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「タビうた」というチャレンジ


1月2日11:20からNHKで「タビうた」という番組を視た。
「タビ=旅」とタイトルされているものの、これはいわゆる旅番組ではない。
岩崎宏美さんと平原綾香さんが長崎の町のそこかしこで歌を歌うという番組だ。
そして同行した女性写真家の撮影した写真がそれぞれのシーンを締めくくるという構成だった。

だから、絶景を見て、高級旅館で温泉につかり、地元の味に舌鼓を打ちながら、騒がしくとってつけたような感嘆詞連発なんていうシーンはない。
せいぜい、中華街でちゃんぽんと皿うどんを食べるくらい。
そこでの話題も、平原が岩崎を男っぽい性格で驚いた、というような話だ。
けっして、視聴者に旅する心を喚起し、誘発させる情報を並べ立てるものではない。
それは、私の中では音楽をベースにしたドキュメンタリーとして、そして良質の紀行文を読むような充実感をもたらしてくれた。
番組の中で歌われる二人の持ち歌は、長崎のいくつかの場所で歌われるということで、スタジオやホールで歌われるのとは違った生命を与えられていた。
その、聴く人の心が心地よい潤いで満たされるような歌の世界は、きっと作詞家、作曲家でさえも想定していなかったに違いない。
例えば…
平原の父は長崎の出身だそうで、彼の幼稚園時代の先生のところを平原が訪ねる。
100歳を過ぎて今も現役の園長先生が、平原の父に伝えてほしいと人生の心構えを語る言葉。
その言葉を自分に語られたものとして受け止め、涙するその娘。
そしてその後に長崎美術館の屋上庭園から港を背景にして歌われた「カンパニュラの恋」は、歌詞が本来表現している恋とは違った、もっと深い愛情を感じさせる効果を生み出していた。

また、史跡としての歴史を刻んだ料亭で歌われた岩崎宏美の「思秋期」。
『青春は忘れもの 過ぎてから気がつく』という阿久悠先生の詞と、50歳という節目にある岩崎宏美のこれまでの道のりや今の心情さえも感じさせるように心に響いた。
時を刻んだ建物が、普通の音楽番組のセットでは作れない見事な舞台となって、その詞の世界を広げていた。

番組の最後、二人が平和記念館の原爆で死んでいった犠牲者を象徴する水盤で「Jupiter」をデュエットした。
夜の水盤に浮かぶ7万個のあかりを前に歌われたその歌は、あの山古志村の被災者たちを復興に奮い立たせたものとは明らかに違った印象を私に与えた。
それは、あの原爆で無惨に死んでいった犠牲者たちへの鎮魂歌として、そして平和を誓う後世の人間の心の叫びとして、強く心に伝わるものだった。

この番組に一つ注文をつけるとすれば、歌のカット割りだ。
NHKの悪しき伝統にもなっている歌手のアップばかりというのも避けられていて、歌っている場所やその周辺の情景が美しく撮られていた。
ただ、長崎という町を見せることに心がとられ過ぎていて、彼女たちがそこで歌っているという重要なテーマが希薄になったのは否めない。
それは1曲目の「聖母たちのララバイ」で1コーラス全てを使った、浦上天主堂の外から中で歌う岩崎にハンディーで移動するカット。
「カンパニュラの恋」でも長崎美術館の対岸から撮った長いズームアウト。
もっと効果的なカット割が合ったはずだ。
そうしたフラストレーションがたまるカット割がほとんどの楽曲にあったのは惜しい。

好意的に見れば、ディレクターの思い入れが色濃く出されていたということなのだろう。
カメラ配置や連絡回線のことなど考えると、それだけの手間をかけた<情熱カット>だったといえなくもない。
だが、番組としてできあがった形で視ると、明らかに邪魔で、イラつきさえ覚える。
ひょっとすると、事前に想定していた以上に二人の存在が、岩崎、平原の歌が、そして楽曲の世界が、それぞれの今を作り上げていたのかもしれない。
ならば、現場で何らかの対応はできなかったか。
A、Bの2パターン撮影することは考えられなかったのか。
これは猛省するべきだろう。
現場でのフレキシビリティーがあれば、もっと二人のドキュメンタリーが描きだせたに違いない。

実は25年ほど前に、森山良子さんと髙橋真梨子さんで広島の町を歌で巡るという番組の企画を立てたことがある。
完成版の想定としては今回の番組のようなものだった。
日本テレビの終戦記念の特番として立案・提出したのだが、編成の担当者はその企画書をチラッと見ただけ。
ものの2~3分で没ネタとなった。
どうやら私の中にはこの「タビうた」的な番組を作りたいという意識が今も生きているようだ。

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