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マラソン・駅伝中継に危機感


今日、日本テレビで「横浜国際女子駅伝」を視た。
駅伝ブームを作り上げてきたこの大会も今年で最終回だという。
このイベントのスタート当時、私は開会式などイベントの方の制作に携わっていた。
今回出場した選手のコメントに「私が生まれる前から行われている大会」というのがあり、時の流れを実感させられた。

日本テレビでは正月の看板番組「箱根駅伝」などがあり、マラソンや駅伝の中継は常に高いレベルの番組を作ってきた。
毎年、準備段階から電波障害の起こる場所を詳細に確認し、万が一のトラブルも回避できる態勢を作り上げた。
筋書きのないドラマを余すことなく見せるという姿勢は、制作技術陣も含めどの局よりも高い完成度を保っていた。

ところが、久々に視た今回の番組はどうしたことだろう。
実況をしているアナウンサーたちがこの番組を台無しにしてしまっていた。

センターに対して、第一中継車、第二中継車、バイクレポート、中継地点間の連絡がボロボロで、何度もコメントがぶつかった。
その責任は制作陣にもある。
センターでの交通整理ができていなかったし、アナウンサーとセンターの間に入るフロマネも素人並の仕事だった。
その連携の悪さは往時の日本テレビでは考えられないひどいできだった。
オンエアーモニターをつけていれば避けられたことだと思うのだが、どうしたことだろう。

そんなボロボロの中継に加えて、実況されるコメントが全くどうしようもない。
現場の臨場感を伝えるなんていうことはそっちのけで、事前に準備した原稿を読むのに必死。
これではナレーションだ。
第一中継車に乗っていたランナーズの金さんの解説などほとんど入る余地がなく、何のために乗っていたかとさえ思ってしまう。

女子駅伝ということから女子アナウンサーを起用したのはもう数年前のことだ。
女性だから理解度が低いとはいいたくないが、勉強不足ということは随所で自ら暴露してしまっていた。
中継地点でも、駅伝独特の緊迫感や期待感は全く伝わってこなかった。
私が視ることができなくなっていた間、ずっとこんな放送をしていたのかと悔しささえ感じさせられた。
何のための実況生中継なのか原点から見つめ直した方がよい。

マラソンや駅伝は高視聴率を期待できるため、毎年各局で放送される。
元々マラソンや駅伝をテレビ観戦するのが大好きな私は、そのほぼ全てを視ている。
ただ、どの局の放送からも満足感を与えてもらえないというのが悲しい事実だ。
スイッチングにしても、カメラの配置にしても、レポートにしても、この競技を理解しているかと疑問に思うことがしばしばだ。

中でも、大阪国際女子マラソンの中継は大きな問題があると思う。
この番組では、毎年大阪城の周回に入るとThe Alfeeのテーマ曲に合わせてイメージビデオ風の演出で見せる。
どうも事前にカット割までしているような感じさえある。
イメージビデオ風にしているから、その曲の間約4分くらいは、走っている選手は映っているものの、競技性はない。
何でこんなことをするのか理解に苦しむ。
制作者たちが競技を生中継するという根本を理解していればこんな演出手法は取らないはずだ。

どうしてもテーマ曲と走る女性選手たちを象徴的に見せたいのなら、競技終了後のダイジェストやスポーツニュースにして欲しい。
私たちが視たいのは競技している生の女性たちであって、演出によて美化されたものではない。
今目の前で走っているのはギリギリの闘いに集中している女性たちだ。
音楽などで美化されなくても十分美しい。

何より、まもなくやってくる仕掛け場所を前にして勝利を目指す選手たちの駆け引きや心の動きをこそ視たいのだ。
それを映し出すことに専念するべきだし、それを表現するための工夫をすべきだと強く感じている。
こんな番組を作っているとマラソンや駅伝の番組はきっと死んでしまう。
関西テレビの制作陣には猛省を望みたい。

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