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テレビって誰のためにあるのだろう


テレビは誰のためにあるのかという根本的なことを考えた人がいるだろか。
NHKのような公共放送(とNHKの人はよくいいます)と民放とではその答えは異なる。
ただ、普通考えられるのは番組にお金を出している人のため、というのが分かりやすい回答だろう。
NHKなら受信料を払っている人。
民放なら番組のスポンサーということになる。
だから、テレビ事業という面から見て極端な言い方をすれば、民放は視る人のことなど考える必要はない。
スポンサーの喜ぶ番組だけ流せばよいということになる。
私たちはそれが気に入らなければ、視なければよい。
スポンサーは自社の製品なりを広告するわけで、それには多くの人に見てもらわなければ効果が薄い。
だから、テレビ局という専門家に多くの人が見たがるような番組を作ってもらい、その代償として広告料を払っているわけだ。

これが、NHKとなると話は違う。
NHKの収入を負担しているのは私たちである。
厳密にいえば、受信料を払っている人(私はきっちり払っています)である。
だから本当は視聴率獲得に躍起となるのは、本当ならNHKであるべきなのだ。
少なくとも、視聴率が低いということは視聴者の満足を満たしていないということに通じる。
それなのに、良質の番組を製作しているから視聴率は低くても仕方がないなんていう隠れ蓑を言い訳につかったりする。
それに、視聴率獲得に躍起になるよりは、良質の番組を作れなどということをノタマウ消費者団体があるのもおかしい。
その昔、低俗番組といって数々の番組を葬ってきた人たちだ。
それはともかく、ことNHKに限っては本当はそんなことをいっていてはいけないのだ。
どんなに良質の番組を作っても、それが視聴率をとらなければNHKの使命は完遂されたとはいえない。
いってみれば、今の麻生政権と同じことだ。
ご本人が、どんなに国民のための政策を行っているといっても支持率が下がってゆくのであれば、それは国民がその政策を認めていないということだ。
でも、彼らはまちがっても、良い政策を行っているのだから支持率が下がるのは仕方がないとはいわない。
今の閣僚たちは支持率がいくら下がっても、5年先、10年先の日本がより良い国になるよう数々の政策を講じている(と思いたい)。
そして、それが一日も早く国民に認められて支持率が上がることを期待しているに違いない。

私はテレビの世界に入って以来、民放の視聴率競争には否定的な考えを持っている。
ただ、今年北京オリンピックで敗戦した柔道の選手たちがいっていた、「強い人が勝つのではない。勝った人が強いのだ。」という言葉はテレビにも当てはまるとは思っている。
マスメディアというテレビの立場を考えれば、「高視聴率をとった番組は良い番組だ。」という考え方を否定することはできない。
しかし、逆に低視聴率の番組だから、悪い番組かといったらそうとは限らない。
それは、大会ではコロコロ負けてしまうけれど、一本勝ちにこだわり続け、きれいな柔道に取り組み続ける柔道家を批判できないというのに通じる。
でも、残念ながら試合に負ける選手は代表の座を追われ、新しい選手が登場することになるわけで、それは番組が終わってしまうということとも通じるのである。

冒頭に書いたように、民放はスポンサーのためにあるのだから、今のように各局が似たような番組をつくっている形というのは変なのかもしれない。
民放なればそこ、ニュースやドキュメンタリー専門チャンネルとか、バラエティー専門チャンネル、ドラマ専門チャンネル、スポーツ専門チャンネルのように局毎にその専門ジャンルで分けるのも一つの考え方だと思っている。
そうすれば、それぞれのジャンルの番組の品質が向上し、今のようなつまらない視聴率競争はなくなるはずだ。
今はそうした専門分野化は「CS放送にお任せ」というようになっているけれど、それってどうなのだろうか、とかねがね思っている。
総務省の方、ぜひご一考下さい。

翻ってNHKである。
NHKの人たちが自分たちは公共放送であるというのであれば、その言葉に甘えるのをやめるべきだ。
今の、民放のものまねのようなバラエティー番組や、自分たちの理念という楯をかざして視聴者=国民のニーズに目を向けない姿勢は改めるべきだ。
前にも書いた、「良質の番組を製作しているから視聴率は低くても仕方がない」という考え方からは即刻決別しなくてはいけないのだ。

そして私たちは、NHKに限らず民放も含め、つまらない番組ならば、即刻チャンネンルをかえましょう。
どこの局にも見たい番組がなければ勇気を持ってスイッチを消しましょう。
それが私たち視聴者が持っている最大で、絶対的な権利なのですから。
そして、その方が、良い番組を作ることにつながるし、省エネでエコにもつながります。

今回のタイトルはNHKよ甘えるな!にした方がよかったかな。

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