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重厚さが決め手のドラマが続いた


NHKの「白洲次郎」とANBの「落日燃ゆ」と太平洋戦争を挟んで比較的近い時代に生きた人のドラマが相次いで放送された。

「白洲次郎」は、戦後吉田茂首相の側近として日本国憲法の制定にかかわり、通産省を創設した人。
対して「落日燃ゆ」の主人公は廣田弘毅。
東京裁判でA級戦犯として唯一処刑された文民として歴史に名を残している。

この二つのドラマにはいくつもの共通するところがある。
第一は、どちらも事実をベースにしたフィクションであるということ。
第二は、戦争を回避することに尽力したものの、結果として力及ばなかった人間のドラマであること。
第三は、外国生活を経験したジェントルマンであり、背広が似合う宰相であった人間を描いていること。
第四に、スタイルと方法に違いがあるものの、GHQに対して従順でない人間の物語であること。
そして第五に、吉田茂がキーマンとして重要な役割を演じていること。

ただ、これほどの共通項を持ちながら、その内容には大きな差がある。

「白洲次郎」では(多分)35mmのフィルムによる映像が美しく、時に緊迫した空気感を切り取っていた。
その効果は、常にピリピリとした緊張感を漂わせる主人公の演技にもよくマッチしていたと思う。
ただ、こうした緊張感が主人公を演じる伊勢谷裕介さんの演技だけでなく、番組全体に流れすぎていて視ていて疲れる。
きっと映画であれば耐えられるのだろうが、テレビというメディアではその空気がドラマに入り込めない壁のようにも感じられた。

この作品を視ていて、「ゴッドファーザー」が知らぬ間に思い浮かんでいた。
そして無意識のうちに比較していた。
そこで気付いたのは、フィルム(的処理?)の割に室内のシーンなどで重厚感がないことだ。
「ゴッドファーザー」や「ラストエンペラー」のような深みは感じられなかった。
照明がとてもよい仕事をしていたので惜しい気がしてならない。

演技に関しては、主人公がいかにも鋭利な刃物のようで、なぜかずっと全力疾走しているような印象だ。
それは激動の時代とそこに生きた人を描くための演出だったのかもしれない。
だが、鋭利過ぎてすぐに刃こぼれしそうなもろさが感じられてしまった。
頭が切れる人というより、単にわがままな人というような印象しか伝わってこない場面もあったのは残念だ。
この点でも「ゴッドファーザー」のアル・パッチーノとの差を感じてしまった。

ただ、彼を取り巻く人達の好演は特筆すべきものだった。
父親役の奥田英二さんが表現した栄光と没落。
母親役の原田三枝子さんが演じた芯の強い耐える女の強さ。
そして、吉田茂を演じる原田芳雄さんは腹に一物を持った政治家の野心とずるさの様なものまで滲み出ていた。
こうした脇を固める人達の演技は台詞以外の部分でも、さすがと思わせる深みを感じることができた。

一方、「落日燃ゆ」はひたすら北大路欣也さんの重厚な演技が際立った作品だった。
老域に入り、真に円熟味を増した感がある。
背広を着たときの凛々しさは、他の軍人を演じた出演者の軍服以上に強い意志を主張していたのが印象的だった。
それは彼にとっての鎧であったのだろう。
真っ白なワイシャツにきりりと締めたネクタイは、収監された後、頑ななまでに自らを貫き通した姿を象徴していた。
そうしたところもひっくるめて、演技者としてより一段高い領域に入ったように見える。
今最も安定した、深みのある主人公を演じられる人だと思う。

妻役の髙橋恵子さんもさすがといえる好演だった。
自らの意思に反して時代が作り上げていってしまう夫のポジション。
増してゆく夫の責任の重さや精神的重圧をやさしく、だがしっかりと受け止める妻。
そして一足早く冥土で夫を待つべく自らの命を終わらせる強さを演じて見せた。

それに比べて脇役の人達の演技は物足りなさを感じた。
創立50周年記念のスペシャルドラマということで、いわゆる芸達者といわれる人達が名を連ねていたわりにちょっと残念だった。
加えて映像も、セットも物足りなさを感じさせられた。

ストーリーももう一つ練りきれていない感じがした。
軍部の暴走による激動の時代が描ききれていたとはいえなかったし、半ば語り部的にからんでくる三女(原田夏希)も煩かった。
もっとテーマとストレートに向き合うべきだったのではないか。

ただ、そうした不完全燃焼部分を割り引いても、北大路欣也さんと髙橋恵子さんの演技を視るだけで十分見ごたえのある作品だった。

昨年も書いたけれど、このところ各局で太平洋戦争に関連する番組が多いのはなぜだろう。
建前は日本が戦争に突き進んでいってしまった状況を見直すということなのだろうが、なぜか納得しきれない。
社会が、金融危機など戦争へと突き進んでいった時代と似てきているだけに、あの戦争を検証するには別の方法があるように思えてならない。
先日も書いたとおり、今こそテレビが試されていることをもっと切実に自覚するべきではないかと思う今日この頃だ。

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