクイズ番組といえばANBの「 クイズ雑学王 」のように正解率の高いに人にスポットライトが当たるものだった。 しかし、ヘキサゴンではタレントたちの無知さを笑いの種とすることでオリジナリティーを勝ち得ている。 ただ、羞恥心をはじめPaboのメンバーたち、残念ながらオバカのほかにこれといったキャラクターがないようで、他の番組に出てもまったくおもしろくない。 紅白歌合戦でも四文字熟語などいわされていたが、会場から笑いを誘うことはなかった。 やはり島田紳助さんの父親の愛すら感じさせつつの突込みがあってこそ生かされているということだろう。 そんなブームに肖ろうというのだろうか、日本テレビが1月3日に「 おとなの学力検定スペシャル 小学校教科書クイズ!! 」なる番組を放送していたが、これが惨憺たるでき。 単なるパクリで、局の姿勢を疑いたくなるような番組だった。 ヘキサゴンファミリーのメンバーも出演していたが、まったく持ち味が生かされていなかった。 こんな番組を作っていたら、日本テレビはこの先もジリ貧状態が続くに違いない。 ところで、ヘキサゴンファミリーを見ていて思い出すことがある。 だいぶ昔、業界では大御所といわれていた先輩から教えられた。 それは、文化や流行はおよそ18年毎に繰り返すということだ。 そんな面から考えると、確かにオバカタレントといわれる人たちが人気を獲得しているのも理解できる。 彼らはけして視聴者を笑わせているのではなく、笑われるタレントだ。 18年前を振り返ると、確かに同じようなタレントが登場し...

寂寥だけが残った時代劇

田村正和さん久々の時代劇を視た。 テレビ朝日の「 忠臣蔵 音無しの剣 」。 10年ぶりの時代劇出演だそうである。 高貴な身分でありながら、わけあって市井に暮らす浪人結城慶之助を演じた。 忠臣蔵、赤穂浪士討ち入りの裏にあった人間ドラマだ。 もちろんフィクションだが、愛する女性のために動いた剣士の物語。 番組のサイトによると、江戸時代の『カサブランカ』、大人のラブストーリーなのだそうだ。 結論からいうと、辛く、寂しさだけが残った。 田村さんに若かりし頃の「眠狂四郎」のあの美学は消え失せていた。 スッとしたあの立ち姿、狂気さえ感じられた殺陣、数少ない台詞の間に見せる孤独感。 真に白磁のような美しさが眠狂四郎にはあった。 それは映画で市川雷蔵が演じた眠狂四郎とは異なる眠狂四郎像を鮮烈に作り出していた。 今回の作品では、その全てが過去の遺骸としてのみ存在していた。 なのに、それを制作サイドもご本人もそれを求めてしまっていたことが、視る者の心を辛くさせるものになっていた。 年齢を隠せないアップ。 形のみトレースしていた立ち姿。 とても剣豪とは思えない殺陣。 そしてそれを補えないカット割。 「眠狂四郎」を念頭においていたがために、より一層厳しく現実を突きつける形になってしまっていた。 ストーリーは、そんなことがあってもおもしろいな思わせるもので、昔の恋人だった和久井映見さんのために尽くす主人公は真にカサブランカのハンフリー・ボガートをイメージさせるものだった。 そんな設定がおもしろかっただけに、もう「眠狂四郎」の遺影である必要はなかったのではないか。 新しい田村正和の時代劇を作り上げて欲しかった。 それはちょうど、古畑任三郎という正反対のキャラクターを演じたように。 やはり過去のイメージが強ければ強いほど、それを払拭するというのは難しいものだということを実感させられてしまった。

許せない番組

今、どうしても許せない番組というのがある。 嫌いな番組ならチャンネルを替えるとか、スイッチを切るとかするということは十分理解している。 またどんなにショーモナイ番組でもテレビ局や制作会社のことを考えれば、致し方ないながらも納得する了見もあるつもりだ。 しかし、企画が存在していること自体が許せないという番組というのも、ごくごく稀ではあるがあるものだ。 それはNHKの「 世界一周!地球に触れる エコ大紀行 」という番組だ。 二人のアナウンサーが北半球と南半球をそれぞれ一周しながら世界各地のエコツアーに参加するというものだ。 企画の上では「大自然の魅力を体感しながら、地球に迫る危機や自然や生き物の保護の重要性をみつめ(番組サイトより)」るということらしい。 私がなぜこの番組を許せないか。 第一に、エコツアーというのは、その志の高さはともかく、レジャーである。 アナウンサーを遊びに行かせるために私はNHKに受信料を払っているわけではない。 加えて、どのツアーに参加しても彼らはまるで観光客、または安っぽいタレント並みのリアクションしかできない。 これも許せないところだ。 第二に、エコツアーを紹介することで、当然のことながら観光客が増えることが予想される。 そのことは、危機に瀕している地球の自然を壊す一因となることにつながる。 その自然を破壊することにつながる番組を作りながら、自然保護の重要性を謳うという矛盾。 そんな欺瞞的な番組を許せるわけがない。 第三に、エコツアーを開催すること自体が、自然はおろか、古来からそこに住んでいた人々の生活や文化を破壊しているということに目を向けていないことだ。 特に深刻なのはこのことだ。 私は5年近くバンコクに住んでいた。 タイでは自然保護と人間の伝統や文化の保護という問題に突き当たっている国の一つだ。 タイ北部チェンライという町から山の中へ入ってゆくとメイホンソン村がある。 カレン族という山岳民族の村で、首長族の村として知られている。 カレン族をはじめ山岳民族たちは古来から移動を繰り返しながら、焼畑農業と山から木材を切り出すことで細々と生活を送ってきた。 彼らの生活はけっして自然を破壊するものではなかった。 ところがタイ政府は自然保護の観点から森林の伐採と焼畑を禁止する法律を定めた。 加えて山岳民族の多くをタイ人として認めたために、彼らは定住...