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報道について怒りと共に考えた


ここ数日、タイでの反政府運動が各局のニュースを飾っている。
この騒動の直接の発端は、6月に始まった民主主義市民連合(PAD)の座り込みによる首相府占拠だった。
その頃はほとんど扱われることはなかったのに、空港を占拠するにいたって急に大きく取り上げるようになった。
日本人観光客も足止めを食うなど直接的に被害にあったのだから当然といえば当然だ。
この騒動で帰国が遅れるなど、迷惑を受けた方々、そしてその関係者にはお見舞いを申し上げたい。

ただ、これを機にまた報道というものの姿勢というか、あり方に大きな疑問を感じてしまったのだ。
その対象は広くジャーナリズムといってもよい。
ジャーナリズムは事件や事故が起こった際、危険情報を発してそこへは行くなという。これはとても重要だ。
ところが、その一方で、その危険がなくなったからもうそこへいっても安全という情報は流されることはほとんどない。
実はそんな姿勢が、どれほど多くの人々を巻き込んで、その被害を大きくしているかということには見向きもしない。
ジャーナリズムが、ニュースが、実はその事件・事故の第三次、第四次被害を生んでいるという自覚がないとしか思えない。
そんな報道・ジャーナリズムの傲慢を私は大きな疑問と共に、憤りを感じる。

実際に報道の誤った姿勢に出くわしたことがある。
2004年暮のインド洋大地震の時だ。
このときの津波はインドシナ半島の西側からモルディブ、スリランカなどに大きな被害を与えた。
タイでもプーケットは大被害を受け、多くの死傷者が出た。
日本のテレビは連日迫りくる津波と逃げ惑う人々をコレデモカ!とばかり見せつけた。
毎日「新しい映像を入手しました」とキャスターが、気のせいか自慢げにいってその映像が流された。

実はこの被害のすぐ後に私はマレーシアのペナンに行くことになっていた。
ペナンもまた大きな被害を受け、70名近い人が亡くなったと報じられていた。
私は行くのを止めようと思い、キャンセルのため宿泊予定のホテルに電話してみた。
すると予想を裏切ってホテルからの返事は「キャンセルの必要はない。ホテルに被害はなく、平常営業している。」とのことだった。
私はその言葉を信じて、また、被害にあった様子を見てみたいという気持ちもあって、ペナンに行った。
ペナンはどこも以前と同じで、行き交う人たちも平穏だった。
このときのペナン旅行については「2005年正月ペナンの現状報告」でご紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。
私はこのとき、ホテルの従業員からいわれたことばが忘れられない。
「ペナンは大丈夫だからぜひ来てくださいと、日本中に知らせて欲しい。このままでは私たちは仕事を失います。」

そうなのだ。
こうした大被害を起こした災害では、日々復興してゆく様子を、そしてそのために働く人々を写し出すことこそがジャーナリズムの持つべき姿勢のはずなのだ。
観光地にとって観光客の誘致は生命線だし、そうして集まった人たちが落としてゆくお金は当然復興にも大きな力となる。
私はペナンのホテル従業員から託された言葉をNHKの報道に投書した。

今回のバンコクの空港閉鎖も、また津波のときと同様の過ちを犯そうとしているように思えてならない。
「政情不安」、「社会の混乱」という言葉によって片付けられてしまうタイの「今」。
このままではタイに明日はないとまで感じさせるキャスターたちの現状を把握しているとはとても思えない通り一遍のコメント。
「政情不安」「政治の迷走」はその通りだろう。
だが、社会は本当に混乱しているのか。
観光客が町を歩けないほど治安は崩壊しているのか。
そんなことは決してないはずだ。
せめてもの救いはスワナプーム国際空港が開放され国際線が飛んだというニュースのみだ。

ペナンのときを思い出して欲しい。
あの時、ペナンで求めていたのは災害援助ボランティアではない。
観光客だ。
それはプーケットでも同様だった。
災害から1ヶ月もしないうちにプーケットの観光客が行くような施設は全て復興していた。
そうなってから必要なのは、そこへ行って、遊んで、お金を落とすことなのだと実感した。

タイの経済は観光産業によるところも大きい。
今回の騒動で、年間340万人ともいわれる観光客は激減することだろう。
実はそうなってからの方が、社会の混乱は起こるのだと思う。
メディアは、ジャーナリズムは国際線が飛んだというニュースと共に、平穏な、昔ながらのバンコクが今あることをぜひ報じて欲しい!と思うのは私だけかな。

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